2009年11月3日火曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


※731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
 日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!(ノブ)

※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」( 「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。 )を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)

●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)



●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅷ ニホンのハタは
日本がかすんで見える
 遠くかすかに日本をとらえた時の感動は、今でも忘れない。
 無事帰ったという安堵と久しぶりに見る日本の山々は、私たちを涙ぐませるのに十分だった。
 舞鶴からは、石炭を積む無蓋貨車で、毛布をかぶって、名古屋に着いたのは8月23日だったと思う。名古屋は、あたり一面焼け野原になっていて、私たちは改めて日本が負けたということをかみしめざるを得なかった。
 親子3人、駅の近くで焼け残った板や枕木を軍刀で切って、例の命の泉でもあったペスト菌培養のアルマイトの一斗罐で飯を焚いて飢えをしのいだ。
 そして、長野にようやく着いて私たち家族は姉の嫁ぎ先の蓮心寺でしばらく落ち着いた。
 私は家族を送り届けたら、直ちに東京へこいという指令を石井隊長から受けていたので、そこに家族を残して東京へ出向いた。他の者は来てはいなかったので、石井隊長にえらく信頼されたが、ちょっと複雑な気持ちであった。
 東京に着くと直ちに金沢へとんでくれという話であった。731部隊は、舞鶴から汽車で金沢に行き、金沢の野間神社に仮の本部をおいていたのである。釜山まで、貨車で運んだ荷物は相当なもので、これを舞鶴から金沢へ運び、いったん金沢陸軍病院の倉庫へ移したことがわかった。
 野間神社には幹部が15名ほどいた。東京から離れた、金沢の由緒ある古社の、あまり人目に立たぬ所に逃れて、幹部は、進駐軍の動きを見ていたようであった。(明日に続く)

※平房で実験していた資料などをかなり持ち帰ったのではないか?平房の現場はかなり爆破して壊したが、人体実験で得た大量の貴重な資料はこっそり持ち帰ったようである。(ノブ)


参考ホームページ

731部隊の全貌

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8

731部隊細菌戦国家賠償訴訟

731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

516部隊

大久野島(毒ガス島)

化学兵器CAREみらい基金ブログ

中国人戦争被害者の要求を支える会

根津公子さんのページ
  
 
南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

戴素芳(女、65歳)の証言

 日本軍が南京を占領した時は、私はもう18歳でしたから、母が私を隠れさせ、しかも黒い灰を顔に塗りつけ、はさみで髪の毛をみんな切ってしまって、日本軍に侮辱されないようにしてくれました。
けれども母は家にあった方形のテーブルが気になって、家に戻りました。ところが何と日本兵が人を捕まえに来たので、母は逃げ出し、転んで頭から河に落ちてしまい、活きながらにして溺れ死んでしまいました。父も毎晩逃げ走っていて、やはり河に落ちました。その頃はとても寒く、食べる物も無く、父を抱えて家に帰りましたが、間もなく病気になって世を去りました。(蒯世鋼が記録)

南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント


南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言


※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮

兵士たちが記録した南京大虐殺1

兵士たちが記録した南京大虐殺2

兵士たちが記録した南京大虐殺4

兵士たちが記録した南京大虐殺5

兵士たちが記録した南京大虐殺6

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5

南京大虐殺の真相

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )

戦争を語るブログ

「南京事件の真実」

「南京事件 小さな資料集」

「南京事件資料館」

「南京事件資料集」

南京への道:史実を守る会

「南京!南京!」が見られる映画サイト

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん、

おたがいに戦争しないと

約束した世界を。

Imagine,

A world that promises

not to fight wars

with each other.


 戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


 

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年11月2日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


※731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
 日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!(ノブ)

※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」( 「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。 )を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)

●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)




●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅶ ああ いさましや
我ラ撤収ス
 生まれたばかりの子どもや、1,2歳の赤ん坊はばたばた死んでいくのを私も見てきた。妻の話を聞くと、平房を出る時、夢中で探してきた細菌培養用のアルマイトの一斗罐(いっとかん)に水をたっぷり入れてきたのが、役立ったということであった。その一斗罐にはふたがついていて、寒天を流し込む口がついているものであった。
 私はマルタの実験での知識を生かしほとんど本能的に水が生命だと考えて、その一斗罐を探したのであった。罐に水がなくなると妻は、汽車から飛び出して水を探して走り回ったということである。また、幸い妻は資材部の車輌に乗っていたので、携行食と水で生き抜くことができたのであった。
 憲次の方は、妻の母乳で生きてきたのだ。あの大混乱と飢えの中でも妻の乳は涸れなかった。日頃から物事にくよくよせず、楽天的な妻は、下町の庶民の娘の根強さで、子どもをしっかり守り抜いて釜山までたどり着いたのである。
 いよいよ釜山の岸壁を離れ、731に通ずる大陸を後にする時は胸迫る思いがした。無事で家族と共に長野へ帰れるのかということが心配であった。
 船の中で忘れることのできないことは、子どものたくさんのオムツの洗濯であった。洗い場も何もないので、ロープの先にオムツをつけ、さらにおもりをつけ、それを釣りでもするように棒の先につるして波間で洗うのである。波に叩かれて案外きれいになった。
 本来27人ぐらいの定員の船室に、百数十人とギュウギュウづめで、食べ物も1日に握り飯1つしか与えられず、飢えと暑さとのたたかいであった。蒸気がもれて噴き出しているところを見つけ、そこで味噌汁を作ったりしたこともあった。(明日に続く)

※必死に子どもを何とかしたいという越夫婦の努力と思いが伝わってくる。
しかし、それにしても本当に大変な逃亡である。
731でやっていたことの異常なことが、戦争が終ると幹部らもその重大さを改めて認識したのだろう。(ノブ)


参考ホームページ

731部隊の全貌

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8

731部隊細菌戦国家賠償訴訟

731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

516部隊

大久野島(毒ガス島)

化学兵器CAREみらい基金ブログ

中国人戦争被害者の要求を支える会

根津公子さんのページ
  
 
南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

黄恵芬(女、63歳)の証言

 日本軍が入ってきた時私はやっと16歳で、家中で上新河まで逃げましたが、帰ってきた時は父が日本軍に捕まって行き運び人夫にさせられていて、その父が逃げ帰って来て私たちに、「日本兵はなんかと言うと俺達をげん骨で殴り脚でけり、それに皮の鞭で打ったりこん棒で打ったりし、その場でなぐり殺された者もあったりで、苦難をなめ尽くしたもんだ」と言っていましたが、間もなく血を吐いて死んでしまいました。父が死んでから、私は母について行って、金陵女子学校のヴォートリンさんの家に隠れました。そこにも日本兵が夜やって来てホアクーニャン(若い娘)を欲しがるので、間もなく私たちは家へ戻ったのですが、家の4軒あった家屋がみんな日本軍に焼き尽くされていました。私たち一家は住む所が無く、生活していけずに、外に露店を出すしかありませんでした。ある日、私は日本兵が1人、懐妊している婦人のお腹を、銃剣で切り開いて、子どもをほじくり出し、という風にしてその婦人が活きたまま刺し殺されたのをこの眼で見ました。(蒯世鋼が記録)

 

※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮

兵士たちが記録した南京大虐殺1

兵士たちが記録した南京大虐殺2

兵士たちが記録した南京大虐殺4

兵士たちが記録した南京大虐殺5

兵士たちが記録した南京大虐殺6

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5

南京大虐殺の真相

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )

戦争を語るブログ

「南京事件の真実」

「南京事件 小さな資料集」

「南京事件資料館」

「南京事件資料集」

南京への道:史実を守る会

「南京!南京!」が見られる映画サイト

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん、

武器をつくったり

売ったりしない世界を。


Imagine,

A world that doesn't

make or sell weapons.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)
 

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年11月1日日曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


※731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
 日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!(ノブ)

※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」( 「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。 )を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)

●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)




●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅶ ああ いさましや
我ラ撤収ス
 いつソ連が襲ってくるかという不安と、真っ暗な密室の中の暑さと飢えは、人間の限界をこえていた。気が狂って飛び降り自殺をする娘や、死んだ乳飲み子が腐乱しているのに抱きしめ続ける母親だとか、これ以上の生き地獄はなかった。
 私も、妻と次男の憲次がどこに乗っているか確かめる余裕などなく、業務に追われていた。そんな時貨車の中でお産があり、なんとか無事生ませたが、赤ん坊は間もなく死んだ。乳飲み子が生きていける条件は全くなかったのだ。
 汽車が止まるたびに線路の脇に小さな土饅頭がつくられた。いざという時にと渡された青酸カリを飲んで、自殺した将校婦人が、私の知る限り2人もあった。長野県出身のある技手も、おかしくなってわけの分からぬことをいい始め、気がついたらいつの間にかいなくなっていた。気の狂った人は女性の方が多かった。
 10日もかかって、ようやく釜山に到着した。私は妻が乗っていると思われる汽車を探して走った。そしてようやく釜山埠頭で再会できた。本当に何といっていいか言葉にならなかった。お互いに「どうだった」とどちらからともなく言っただけだった。妻の背には憲次が元気でいた。私が抱き上げると、憲次は泣き出した。しばらくすると父親だということがわかったのかにっこり笑った。
 生まれてまだ6ヶ月の赤ん坊の頭は、汗もがつぶれうみが出ていた。大変な暑さのうえに風呂へも入れなかったのだから無理もない。生きていたことさえ不思議であった。(明日に続く)

※過酷な逃亡なだけに、乳飲み子や女の人に犠牲が多かったようだ!!(ノブ)


参考ホームページ

731部隊の全貌

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8

731部隊細菌戦国家賠償訴訟

731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

516部隊

大久野島(毒ガス島)

化学兵器CAREみらい基金ブログ

中国人戦争被害者の要求を支える会

根津公子さんのページ
  
 
南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

徐蘭英(女、51歳)の証言

 日本の侵略軍が南京を占領した時、私は満3歳になったばかりでした。父は姓を劉と言い、あだ名を馬扣子と言っていて、その頃、父は日本軍に雑役をさせられに捕まって行きましたが、日本語が分からなくて、先ず幾つかびんたを食わされ、それから銃剣で続けざまに幾太刀も突っつかれ、腸がみんな流れ出てしまい、立ちどころに死んだのですが、殺された地点は水西門外の瓦廠街51号で、旧の教会堂の後ろの河辺でした。この事は祖母と母とが自ら話してくれたのです。
(尚文蘭と孫秀蘭と夏龍生が記録)

※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮

兵士たちが記録した南京大虐殺1

兵士たちが記録した南京大虐殺2

兵士たちが記録した南京大虐殺4

兵士たちが記録した南京大虐殺5

兵士たちが記録した南京大虐殺6

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5

南京大虐殺の真相

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )

戦争を語るブログ

「南京事件の真実」

「南京事件 小さな資料集」

「南京事件資料館」

「南京事件資料集」

南京への道:史実を守る会

「南京!南京!」が見られる映画サイト

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん、

軍隊のお金をみんなの

暮らしのために使う世界を。


Imagine,

A world that spends

money not on armies,

but on people's lives.


 アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか。
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年10月31日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


※731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
 日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!(ノブ)

※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」( 「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。 )を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)

●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)


●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅶ ああ いさましや
我ラ撤収ス
 8月13日は、部隊最後の引き揚げの日だった。私たちは最低しなければならない証拠隠滅をすばやくやり終えて、追われるように汽車に飛び乗った。妻たちを乗せた前日出発した汽車を追いかける形になった。
 かなりのスピードで走っていた汽車が、急にストップした。車窓からのぞいてみると、前方に妻たちの乗ったあの長い車両が見えた。けたたましい蒸気の音と車がスリップする音が交差して異様な音を出しながら、車体はまったくといっていいほど動かないのである。
 平房から一昼夜かけて、わずか15,6キロしか進んでいなかったのである。
 早速、私たちの機関車を連結して引っ張ることになった。作業は手早く行なわれて、ようやく汽車は動き出した。
 なつかしいハルピン駅を通り過ぎる時、遠くで夜空が赤々と燃え、照明弾が時折落ちていた。ソ連軍の攻撃の中、私たちは進まねばならなかった。
 それ以後も、汽車はゆるやかな丘にぶつかると止まってしまい、いつ動くか分からない。たとえ動き出しても、又どこで止まるか分からない不安があった。特に、「731部隊は皆殺しになる」という噂が乱れ飛んでいたので、車輌の中は異様なあせりと不安があった。
 また、機関士に北朝鮮系の者が多かったようで、彼らは「朝鮮独立」を叫び、機関車の頭を松葉で飾るなど興奮状態で、しばし持ち場を離れた。私たちは仕方なく、銃剣や拳銃で嚇したり、すかしたりして列車を走らせた。
 だいたいハルピンから新京まで普通6,7時間で走るのに、この時は3,4日もかかってしまった。(明日に続く)

※ずいぶん多くの貨車を引きずっての逃亡だ!!ソ連軍が迫っているから、心理的にもパニックになっていたと思う。(ノブ)


参考ホームページ

731部隊の全貌

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8

731部隊細菌戦国家賠償訴訟

731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

516部隊

大久野島(毒ガス島)

化学兵器CAREみらい基金ブログ

中国人戦争被害者の要求を支える会

根津公子さんのページ
  
 
南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

武金山(男、68歳)の証言

1937年の12月13日に、日本軍が南京を占領しました。14日に叔父が私と一緒に難民区に行きましたが、家には年取った母が行かないでいて、日本軍に7太刀突っつかれて殺されました。その頃家は茶館をやっていて、もう1人の働き手も刺し殺されました。3日して、死体を片付けに帰って行ったところ、王府巷の角まで行ったら日本軍に捕まって連れて行かれ、死人を焼くのに薪を運ばされることになり、焼き終わってから放たれましたが、進香河まで来た時、道に死人がたくさん見えました。
(尚秀華と厳紹英が記録)

 
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮

兵士たちが記録した南京大虐殺1

兵士たちが記録した南京大虐殺2

兵士たちが記録した南京大虐殺4

兵士たちが記録した南京大虐殺5

兵士たちが記録した南京大虐殺6

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5

南京大虐殺の真相

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )

戦争を語るブログ

「南京事件の真実」

「南京事件 小さな資料集」

「南京事件資料館」

「南京事件資料集」

南京への道:史実を守る会

「南京!南京!」が見られる映画サイト

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん

世界から戦争のなくなった

平和な世界を。


Imagine,

A peaceful world 

without war.


でも、どうやったら

そんな世界が

やってくるのかな

一つひとつ考えてみよう。


But,how can 

such a world be made?

let's think about it.


 

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年10月30日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


※731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
 日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!(ノブ)

※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」( 「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。 )を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)

●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったのか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったのか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。
 そのため、731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)


●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅶ ああ いさましや
松花江にすてたマルタ
 しかし、今はただ黒いうねりと、はてしなく涛涛と流れの音がこだましているだけである。カマスが落ちるとき、小さい音がして、黒い河面に波頭が光った。その間も、火こそ見えなかったが、花火の音のようにドカン、ドカンと部隊の建物を破壊する音が、時々風に乗って聞こえてきた。
 スンガリの流れは、カマスも爆破音もすべてのみ尽くして、暗闇に吸い込まれるように流れていた。
 作業が終了した時は、夜が白々と明けていた。私は長い運転歴の中で、一度も居眠り運転をしたことはなかったし、寝不足で深夜に及ぶ作業の時も睡魔に襲われたこともなかったが、この時ばかりは、何度かハッとしてハンドルを握りしめたものである。
 頭はかえって妙に冴えているのに、眠気と疲れが足元から上がってきて、体全体がだるく重くなり、ずるずる地の低にずり落ちていくようだった。
 焼け跡と化した部隊へ帰った時は、まったくふらふらで、運転台から降りる力すらなかった。「終った、すべて終った・・・」。私は波間に吸い込まれる様にして、そのまま運転台で意識を失った。多分その日は8月12日の朝であったと思う。(明日に続く)

※証拠隠滅に日本軍は必死であったことが分かる。今でも政府は731部隊の人体実験についての見解を示さないだろう。認めると大変なことになるからだ。(ノブ)


参考ホームページ

731部隊の全貌

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8

731部隊細菌戦国家賠償訴訟

731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

516部隊

大久野島(毒ガス島)

化学兵器CAREみらい基金ブログ

中国人戦争被害者の要求を支える会

根津公子さんのページ
  
 
南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

林玉紅(女、58歳)の証言

 1937年の12月に、祖母と父と母とが兄弟姉妹8人を連れみんなで11人で、毛公渡の近くの沈家村まで難を逃れ、親戚の家に住まいました。日本軍が南京を占領した後、ある日、日本兵の一隊がそこまでやって来て、母を侮辱しようとしたので、母は反抗して日本軍に銃殺されるという目に遭いました。芦柴洲で父も捕まって行き殺害されました。祖母が兄弟姉妹8人を引き連れ苦しい日々を送っていました。明くる年に、姉が父母のやられたことで、余りにも嘆き悲しみ鬱々として死んで行きました。
 そのほかにも、1937年の冬月11日に、私は10何歳かの娘さんが、渡し船に乗っていて、日本軍に撃ち殺されたのを見ました。同じ日に、酒を飲んだ日本兵が1人天秤棒で農民を数人殴りつけて傷つけ、王さんという爺さんを殴り殺しました。以上はみんな同じ日に沈家村で起こった事なのです。
(肖中煌が記録)

※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮

兵士たちが記録した南京大虐殺1

兵士たちが記録した南京大虐殺2

兵士たちが記録した南京大虐殺4

兵士たちが記録した南京大虐殺5

兵士たちが記録した南京大虐殺6

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5

南京大虐殺の真相

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )

戦争を語るブログ

「南京事件の真実」

「南京事件 小さな資料集」

「南京事件資料館」

「南京事件資料集」

南京への道:史実を守る会

「南京!南京!」が見られる映画サイト

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

MESSAGE(メッセージ)


 環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年10月29日木曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


※731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
 日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!(ノブ)

※今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」( 「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。 )を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
 あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)

●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったのか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったのか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。
 そのため、731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)


●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。


731部隊

『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅶ ああ いさましや
松花江にすてたマルタ
 マルタの骨は熱くて、すぐ拾えるものではなかった。カマスに骨を入れ終わった時は、暗くなりかけていた。私たちは、そのカマスをスンガリ(松花江)に運んで、捨てることになった。私たちはタテに縄をかけたカマスをトラックに積み込んだ。カマスは意外に重く、運び上げる時ガサガサ骨のきしむ不気味な音がした。カチカチ鳴るのは足錠や手錠であった。そのカマスは200ほどになった。
 どういうわけか運転士は私1人であった。部隊からスンガリまで20キロの夜道を、人骨一杯のカマスを山と積んで、1人走るのは並大抵な仕事ではなかった。スンガリに着くと、バックで車を堤防につけ、河にカマスを投げ込むのである。堤防には5,6人の隊員が待っていて、一つひとつカマスの口を結んだ縄をはずして放り投げる。水流で骨がカマスからとび出し、河底に沈むように、最後まで証拠隠滅には気を使ったのである。
 その夜、月も星もない深夜、私は延べ約160キロ、部隊とスンガリの1本道を4回往復した。

 スンガリは私の好きな河であった。広い河で向こう岸がかすかに臨める程であったが、私はふるさとの千曲川を時々想い出し、妻を連れてボートで遊んだこともあった。河の真ん中に太陽島という小島もあって、美しい流れに色を添えていた。(明日に続く)

※遺体を濠に埋めたり、河に捨てたりと、証拠隠滅は徹底していた。戦後、731部隊のことは何十年も隊員自らの口から語られることなく過ぎ、残虐な様子も国民にはなかなか伝わってこなかった。今でも証拠隠滅作業は続いているように思う!!(ノブ)


参考ホームページ

731部隊の全貌

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8

731部隊細菌戦国家賠償訴訟

731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)

516部隊

大久野島(毒ガス島)

化学兵器CAREみらい基金ブログ

中国人戦争被害者の要求を支える会

根津公子さんのページ
  
 
南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

傳永成(男、57歳)の証言

1937年の冬には、私はもう満10歳でした。私は日本軍が中華門から入ってくるのをこの眼で見ました。あの時は、お金のある人たちはほとんど逃げていってしまい、貧しい人たちや商売をしている小商人たちだけが残っていました。私は街で、日本軍が銃で街角で団子を売っていた人を撃ち殺したのを見ましたが、父が銃声を聞いて、私を家に呼び返し、門をしっかり閉めさせたのを、日本軍がその家の門をこじ開け、父の傳寿琪を街まで引きずって行って銃殺しました。日本軍はそれに私たちの内庭の査さんという男の人を引きずり出して、刀で首を斬りおとし、その母親も息子の殺されたのを見て、日本軍に武者ぶりついて格闘すると、日本軍に脚でけり殺されてしまいました。日本軍は私も引っ張り出して、ズボンを引きずり下ろすと、男の子だったので、やられないで済むことになりました。私たち長楽街では日本軍にみんなで20人余り殺害されたのですが、日本軍はその死体を集めて来、火を放って焼き捨て、跡形もなく消し去ろうとしたのでした。しばらくして、私たちが上海路の難民区に行ったら、日本軍が毎日人を捕まえ殺しに来ていて、私たちが難民区に住まい始めた翌日に、日本軍はトラック10数台に捕まった青年を積み込み、下関の江辺まで運んで行き、機関銃で掃射し、その人たちをことごとく殺害したのです。 (王天柱と達式宏が記録)

※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮

兵士たちが記録した南京大虐殺1

兵士たちが記録した南京大虐殺2

兵士たちが記録した南京大虐殺4

兵士たちが記録した南京大虐殺5

兵士たちが記録した南京大虐殺6

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.

NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5

南京大虐殺の真相

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )

戦争を語るブログ

「南京事件の真実」

「南京事件 小さな資料集」

「南京事件資料館」

「南京事件資料集」

南京への道:史実を守る会

「南京!南京!」が見られる映画サイト

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

はじめに


 戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年10月28日水曜日

国の公式見解?変わるか!!

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日本政府の姿勢
これまで、越さんが証言し、また多くの731部隊員が公衆の面前で証言しているにもかかわらず、今のところ、日本政府の姿勢は以下の通り。何でこんな明らかな問題に事実を認める返事が無いのか?不思議でならない!!過去を隠したい?
 もはや昭和天皇に戦争責任がかかるのを恐れているとしか考えられない。

 メールを各機関に送っても何の返事も無く、口をつぐんでしまう。

今は政権交代したばかりで民主党は大変忙しいのか?
今後どのような返事が返ってくるか楽しみだ!!
 過去の問題にどう向き合うのか?今日本は借金を抱えて大変なことは分かる。
でも、歴史の闇に葬り去っていいのか!!今後の対応に期待したいところだ!!

 かつて小泉首相は、やたら、「未来志向」を強調し、過去を無視し続けた!!そして、公然と靖国に参拝し、アジアの国々から、猛然と批判を受けた。

 731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?

 これだけの犯罪行為をしたにもかかわらず、その隊員たちは裁かれること無く、戦後医学界で何人も出世を果たした!!
 その結果、医学界の体質は戦後も変わらず、ミドリ十字の「薬害エイズ事件」に代表されるいろいろな医療事件・事故が起きている。

国の公式見解 

731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。

東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
 東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
 すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
 さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
 しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
 一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。


資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。

以上「731部隊展  1993.7-1994.12」より
       発行日     1995年2月11日

(追記)
【もう1つ私自身に関する経験を具体例として示そう。1988年8月10日、アメリカのサンディエゴにおいて「科学、技術そして責任―日本の細菌および化学戦」というシンポジウムが行なわれ、筆者も講演者の1人として話をした。筆者は本書にも書いているように、石井部隊が中国で細菌戦を行なったこと、そして部隊では本当に人体実験が行なわれており、人体実験は日本の医学会では「公然の秘密」であったことを講演した。
 幸いこのシンポジウムは翌8月11日の「ロスアンジェルス・タイムス」にかなり大きく取り上げられた。アメリカではこの種の記事の場合、反対側のあるいは何かを言われた側の意見も聞くのが通例のようで、記者のリンダ・モンローはワシントンの日本大使館の広報担当のイマイ・オサムに取材している。イマイは次のように述べている。「日本政府は細菌戦の実験が行なわれたことを確認することも否定することもできない。日本政府はいわれている中国での実験についてなんの記録も持っていない。戦時中の記録はすべて廃棄されており、したがって私どもとしては知らないとしかいいようがない」。
 戦時中の記録はすべて廃棄されているわけではない。アメリカ軍は石井部隊に関しては膨大な資料を持ち帰ったが、1950年代の末あるいは60年代の初めに日本に返還したと言っている。これは1988年9月17日に下院で行なわれた公聴会において陸軍の責任者、ジョン・ハッチャー博士が明らかにしていることである。この公聴会は戦争中、奉天の捕虜収容所で、石井部隊員によって人体実験された、としている元アメリカ軍人の主張についての公聴会である。
 ハッチャーの証言は確認されている。公聴会後、日本の国会図書館が調査した結果、証言の資料は1958年に返還され、現在日本の官庁のどこかが保管していることが確認された。この他にも慶応大学その他に石井部隊関連の資料が保管されている。こうした状況での先のイマイのコメントは、意識的かどうかは別にして、嘘をついたことになる。外務官僚ですら見え透いた嘘、あるいは歴史の真実から目をそらそうとする態度の積み重ねが、戦争責任の問題についての国際的不信感を醸成しているのがまだ分からないのだろうか。】
(常石敬一著:「消えた細菌戦部隊」ちくま文庫:1994年版)

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