2018年11月12日月曜日

戦争における医学者・医師たちの犯罪

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特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表


■「医学犯罪」検証のとりくみ

本誌では、一2007年9月号特集「戦争体験をどう継承するか」において、莇(あざみ)昭三(城北病院名誉院長・全日本民医連名誉会長・15年戦争と日本の医学医療研究会名誉幹事長)先生に「15年戦争中の『医学犯罪』と私たちの今日の課題」を執筆していただきました。一昨年、政府与党は安保法制の採決を強行しました。
 防衛省では、安全保障技術研究推進制度が導入され、一昨年(2015年)には3億円の予算の配分が開始され、昨年は6億円、今年は110億円と急激に拡大されました。
 敗戦を契機として、まき起こった学術体制の民主的改革を求める運動の中で1949年に創立された日本学術会議では、1950年の「戦争のための科学研究には従わない声明」、1967年の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」と、2度にわたって戦争や軍事目的のための研究を拒否する誓いの見直しの動きが出るなど、軍事研究復活の動きが風雲急を告げています。


そこで、莇先生の論考以降の医学界・医療界における取り組みを踏まえて、 15年戦争中の「医学犯罪」について、いろいろ伺いたいと思います。
 今言われた一昨年からの情勢の変化を私も大変危険だと思つています。15年戦争中の「医学犯罪」を論じる際にも、その視点が重要だと思います。
 その際も、 莇先生の論考を継承すべきと考えます。
 その後の活動と検証結果を一言では語れませんので、その都度、書などにまとめられて公表されているものをお読みいただきたいと思います(以下に掲載)。

[参考となる本]
第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会編『戦争と医の倫理』(かもがわ出版、2007)、
「戦争と医の倫理」の検証を進める会『パネル集「戦争と医の倫理」』、
15年戦争と日本の医学医療研究会編では『N0 MORE731 日本軍細菌戦部隊』(文理閣、2015)、
同『戦争・731と大学・医科大学』(文理閣、2016)、
拙著『戦争と医学』(文理閣、2014、中国語版有)、
川嶋みどり共著『戦争と看護婦』(国書刊行会、2015)など。


■「医学犯罪」の舞台はどうつくられたか
―医学界・医療界、医学者・医師は、先の戦争にどのように加担したのでしょうか。また、731部隊をはじめ、どのような規模で、どのような形でおこなわれていたのでしょうか。

「戦争医学犯罪」というと「731部隊」と思われがちですが、私たちは、そのような予断を避け、解明しようということで始めました。
 2000年に15年戦争と日本の医学医療研究会(略称、戦医研)が発足した当時、先の戦争、すなわち1931年から1945年8月の日本敗戦(ポツダム宣言受諾) に至るまでの15年戦争の間における史実解明の課題として、
①日本の医学医療の軍事化の経過、
②医学医療の軍事化に積極的に協力し、進めた学会・医学者、そして協力を拒否した人々の経緯、
③研究テーマの軍事的な制約、 戦時体制からくる研究費・研究体制の制約による医学医療の歪み・停滞、
④欧米諸国との交流の断絶による日本の医学医療の停滞、
⑤戦時体制による日本の医療の崩壊をあげました。
 その後の調査研究で、日本の医学者・医師らが主に海外の地で、何万人ともいわれる人々を、様々な実験の材料や手術の練習台にして殺害した主たる舞台となったのは、 石井四郎(1920年、京都帝国大学医学部卒業)が組織した、731部隊をはじめとする軍事医学研究機関のネットワーク(「石井機関」ともいわれる)だけでないことを明らかにしました。さらに、日本の医学界・医療界、医学者・医師の戦争加担を間題にする際、731部隊を抜きにして語ることはできないことや731部隊はかつての日本の医学界・医療界における最悪の戦争医学犯罪であることを明らかにしました。


■731部隊による人体実験・細菌兵器使用
―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。
 731部隊は、現中国黒竜江省の省都・哈爾浜市近郊の平房に、 1939年頃までに完成した細菌兵器開発の一大軍事基地にありました。731部隊では、実験材料にされる人々は、特別に定められた「特移扱」と呼ばれる手続きで憲兵隊により供給されて、「マル夕」と称されていました。敗戦までの5年間に少なくとも3000名が送り込まれ、生存者はいませんでした。21世紀になって、中国では、証拠隠減の焼却跡から発掘された憲兵隊の「特移扱」資料の調査が進み、300名以上の氏名が判明しつつあり、被害遺族からの訴えも出始めました。


 2007年4月までに確認できた罪悪としては、ヒトを「サル」と偽って日本病理学会でも発表された「流行性出血熱感染実験」、米国で見つけられた、731部隊のデータを手に入れた米軍の報告書に記されていた炭疽、ぺスト、チフス、パラチフスAおよびB、赤痢、コレラ、鼻疽の「細菌感染実験」(被験者の50%に感染を引き起こす病原体の最小量も記されている)、「凍傷実験」、「水だけを飲ませる耐久実験」、「ぺストワクチン実験と生体解剖」、「毒ガス兵器の野外人体実験」、「毒物の経口摂取・注射の人体実験」、「細菌兵器の実戦使用」があげられます。


 731部隊による人体実験や中国各地の細菌兵器の実戦使用による被害者や遺族の一部は、日本国を相手取って謝罪と賠償を求めるために日本の裁判所に提訴しました。中国人180人が原告となった731部隊細菌戦被害国家賠償請求訴訟(1997年提訴)では、最高裁判所が2007年5月9日に国家無答責(当時は国が戦争被害について賠償する法律は制定されていなかったこと) を理由にして上告を棄却し、原告の敗訴が確定しました(www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/795/005795_hanrei.pdf)。損害賠償の請求は認められなかったのですが、 「細菌戦の事実の有無について」「は原告らが立証活動をしたのみで、被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので」「制約ないし問題があることを認識しつつ」証拠に基づき第一審が判決で示した戦争医学犯罪の事実の存在の認定は確定しました。


 2011年には、細菌兵器による攻撃についての新資料「陸軍軍医学校防疲研究報告」の第一部60号が見つけられました。同報告では、1940~42年に中国で、731部隊が行った6つの作戦をとりあげ、使用したぺスト・ノミの量と感染者数や結果に基づいて計算した作戦効果(ぺスト・ノミ使用量別の致死数)をまとめた表が示されています。同表の結果は、裁判で認定された、損害の発生した日や場所と辻褄が合うものした。新資料は、これまで「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府に根拠がないことを暴露するものであったのです。


 2015年には、731部隊の跡地で心臓部ともいわれていた建物「ロ号棟」の基礎部分(東西170m、南北140 m四方)の中国による全面発掘が完了し、新館の展示スペースとともに8月15日に公開されました。この発掘は、元731部隊員の証言に基づいて作成された平面図を実証したもので、「ロ号棟」の存在が戦後70年にして白日のもとにさらされました。


■731部隊以外でも
―731部隊・「石井機関」以外では、どのような罪悪がくりひろげられていたのでしょうか。


 以下のような事実が明らかになりました。
 1945年の5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部第一外科の石山福二郎教授やその弟子たちが、撃墜されたアメリカ軍B29の搭乗員捕虜8名を手術実験で殺害した「九州帝国大学医学部事件」。1941年1月31日から2月11日にかけて内蒙古で、中国人を手術材料と称して用い、凍傷、テントでの手術、止血、輸血などについて研究する野外演習を行った「冬季衛生研究」。各地の陸軍病院での「手術演習」。台北帝国大学医学部(1928年3月16日、勅令第30号による台北帝国大学の設立。1936年1月1日医学部設置)における「現地人44名の生体よりマラリア脾腫(ひしゅ)を剔出(てきしゅつ)して材料とした研究」。京城帝国大学医学部(1924年京城帝国大学開学、1926年5月医学部設置)にみられた植民地支配、医学のもつ植民地支配上の効果を期待して設立された満州医科大学(1911年に南満鉄道株式会社が創立した南満医学堂が前身、1922年に満州医科大学に昇格)の解剖学教室の「生体解剖」がありました。そのほかにも、占領地の大学や研究所以外における「非人道的な人体実験」、植民地における本邦よりも過酷な「ハンセン病対策」、将兵への伝染を防ぐための軍用「慰安婦」の性病罹患検査など軍医による「慰安所の衛生管理」などもあげられます。







2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■731部隊と大学
 ―今述べられた罪悪とのかかわりで、 とりわけ大学医学部は、どのように戦争に加担していたのでしょうか。大学研究の戦争への加担という点で、特徴的なことはあるのでしょうか。
 まず、731・「石井機関」に特にかかわる戦争加担についてお話しください。

 731部隊などには、軍医将校の他に「技師」という身分の医学者がいました。 彼らは京都大学医学部の細菌学教室・生理学教室・病理学教室、東京大学伝染病研究所、慶応大学医学部細菌学教室、金沢医科大学細菌学教室等の出身です。2008年に出版された『京大医学部病理学教室100年史』で紹介された「石井発言」では、教室、学部、大学として組織的関与に発展していった様子が如実に語られていることが明らかになりました。筆者の請求によって「要審査」が解かれ公開された国立公文書館の留守名簿は目下解析中で、731部隊・「石井機関」にかかわる新たな人物が明らかになると思われます。


「石井機関」の中枢的役割を果たしていたとされる陸軍軍医学校防疫研究室の報告書「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部」には共同発表者や論文指導者に大学の研究者の氏名が多く見られます。これらの研究者は「嘱託」という身分であり、その所属は東京大学、慶応大学、長崎大学、京都大学、大阪大学、金沢医科大学、北里研究所、北海道大学、干葉医科大学等でした。また「指導教官」という名目で東大教授、慶応大学教授、干葉医大教授等が名前を連ねています。さらに、防疫研究室の「委託研究」を行っていた教授の教室に所属していた医学者たちは陸軍軍医学校防疫研究室や731部隊関連の研究に組織的にかかわっていたと言えます。その他に論文末尾に「謝辞」を受けている研究者も多数いました。 陸軍軍医学校は博士の学位の授与を認められていなかったことから、731部隊関係者の学位授与の審査は先ほど述べた大学医学部や医科大学などで行われ、大学の総長や学長から出された申請を受けて文部大臣が学位授与を認可していたことが明らかとなっているのです。


 日本病理学会総会では731部隊関係者が「特殊研究」、ヒトを「サル」とした研究報告がなされていました。多くの医学者たちはそれが何かを知っていたと思われます。戸田正三京都大学医学部長や正路倫之助教授【京大教授のまま佳木斯(ジャムス)医科大学教務主任、生理学教授に赴任)】は当時たびたび満州に出向いていました。また、恩師である京都帝国大学医学部病理講座教授で石井の指導教授でもあった清野謙次や名古屋医科大学医学部細菌学教授の鶴見三三も平房に招待されていました。官立金沢医科大学の定例教授会記録(1942年1月19日)には、第2病理学講座の後任教授選考に当たっての「京都には尚石井と一言う人ありて研究も大に宜しく石井部隊におらるる由なるが--相談を持て行かば承諾を得んかと思う--」という学長発言が記録されていることから、「石井部隊」という名称が一般に使用されていたことが伺われます。


 京都帝国大学医学部同窓会誌には、「本学が生んだ巨人、学を以て国を護る熱血の人、石井四郎陸軍々医少将閣下(大9=大正9年卒<西山注、1920年>)は、4月19日午前5時59分入洛、故渡邊助教授の遺族に部隊長としての誠心あふれる弔慰を棒げた後、翌20日懐かしの母校に卒業後21年ぶりに来学、堂々たる体躯に親愛の情をこめて、日曜にもかかはらず、内科講堂を立錐の余地なきまでに埋めた学生・生従・職員は勿論、小川学部長、松本教授以下の各教授を前に、諄々として熱烈に、日本の進むべき道、医学の行くべき道、京大学風の趨(おもむ)くべき道を説くのであった」という記述があります。


■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか

 文部省科学研究費(1918年創設)の重要項日として採用された医学分野の題目や新たに大学に附置された医学研究所にも軍事化の傾向がみられました。学術研究会議(1920年設立)には科学研究動員委員会が設置され、多くの戦時研究班を擁していました。1942年には、日本の東南アジアへの侵入と符号して「日本人の南方に於ける生活に関する科学的研究」が総合課題とされ、関連分野の5カ年共同研究計画となっています。昭和恐慌を契機に1932年に設立された「日本学術振興会」も、1937年頃から軍部や商工省の意向に沿つて、次第に国策的研究をすすめる機関(医学・衛生学は第8部門)となりました。


 日本医学会(1902年設立)は、ほぼ4年に1回、全国の大学医学部・医科大学・医学研究機関の医学者が参集する医学会(1948年に、日本医師会の改組設立に伴い、日本医学会と日本医師会は統合。戦後は、「日本医学会総会」として)を開催しています。この医学会も戦争動員の場となりました。第9回(1934年、東大)では「石井式無菌濾過機」や陸軍の衛生車、衛生飛行機などが陳列されるなど、軍部の影響が如実に出始め、第10回(1938年、京大)は、陸軍省医務局からの強い要請を受けて、特別に「戦時体制下医学講演会」のテーマで「軍部と医学会が提携して医学報国の大旆(たいはい)」をかかげて開催され、総会招待講演ではナチス・ドイツ軍の将校が毒ガスの講演を行い、第11回(1942年、東大)の主題は、「戦場医学の確立」と「大東亜医学会」を結成する機運を助成することとされ、「戦場医学」と称された演題が次々と発表されました。


病理学、細菌学、外科、内科等の学会でも、戦争関連の論文発表が増えました。このような機運が高まる中で、「戦時中においては、学会(協会)の総力を動員して、後方戦力の労働力の確保に大いに貢献するところがあった」と言われた日本産業衛生学会(1927年)、ハンセン病患者の絶対隔離を求めた日本癌病学会(1927年)、「生命の根本を、浄化し--国家を繁栄せしむ--」との趣旨を掲げた日本民族衛生学会(1930年)等が設立されました。


 1938年の日本の全医師数は6万3000人弱でしたが、軍医の損耗度が高いとして、1942年度までの軍医需要を3万人とし、さらに1943年度以降の大需要を5万人との見積もりで、1939年度から大学医学部・医科大学における3年の修業年限の臨時付属医学専門部の強行設立が始まりました。敗戦時までに新設医専は帝大、官立、公立、私立あわせて51校に達しました。そのうち「外地」は7校でした。


 医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。




■さらなる戦争加担を邁進
―戦時下、医療界は、どのようにさらなる戦争加担に邁進していったのでしょうか。

 1942年2月、従来の医師法などを改正し制定された「国民医療法」は「国民体力の向上を図るを以て日的」(第1条)とし、「富国強兵」策を遂行するための方策(開業の制限、新卒医師への動務地の指定、医師の徴用制度、無医地区での公営医療機関の設置、医療機関の整備統合など)を掲げました。さらに従来の医師の任務は「医事衛生の改良発展を図る」というものでしたが、この「国民医療法」の第3条で「医師及び歯科医師は国民体力の向上に寄与するを以てその本分とす」と明記し、国の方策遂行に寄与するという新しい任務を規定しました。


 医師会はかねてより戦争への協力姿勢を取っていましたが、1942年に改組され、いわゆる「官制医師会」が創られました。医師会の規約では、日本医師会の会長は厚生大臣の指名制となり、日本医師会の総会は道府県医師会会長と特別議員で構成するとされ、国策への協力が医師会の大目標とされました。国民体力管理医、健民修練所指導医、「産業戦士に対する優先受診方実行」と「重要工場事業所の医療保健への協力」、動労報国隊員の健康管理、健民運動耐寒心身鍛錬への協力、町内会の耐寒心身鍛錬への協力などが次々と下部医師会に指示されました。「国民体力ノ向上二関スル国策二即応シ医療ノ普及ヲ図ルコト」を目的とする日本医療団も1942年に創設されました。
看護師は戦時召集令状で応召義務を課せられ従軍看護婦として戦地に派遺されましたがその大部分は日本赤十字社からでした。

3、戦後、日本の戦争医学犯罪は裁かれなかったのか
■隠蔽・極秘取引・タブー・無視と検証・克服
―これらのことについて、戦後の医学界・医療界、医学者・医師はどのように向き合ってきたのでしょうか。団体の動きや、個人の発言などもふくめて紹介してください。

 おもに731・「石井機関」にかかわる当事者の去就について述べます。
 1945年8月15日の日本の敗戦以前に、当時の日本政府と軍部は国際的な非難を恐れ、「国体護持」のため、731部隊の証拠隠減を工作しました。
 ドイツの医学者・医師が裁かれた1946年12月9日から1947年8月20日にかけて米国が単独で担当したドイツ・ニュルンべルクにおける医師裁判と異なる経緯をたどりました。日本では、米国の細菌戦研究におけるソ連からの立ち遅れを克服するために、「米国への731部隊のデー夕提供と引き換えに、関係者の訴追を免責する」という極秘の取引が連合軍総司令部(GHQ、実体は米軍) と731部隊トップとの間で交わされたのです。731部隊に関係した医学者・医師は、公に露わにならず、そのほとんどが、何食わぬ顔で医学界・医療界に留まり、悪弊を断ち切ることなく、戦後の医学界・医療界などの重職につき、中には叙動、までされました。

 1946年に設立された民主主義科学者協会、新日本醫師聯盟(後に新日本医師協会、通称新医協に発展的に解消)などでは、科学者のみならず教育者、知識人の戦争協力について調査し戦犯者として摘発、追放しなければならないという意見がひろく起こっていました。当時の新医協機関紙の調査により、防疫給水部の名で呼ばれ、細菌爆弾やいろいろの細菌謀略のために少なからぬ細菌学者や病理学者が研究に参加し、その間非道な人体実験が行われ、また部分的に実戦に使用されたことは、軍医として徴集された多くの医師が知っていたこともわかりました。


 ソ連では、捕虜とした731部隊員たちに対して独自に裁判(ハバロフスク裁判、1949年12月)が行われ、その公判書類の日本語版は1950年には日本でも入手できました。日本の国会でも、1950年3月1日の衆議院外務委員会における聴涛克己(きくなみかつみ)議員のハバロフスク裁判に関わる質問がなされましたが、当時の法務大臣は「さような事実があったといたしましても、 ただいま申し上げました通り、それは連合国で処置されるのでありまして、日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできないのであります」などと答弁し、真摯に向き合いはしませんでした。中国でも、1956年に捕虜の731部隊員に対する特別軍事法延での裁判が行われました。しかし、これにも日本の医学界・医療界、政府は向き合いはしませんでした。


 戦中だけではなく戦後にも陸軍軍医学校防疫研究報告が医学博士の学位授与のための論文として提出されていたことも明らかにされました。さらに2012年に着手した、京大や東大の学位授与記録の調査では、731部隊と関係が深かった諸教授が戦後も学位審査委員として学位授与に関与したことなどが明らかになりました。前述した2011年に明らかになった細菌兵器による攻撃についての新資料は、元部隊員が学位授与(1949年)に際して提出した論文の一部で、主査は、戦中に東大の伝染病研究所で指導に当たった教授で当時、医学部長、日本医学会会長でした。京大の学位授与記録調査では、1959年9月になっても学位が授与されており、その主査および副査2人中1人は元部隊員で戦後京大医学部教授になった人物でした。


 日本医師会は、日本医師会年次代議員会(1949年3月30日)で「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会に、戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公然と非難し、また断言され、そして時として生じたことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するものである」 という声明文を決議して世界医師会(第1回総会、1947年9月18日)への加盟が認められました。しかし、日本医師会は731部隊問題については声明文の決議で解決済みとして、自ら検証をすることを怠り、現在に至っています。


 世界医師会は、権力に屈して医師の使命に背反したナチ医学の過ちを繰り返すまいということで、1948年9月にスイス、ジュネーブで開催された世界医師会第2回総会で採択したジュネーブ宣言 (2006年までに5回改訂) では「私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることはしない」を明示しました。日本医師会も1951年に「医師の倫理」を定めたのですが、「医師は、正しい医事国策に協力すべきである」という、ジュネーブ宣言とは程遠い規定が盛り込まれていました(2000年に「医の倫理綱領」に改定)。
 その後、731部隊関係者の多くが役員になり、戦中開発した技術の応用で起業(朝鮮戦争勃発5カ月後の1950年11月)した「日本ブラッドバンク」(1964年に「ミドリ十字」に社名変更)は、血液製剤による肝炎や薬害エイズの問題を惹き起こしました。

■発足当時の学術会議における戦争医学犯罪の検証
 ―世界でも類例のない公選制で選ばれた日本の科学者の議会ともいわれる日本学術会議は1949年の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」で「これまでのわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、 科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う」と述べています。そこでは、戦争医学犯罪についてはどのような反省がなされたのでしょうか。

 日本学術会議は日本の科学者の内外に対する代表機関として、新たに7分野に分類された全国の科学者の分野ごとの無記名投票により選出される210 人の会員で構成されることなどが日本学術会議法(1949年7月10日制定)で規定されていました。
昨年着手した創立の頃の日本学術会議に関わる調査では、敗戦後の平和と民主主義を希求する情勢のなかで、日本学術会議でも学術体制の平和的・民主的改革を求める努力がなされたのですが、それに対して731部隊関係者らが異議を強硬に主張していたことが見えてきました。


学術会議総会議事速記録を閲覧したところ、第1回総会で、国会議事録のような議事録を作成するという提案が否決され、以降の長きにわたって学術会議総会の公式の議事録が作成されていないこと、当初議事概要が作成されていたものの第8回以降途絶えたことが明らかになりました。
第1回総会の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」の審議経過では、731部隊関係の会員らが「これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し」のくだりに「戦争中」あるいは「戦時中」を入れる提案に対し、「すでに国家が戦争になってしまったならば戦争に協力し、 科学者が国家のために尽くすということは、一面から言うと当然のことであります」「憲法によってすでに戦争を放棄し、将来戦争というものは、 われわれ国民にとっては全然問題外のことであって、将来戦争ということを考えてこういう声明をする必要はない」などと猛反対し、賛成少数で否決にいたっています。


 1950年4月28日の第6回総会では「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」が採択されました。その時も「日本の科学者も戦争を感知せざるを得ない情勢に立ち至つている」という中段の提案は、彼らの口火で、「戦争が非常に近いと言うことはいったいどういう根拠があって言っておるのか」などの議論となり、削除されました。その2ヵ月後に朝鮮戦争が起こりました。
 また、1952年の第13回総会では、「細菌兵器使用禁止に関するジュネーブ条約の批准を国会に申入れる」提案に対して、「現在日本では戦争を放棄しているのだから、戦時に問題になる条約を批准するのは筋違い」「4,50年も前に解決している問題でありまして、今日ほとんど実用になりません」などと反対し、賛成わずかで否決されています。

―731部隊に属していた医師・医学者自身の特徴的な証言はあるのでしょうか。

 731部隊に属していた医師で、当時のことを自著で表している者は少数です。吉村寿人元731部隊技師(京大医学部卒、戦後京都府立医大学長などを務める)は「私が属していた部隊に戦犯事項があったことが最近、森村誠一氏の『悪魔の飽食』に記載され、それがべストセラーになった為に国内の批判を浴びる様になった。<中略>個人の自由意志でその良心に従つて軍隊内で行動が出来ると考える事自体が間違つている。<中略>個人の良心によって行動の出来る様な軍隊が何処にあるだろうか。<中略>私が戦時中に属していた部隊において戦犯行為があったからとて、直接の指揮官でもない私が何故マスコミによって責められねばならないのか、全くのお門違い」などと弁明しています(『喜寿回顧』吉村先生喜寿記念行事会、1984年)。これは、ニュルンべルク裁判では退けられた、被告の弁明「医師たちは人体実験を行わなければ生命の危険にさらされたかもしれない」 「医師たちは命令に従っただけである」と同類にほかなりません。


 敗戦直後から医学界・医療界の民主化に奔走した秋元寿恵夫医師は「これまで、40年近くになる長い間、第731部隊が犯した戦争犯罪については、問われれば答えるが、 あえて自分から何もいうまいという態度を取り続けてきた」としながら、1982年に自著『医の倫理を問う第731部隊の経験から』において、「血清学者として石井部隊に勤務した者が、今なお深い罪の意識を背負いながら、戦争と癒着した医学研究の恐ろしさを告発し、医の倫理とは何かを問う」ています。
 湯浅謙医師による、中国太原の陸軍病院で行った生体解剖の証言は、極悪非道な医師の行為が731部隊だけではなかったことを明らかにしました。






4、ドイツではどのように向き合ったのか

■二ュルンぺルクにおける訴追
―ところで、医学の戦争への加担ということでは、世界で、とりわけドイツではどのように向き合ったのでしょうか。

 ナチス・ドイツ政権下における医学者・医師の非人道人体実験には、超高度(標高20000mに相当する低気圧)、低体温、マラリア、毒ガス、サルファ剤等の薬品、骨・筋肉・神経の再生および骨移植、海水飲用、流行性黄だん(肝炎)、断種、発疹チフスなど、毒物、焼夷弾治療、障害者の「安楽死」、仮病対策、電気ショック、子宮癌の早期診断法、双子の利用、肝臓移植、血液確定、敗血病などに関する実験がありました。これらがドイツでは裁かれました。


 1947年米国主導で、ニュルンべルク国際軍事裁判における医師たちの訴追は「共同謀議」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「犯罪組織への所属」の4点にわたって行われました。被告弁護側の抗弁・反論は、検察側のヒポクラテスの誓いなどを典拠にして断罪され、許容できる人体実験の条件が判決で示されました。これが「ニュルンべルク綱領」です。「ニュルンべルク綱領」は、前述のジュネーブ宣言や1949年10月にロンドンで開催された世界医師会第3回総会(1949年10月)で採択された国際医倫理綱領(2006年までに3回改訂、「医師の一般的な義務」の4項目には「医師は、患者や同僚医師を誠実に扱い、人格や能力に欠陥があったり、欺まん、またはごまかしをするような医師の摘発に努めるべきである」という規定がある)、1964年6月フィンランド、ヘルシンキで開催された第18回世界医師会総会で採択され、以後、人体実験に関する倫理規定の基本をなすヘルシンキ宣言(2013年までに9回改訂)の基礎となりました。
 
1970年代頃からはベルリンの医師たち自身が、かれらの職能団体にたいして、 ナチズムの中で医師層が果たした役割に批判的立場を示すことを要求しました。1988年にはベルリン医師会が圧倒的多数で「ナチズムの中で医師層が果たした役割と忘れることのできない犠牲者の苦しみを思い起こす」という声明を出し、1989年にベルリンで開かれたドイツ医師会年次大会では、 「ワイマール共和国時代とナチズム時代の医学」というテーマで展示会が行われ、『人間の価値―1918年から1945年までのドイツの医学』(邦文版、風行社、1993年)が刊行されました。


 ところが、私が2002年に、同書の著者と面談した際には、「世界医師会に西ドイツ医師会が加盟する際に約束した医師会会員へのジュネーブ宣言の配布は実行されずに放置されていた」「日本ではドイツが進んでいるかのように言われるが、遅々たるものだ」「ドイツ医学界の重職には元ナチ党員が多数を占めていた」「1994年には、ドイツ医師会会長歴(西山注:1973~1977年)があり、9年間務めていた世界医師会の財務理事(西山注:2010年7月、逝去)が辞任に追いやられたが、それはナチ親衛隊将校で戦争医学犯罪を犯したことが暴露されたから」「彼を推薦し、サポートし続けたドイツ医師会長が後任(西山注:1999年迄、以降名誉会長で現在に至る)」と聞きました。



■ドイツのとりくみと困難

―それにしてもドイツの方が日本より進んでいると思われるのですが、日本との関係で見ておかなければならないことはあるのでしょうか―
 
 ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)は、2010年11月26日に、70年間の沈黙を破り約3000人の精神科医が参加した追悼集会が開催され、ナチス時代に精神科医によって25万人以上の精神障害者が死に追いやられたことを認める追悼講演を会長が行い、精神医学や学会としての思想や組織のあり方を振り返り、「施設的および個人的な罪や精神科医および専門学会の巻き込まれ」を問題にしました。


 2012年5月にはニュルンべルク医師裁判が行われた地において開催されたドイツ医師会年次大会が、全会一致でナチ時代の医学犯罪について重大な共同責任を認め、ドイツ医師会の中に歴史研究を行う委員会を設けるという声明が出されました。
 自らの過ちに関するDGPPNのドイツ内外での移動展示は、紆余曲折がありましたが、2015年に日本でも開催され、その間に2010年当時のDGPPN会長の講演も行われました。



5、いまどんな議論が必要か

■日本ではまだ広く知られていない戦争医学犯罪

―現在、日本では、どのような議論がなされているのでしょうか。また、いま、軍事研究への大学や研究機関の動員という問題が大きな問題となっているときに、どんな議論がなされる必要があるとお思いですか。

 日本の医学者・医師の先の戦争における医学犯罪があまりにも知られていないことがまずあげられるでしょう。
 ナチス・ドイツの戦争医学犯罪のように国内外で、あるいは医学界・医療界で議論が広く活発に行われているかというと、残念ながらそうではありません。
 私たちは、その都度論点整理をしながら、問題提起をし、それなりの前進があったと思いますが、国の内外あるいは医学界・医療界で世論を動かすほどにはいたっていないように思います。
 国際的には、前述したように、米国政府が、極秘の取引により共犯者となり、隠蔽してきた歴史があります。ナチス・ドイツの戦争医学犯罪の検証が進められているドイツでも日本の戦争犯罪・人道に反する罪についてはほとんど議論にはなっていません。
日本の医学界・医療界が60年以上隠蔽し、今もって自省の動きが見られないというのは国内外の世論、議論の程度や国が戦争責任を果たしていないことを反映しているともいえます。


 しかし、ナチス・ドイツの戦争医学犯罪を踏まえて、世界医師会はジュネーブ宣言や医の国際倫理綱領で「医師は、常に何ものにも左右されることなくその専門職としての判断を行い、専門職としての行為の最高の水準を維持しなければならない」などの条項を採択し、「患者の人権擁護」のためには患者、医師、医師会、それぞれの自律が必要だとしてきました。このような国際的に普遍的な考え方にたつならば、国政の如何などとは関係なく、日本の医学界・医療界が自省の議論を尽くす必要があります。

「戦争と医の倫理」の検証を進める会が2012年に京都大学で主催した国際シンポジウムに参加したドイツの精神科医は「ドイツでは過去との関わりをできるだけ回避しようとする動きがずっと以前から一般的で、ニュルンべルク裁判は要するに勝者の恣意による判決だ、という乱暴な考えさえ多くの所で出ている」「ニュルンべルクは扉を開けた。しかし、研究の倫理への道、医学の社会的責任への道はまだ遠く、なすべきことはまだ多い」などと書いています。


 第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会が、2007年4月に国際シンポジウムを主催した際に、招いた米国の生命倫理学者は「過去の世代の不正は、それがとりわけ隠蔽された場合には、現在の世代の重荷としてそのまま残されると言えます。731部隊の場合、米国が一度日本の科学者たちとこのような取引をしたために、日本が抱えていた秘密が、我々の抱える秘密にもなってしまいました」「調査を行い、過去に何が起こったのかを誠実に、率直に、正確に報告することによって、そして過去と対峙することによって、我々は常々持ちたいと望んできた価値観を肯定するのです。最も重要なのは、そうすることによって、過去との共犯関係から若い世代を解放し、過去の不正に対する責任を負う必要をなくすことです。隠蔽や共犯の伝統を保持するよう若い世代に求めるのではなく、代わりに彼らをこの責任から完全に解放することです」と述べました。
 戦争医学犯罪の検証について国際的な連携・協力をするための議論が必要だと思います。

■世界と日本での議論の進展

―今も戦争が絶えないもとで、国際的には医学界・医療界ではどんな議論が行われているでしょうか。

 人体実験に関する国際規範であるヘルシンキ宣言やその源流となったニュルンべルク綱領も、医学者・医師が軍事研究に従事すること自体については踏み込んではいませんし、世界医師会や世界の医学界・医療界において国際紛争の解決に際しての「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」 の禁止や武器生産の禁止についてはほとんど議論されていませんでした。2005年になって、世界で最もよく知られ、評価の高い医学雑誌Lan cet(ランセット) では出版社のエルゼビアの傘下に軍需産業の会社があることが明らかにされ、「兵器と健康を売る医学雑誌の偽善」の論争が起こり、国際的な運動の結果、軍需産業から一切経済的支援を受けないことになり、「生物医学研究者に対する軍需産業との関係についての提案」もなされました。この時には、最大の人為的災害は戦争であり、最も被害を受けるのは女性と子どもであり、国際的な公衆衛生上の課題であるという趣旨のWHO(世界保健機構)の報告についても議論されました。

―それに対し、日本の科学者の世界では、全体の問題としてどう議論されていますか。

 その場合、今問題になっている日本学術会議がどうであったかの議論が必要だと思われます。
 今、学術会議では「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」に関して議論がなされています。このような問題提起が学術会議で出てくる背景には、日本学術会議の創立の頃だけでなく、その後も先の戦争中における日本の科学者の戦争加担の検証がなされていないことがあるのではないかと考え、学術会議総会の記録の調査に着手しました。


明らかになったのは、国会のような議事録がないため、議事詳細は議事速記録を通じてしか知ることができないこと、学術会議総会議事速記録は図書館に収蔵されているが図書館所蔵でないため、日本学術会議事務局に閲覧許可申請をしなければならないこと、他方、学術会議の運営審議会資料などは図書館所蔵のため日本学術会議図書館利用規程に基づき、閲覧許可申請をしなければならないこと、日本学術会議図書館は国立国会図書館の支部であるにもかかわらず、「一般公衆」などについては「館長が特に承認した者」でないと利用できないとされるなど著しく利用が制限されていること、複写サービスは、原則として行わない。 ただし、館長の許可を得たときは、利用者において複写又は撮影を行うことは妨げないことなどです。これらの制度は国立国会図書館制度の趣旨や国立公文書館の制度に合うように見直されないままでは、検証は困難です。


 学術会議は、1984年には公選制が廃止され、学会推薦・内閣総理大臣任命制へと改悪され、学会などで推薦された者が会員に任命される制度となりましたが、学術会議では731部隊に関する初めての議論が行われていたことが、2003年の日本学術会議生命科学の全体像と生命倫理特別委員会報告「生命科学の全体像と生命倫理―生命科学・生命工学の適正な発展のために―」の報告により明らかなりました。同報告では「生命倫理を考える契機になった近代史上の最初の事件の一つとしてあげておかなければならないのは、第2次世界大戦中のナチスによる大量虐殺や大学医学部医師も参加した日本軍731部隊による非人道的な人体実験である。これら事件は人間として余りにも常軌を逸したものであって、いくら厳しく糾弾されても足りるものではない。このうち、731部隊の事件に医師たちも参加していたことは長い間隠蔽されてきたが、ナチスによる事件については敗戦国ドイツに対する1945年の国際軍事裁判で明らかにされた」と明記されています。


 さらに、2005年の平和問題研究連絡委員会報告「21世紀における平和学の課題」では、日本学術会議としても日本の未決の戦争責任などの諸問題を学術的に解明することが重要であると述べられていました。
 このように、731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上(そじょう)にのる兆しが出てきました。
 しかし、2005年に学術会議会員の選考法がさらに改悪され、学術会議会員が自ら選考する方法となった後に公表された学術会議の諸文書には、戦争医学犯罪のみならず、日本の科学者の軍事研究への加担の歴史や戦争責任全般についての学術的解明について、言及したものは見当たりません。731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上にのったことを契機に、それまでの不作為も含めて、学術会議自身が自らの課題として検証を進めることは、1950年、1967年の2度にわたる戦争や軍事日的のための研究を拒否する誓いの見直しにストップをかけ、軍事研究復活阻止にもつながると思います。

■立法府の動きにどう向き合うのか

―立法府での議論についても、無関心でいてはいけないと思いますが、いかがですか。

 日本政府は、国会で「日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできない」などと無責任な答弁を繰り返してきました。しかし、裁判では、被害の存在を認定したのみならず、「国際慣習法による国家責任が生じていた」ことを認め、「何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において」「高次の裁量により決すべき」とされました。立法府での議論が求められていると思います。


 立法府では、「戦争及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」の批准も議論されなければならないと思います。この条約は、1968年11月26日の国連第23回総会で決議(日本政府は棄権)され、1970年11月11日に発効しました。戦争犯罪と人道に反する犯罪について時効は「その犯罪の行われた時期にかかわりなく、適用されない」と規定しています。私たちの検証によって、731部隊や日本医学会等の組織的な加担とともに、それらを構成していた個々の医学者・医師の犯罪性も少なからず明らかにされてきました。その中には、感染実験でぺストを発症させ、治療もせずに死亡に至るまで経過を観察した人体実験を行い、その結果を、学位論文として提出する際、実験対象を「サル」と偽る明白な不正を行い、学位授与を申請した者、そのような学位授与の申請を受理し、学位授与を認めた者もいますが、全て裁かれずに世を去りました。そのようなことを繰り返させない・繰り返さないことにつながると考えられるからです。


 1999年以降の有事法制により、有事の際に全国の医療機関や医師が担うべき役割が規定されました。政府が「有事」とみなせば、病院などを管理下に置き、医師・看護師などには公用令書(かつての召集令状、赤紙)が届けられ、医薬品等も調達物資の対象となり、命令に反すると罰則の対象にもなります。
 私たちが同法に従うことになれば、「いつか来た道」をたどることになりかねません。それでも「命令には従わざるを得ない」 という声が多数であったという結果を示す調査もあります。良心的兵役拒否権は国際連合やヨーロッパ評議会のような国際機関では基本的人権「良心の自由」として認知され、推奨されており、法制化が図られている国もあります。日本国憲法では許されていない国の武力による威嚇または武力の行使のもとでの医療従事者への命令を拒否する権利の保障についても議論されねばならないのではないでしょうか。日本の医学界・医療界が国の内外で、軍縮、戦争放棄に取り組むことも医学者・医師の戦争医学犯罪の防止につながると改めて思います。

―戦争放棄、軍事研究復活阻止が決定的に重要であるとしても、「命令には従わざるをえない」ということについてはどう考えればいいでしょうか。

 「戦争と医の倫理」の検証を進める会などで一致協同して取り組んでいる根底には戦争医学犯罪を繰り返さない、繰り返させない、ということがあります。戦争は人を狂気にします。今日ではPTSDに分類される戦争神経症などは先の戦争でも日本の軍や医学界・医療界の課題でした。
被害者やその遺族の無念・怨念も癒えることはありません。戦後も狂気が癒えず入院したままで世を去った人々や今も入院中の人々がいます。だから医師・医学者は「戦争に反対だ。でも戦争になったらお仕舞」では済まないのです。戦争で医師が狂気に陥り、戦争に賛成し参加すれば、治療や予防という医師の役割に相矛盾します。その意味で「繰り返さない」ということは、医師・医学者自身が、人間の一尊厳、人権、命と健康の擁護を貫ける強靭な倫理観を持つことであり、検証の意義はそこにもあります。

■今後の検証で重要なこと

 ―今後さらに検証を進めるうえで重要なことはなんでしょうか。

 国政、日本学術会議、日本医師会、日本医学会で検証を行うという意思決定がなされていない状況を考慮しなければなりません。これまでは「戦争と医の倫理」の検証を進める会などは、4年に1回開催される日本医学会総会での意思決定を期待して主に日本医師会や日本医学会に働きかけてきましたが、今後はどうするかということが問われているように思います。この間の検証で、個々の専門医学会や大学医学部、医科大学が自省すべき史実も明らかとなっていますが、その気配が見られないところにどのように働きかければ自省が進むのかの議論です。具体的には、戦中の医学部教授会の議事録の開示、不正・非人道性が疑われる論文を学会誌に掲載した当該学会(日本病理学会、日本感染症学会など)における検証、不正・非人道性が疑われる学位授与論文が受理されている大学(京都大学、東京大学、新潟大学など)における当該学位授与の検証、九州大学医学部「生体解剖」事件に関する九州大学における検証、731部隊や戦中の学術に関する学術会議における検証などです。


 また、国政レベルの検証に関して追加しておきたいのは国の資料の開示の問題です。1958年に米国から返還された731部隊と細菌戦に関する文書とその目録の公表や自衛隊の『衛生学校記事』の開示など防衛省が所蔵する旧陸軍防疫給水部資料の全面開示が行われていません。





 厚生労働省社会・援護局業務課が2010年3月に、保管していた戦没者等援護関係の資料については、公開と後世への伝承を図るため、原則として戦後70周年に当たる2015年度までの5カ年の間に国立公文書館に移管することを発表し、ほぼ予定どおり実行されました。
 移管された資料に記載された人数は延べ約2300万とのことです。国立公文書館ですでに公表された一覧表から、防疫給水という名のついた部隊の留守名簿が約70あることがわかりました。開示については「要審査」のため時間を要しましたが、731部隊、北京にあった1855部隊、シンガポールにあった9420部隊等については入手することができ、目下分析中です。しかし、それらは「要審査」とされ、審査期間は通常30日程度よりはるかに長期を要するなどの問題があります。これらの問題が一刻も早く解決され、全てが開示されれば、731部隊・「石井機関」の全容を明らかにする大きな一歩となると思われます。

―ありがとうございました。







細菌戦の系譜!!

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帝銀事件と登戸研究所
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731部隊と「要塞」遺跡を訪ねる
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●お知らせ








●「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」
●NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」


『731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~』の起こし

『満洲天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶

第5章 ソ連参戦と731部隊の撤退
1 証拠隠滅
1945年8月9日未明、ソ連軍のおよそ5000キロにわたる一斉進撃が開始した。
その4年前、1941年に日本とソ連の間で締結された中立条約は5年間有効で、期限は1946年4月までであったが、もろくも破られた。
連合国は1943年のテヘラン会談でソ連の参戦を呼びかけたが、ソ連側は明確な姿勢を示さなかった。しかし、1945年2月のクリミヤ半島におけるアメリカ、イギリス、ソ連によるヤルタ会談において、ヨーロッパ戦線すなわち対ドイツ戦終結後、3か月のうちに日本との戦争を開始することをソ連が言明した。
その背景にはアメリカの要求があった。その理由は第1に、この時点で実験中の原爆使用が可能であるか、アメリカ国内でも決定的な結論が出ていなかったことによる。第2に、アメリカは日本軍との本土決戦を考慮に入れ、兵力を温存しておきたかった。満州や朝鮮へ兵力を注ぐわけにはいかなかったのだ。それゆえに、ソ連軍の力を借りたかった。そして第3に、この時点でアメリカ軍は、関東軍の勢力は健在であるとみなしていた。

満蒙開拓団



「元満州中川村開拓団 私の敗戦回顧録」


日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第2章 地図から消えた神秘の大久野島

最初の毒ガス被害者

当時、病院で看護婦をしていた橋浜さんは、「病院では朝門を開いてから患者が切れ目なく訪れ、午前中に内科だけで100余人を診療した。全工場の作業員は最も多い時でも1000人~2000人位だったから、病人の比率はとても高いと言える。現有の病院ではとても処理できずに、工場区に3ヵ所の診療所を設け、作業員が近くで治療を受けられるようにした」と、語っている。
だが、けがをした人々が皆完全な治療を受けられたかというと、決してそうではなかった。毒にあたった人の治療はとても難しく、ほとんど特効薬などはない。

日本鬼子のおきみやげ


●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表


■731部隊による人体実験・細菌兵器使用

―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。

2015年には、731部隊の跡地で心臓部ともいわれていた建物「ロ号棟」の基礎部分(東西170m、南北140 m四方)の中国による全面発掘が完了し、新館の展示スペースとともに8月15日に公開されました。この発掘は、元731部隊員の証言に基づいて作成された平面図を実証したもので、「ロ号棟」の存在が戦後70年にして白日のもとにさらされました。

●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳


■公然と
「その後、患者たちは毎日写真を撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。以前、死者たちはシュトラスブルグへ送られていました。この強制収容所には固有の火葬場がなかったからです。しかしこの実験の死者は再び送り返されて来て『血統遺産』(SSの研究所)で解剖されました。内臓、肺などは完全に腐食していました。その後数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2ヶ月続けられました。患者が何とか移送に耐えられるようになるとp、彼らは他の強制収容所へ移されました。」

知ってるつもり「731部隊と医学者たち」



イタイイタイ病を究明した男 萩野昇

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ヒロシマからフクシマへ

宮川正

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●ニュース
トランプ大統領「雨だから」とドタキャン 戦没者の追悼式典への欠席で批判殺到

米軍、抗議申し入れさえも拒否 嘉手納・北谷町議会がヘリ事故で

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オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活

●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
歴史研究者の伊香俊哉が指摘するように、ジュネーブの国際連盟日本代表団は連盟規約を改善し、安全保障を促進する道を探ろうとはしなかった。それとは逆に、外相幣原の指示で、侵略戦争を禁止する新条約に合わせた規約の改正に抵抗した。連盟の平和維持機能は東アジアでは発揮できないと主張して、彼らは中国をめぐる紛争の第3国による調停に繰り返し反対した。1928年から31年に至るどの事件においても、政党内閣は自衛の名のもとに中国で武力を行使する可能性を残しておこうとした。もし天皇やその側近や外務省が、連盟規約の強化と日中紛争への連盟の介入の受け入れにこれほど消極的でなく、満州事変の勃発までに新しい集団安全保障の合意が成立していれば、関東軍がその恣意的な武力行使を正当化するのはもっと困難になっていただろう。


小泉親彦と昭和天皇

近現代史を《憲法視点》から問う~「湘南社」の憲法論議~

近代天皇制の真髄は

福沢諭吉

神武と戦争


●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法9条を生かそう!!


2018年11月11日日曜日

小島三郎国立予防衛生研究所所長の過去

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小島三郎
『医学者たちの組織犯罪』(常石敬一著)より
メリットと業績
小島三郎について、石井部隊の部隊長も務めた北野政次は、その回顧録 「防疫秘話」(『日本医事新報』に連載)に次のように書いている。1936年5月15日、食中毒が発生した浜松に「東京より小島博士、石井博士も来られ・・・その後軍医学校の防疫研究室(主幹石井教官)の諸君が 研究に従事した。・・・各方面で研究され、小島博士の報告を始め、多数発表せられ」た。


 小島は食中毒発生の前年、1935年9月に東京大学伝染病研究所の助教授から教授に昇任したところだった。同じ頃、防研の嘱託に就任したものと推測できる。嘱託であったために石井とともに浜松に赴いたものであろう。この浜松行きは小島のその後の研究者人生で大きな転機であった。戦後、1947年に伝研が厚生省の予防衛生研究所(予研)と伝研とに改組された時、副所長として予研に移るまで、伝研で研究を続けた。小島は1954年には予研の所長に就任した。


 小島はその回顧録で、率直に「・・・ 驚天動地の業績は、何にもない。何等鮮や(か)な、決め手のない、只判定勝ちの審判を持(待)っても、何も大したものはない」と述べている(『日本衛生学雑誌 第17巻)。小島のおもな業績は、日本で発生する食中毒の多くの原因であったサルモネラ系の細菌と赤痢菌の分類だった。サルモネラ系の細菌としては腸チフス菌とパラチフス菌をあげることができるが、この他に多様の菌がこの系統に合まれる。サルモネラ系の菌は通常人には飲食物を経由して感染する。おもに食肉、ネズミの排泄物が感染源だが、近年はペットのミドリガメなども感染源となっている。小島が食中毒の問題に取り組むきっかけとなったのが、浜松の集団食中毒事件だったようである。浜松の食中毒の原因となったゲルトネル菌も、サルモネラの一種である。



浜松の集団食中毒事件は、浜松第1中学校の運動会で配られた大福餅がもとで発生した。
最初の患者は5月11日午後に発病し、その後患者は増え続け最終的には2250人に上り、うち46人が死亡した。5月14日の『朝日新聞』は、上のような記事を載せている。記事にあるように初めはなんの病原菌も発見されず、毒物の混入が疑われ、浜松市はパニック状態に陥った。
 このパニックを救ったのが、14日夜7時15分のラジオを通じての軍医学校の発表だった。軍医学校では12日午後から北野や防疫学教室で研修中の西俊英軍医大尉(当時)らが原因究明に取り組んでいた。軍医学校の発表は次の通りだった。
「・・・患者4例の糞便中よリゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、之に因る中毒の疑濃厚となり・・・・尚細菌以外の毒物は目下の所証明し得ず」。これによって食中毒が原因であることがはっきりし、原因不明による不安は解消された。


 


細菌が特定できればそれで食中毒であることが確定する。細菌を特定するためには、事前にその細菌を保有していることが早道となる。保有している細菌でその免疫血清を作っておき、その血清と分離された原因と思われる細菌とがどう反応するかで、菌の同定が行われるのである。当時軍医学校では腸チフス、コレラ、赤痢、ペストについて診断用血清を作っていた。



 軍医学校による原因の究明が手際よく行われたのは、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたためだった。その頃ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、前年、鳥取県でこの菌が原因の食中毒を経験し、死者4人を出していた陸軍だけだった。浜松での食中毒の原因究明にあたった西は、鳥取でのゲルトネル菌による食中毒の解明に従事していた。
 浜松の食中毒事件がきっかけとなり日本でもゲルトネル菌、さらにはサルモネラ系の細菌全体についての研究が開始された。腸チフスやバラチフスは別格で以前から流行があり、研究もされ、またワクチンも開発されていた。


『日本細菌学会雑誌』32巻6号、1977年には「日本細菌学会(時によりこの名称とは異なる)」
の第1回(1927年)から第20回(1947年)までの講演の一覧がある。 それによるとゲルトネル菌とかサルモネラという言葉が登場するのは第9回(1935年)が最初である。この年は、ゲルトネル菌についての報告とサルモネラについての報告がそれぞれ1本ずつ行われている。翌年の第10回の学会では陸軍の西による鳥取での食中毒についての報告「ゲルトネル氏腸炎菌に依る食中毒」1本だけである。


ところが浜松事件の翌年、1937年の第11回には合わせて10本の論文が発表されている。 そのうち6本は、石井四郎とその部下である江口豊潔、白川初太郎、内藤良一、佐藤俊二、井上隆朝、それに勝矢俊一らの共同研究である。これは北野が「防疫秘話」に書いているように、 防研が中心となって浜松の食中毒の解明にあたったのだから当然の結果であった。ただ、当初陸軍での原因究明の中心だった北野と西による報告がないことに気付く。北野は満州医大の教授に出、また西も研修を終わり第一線部隊に戻つていた。その後、西は1943年に石井部隊の孫呉支部長に就任し、翌年、同部隊の教育部長となり、敗戦後ハバロフスクでソ連の裁判を受けることとなる。



 第11回の学会では、サルモネラその他のこれに類する報告は陸軍のものが目立ったが、その後は大学や研究所の研究者によっても数多く行われるようになった。
 石井とともに浜松に行った小島も、第11回の学会には「腸炎菌主としてゲルトネル菌免疫学的研究」を発表している。助教授時代とそれ以前の小島は、「日本細菌学会」では第4回に「抗毒血清の濃縮法に就て」を、第6回に「化学的に観たる微生物」いう報告を行っており、食中毒やサルモネラやゲルトネル菌についての発表はない。ところが第11回の学会以後、彼は日本各地の各種の食中毒とその原因となる菌について精力的に調査収集を行い、その結果を発表するようになった。そして1939年には、弟子の八田貞義と共著で『食中毒菌』(金原書店)を発表した。この本は日本でのサルモネラ学の基礎を築いたといわれる。またこの頃に小島は「日本国サルモネラ委員会」を作り、サルモネラ研究で日本と外国とを結ぶ役割を果たすようになっていた。この委員会は、コペンハーゲンの国際サルモネラ・センターから診断用血清のための株を多数贈られ、国内の研究の進展に貢献した。小島の主要業績であるサルモネラの分類も、この国際協力のひとつとして、学術振興会の援助を受けて行われた。



 藤野恒三郎大阪大学名誉教授は、その著『藤野・日本細菌学史』で、小島が浜松でゲルトネル菌による食中毒を実地見聞してからサルモネラ委員会を作るまでの経過を「浜松大福餅食中毒事件からはじまって・・・わが国のサルモネラ学発展の基礎ができた」と書いている。
 こうした歴史的な食中毒事件に小島が立ち会うことができたのは、彼が軍、特に石井と関係を持っていたからであろう。伝研の教授で浜松に出かけたのは小島1人である。食中毒は現在であれば厚生省の所管だが、当時は内務省が原因探求その他をすることになっていた。 内務省からも衛生課長と技師が現地に急行した。それは小島や石井が現地に到着したのと同じ日だった。ところがすでに陸軍ではその2日前の13日に、軍医学校の防疫学教室が原因がゲルトネル菌であることを突きとめていた。この事実は当時の日本の公衆衛生行政にとって、陸軍が大きな役割を果たしていたことを意味している。


 北里柴三郎が1892年に創設した伝染病研究所は、内務省の研究機関だったが、1914年に文部省・東大に移管されていた。そのため内務省には自前の研究・検査機関がなかった。他方陸軍は機動力もあり、徴兵検査を受け持ち、大量の兵隊を抱えてその健康維持・増進に責任を負っており、陸軍省医務局が公衆衛生に大きな役割を果たしていたのだった。その意味で、戦後伝研が改組され、一部が厚生省傘下の予研になったことは、公衆衛生行政からすれば当然のことだったかもしれない。



 こうした時代状況を考えると、小島が陸軍と密接な関係を持っていなければ、当時まだ食中毒の専門家ではなかった彼が、内務省の衛生担当者と同じ日に浜松入りすることも、また、原因となったゲルトネル菌の入手もありえなかっただろう。軍医学校の嘱託かそれに近い立場にあったために、いち早く食中毒の研究に着手できたことは事実である。研究者の側からすれば、これが嘱託研究者となることのメリットのひとつであった。そして小島の場合、このメリットがその後の医学者としての経歴を作ったのだった。


 浜松に出かけて調査をした感激を小島は、帰京からまもない5月27日に行われた「食物中毒に関する座談会」で「・・・今回は初めて私がゲルトネル氏菌を研究室以外で扱ったので、つまり街頭進出でありまして・・・」と述べている(『日本医事新報』第717号)。これ以前は、いつも事後に食中毒を知らされ、1度も現地調査をしたことがなかったのだった。だが、彼が死の直前1962年8月に高田で講演し、死後印刷された回顧録では「日本国サルモネラ委員会」については多くが語られているが、そのきっかけとなったはずの浜松への出張については、それ以外の出張と一緒にわずかに触れられているだけである。20年もすると感激が薄くなるということであろうか、あるいはまた石井とのつながりで出かけたことが、気持ちにひっかかりを生んでいるのだろうか。


 小島にとってもう1つのメリットは、自分の弟子の命を救ったことだった。彼の弟子で、戦後予研の所長や長崎大学の学長を務めた福見秀雄は、筆者に対して次のような話をしてくれた。自分が石井の防研に勤務したのは敗戦までの約1年弱だった。医者だから短期現役を志願すればよかったのだが、軍に行きたくなくて志願しなかった。そのため懲罰召集で1944年冬に、死ぬ確率の非常に高い南方に送られることとなった。小島先生と南京の多摩部隊に出張し、仕事が終わり1人で残っていた時に呼び戻された。和歌山で南方への船を待っている時に東京に呼び返された。これは小島先生が石井に話をしてくれて、防研に見習士官として勤務することになったためである。




 小島は何回か南京を訪れているが、『日本医事新報』の1004号(1941年)の「消息」欄には次のような記述がある。「小島三郎氏 (伝研所員)陸軍軍医学校の依頼により学術研究の為、約2週間の予定を以て南京に出張さる」。『小島博士追悼録』によれば中国には1941年と1944年1月に文部省から派遣されて出張、となっている。



人体実験の業績

E・ヒルとJヴィクターは、第1章で述べたように軍医学校の嘱託であった小島三郎、細谷省吾、内野仙治を「ハルビンあるいは日本で生物戦に関して研究していた人たち」の一員として尋問している。したがってヒル&ヴィクター・レポートにある尋問記録は、小島たちが石井機関との関連で行ったと述べた研究その他を記述したものと考えるべきである。
 彼らが軍医学校防疫研究室の嘱託として行った研究を見て行くと、嘱託であったからこそ可能だった研究をいくつか指摘することができる。その内容はワクチン開発など人体実験によって研究が著しく進展したもの、あるいは軍という機関と関係を持ったことで得た疫学情報が、研究の中核をなしてたもの、などである 。

  
 細谷の場合、情報の流れを軍医学校研究部の資料によって、もう少し具体的に示すことができる。1943年末に軍医学校研究部(部長稲垣克彦軍医少佐)は軍医学校調査室を前身として発足した。研究部の任務は「情報・文献の蒐集・配布、各研究所間の調査連絡に当り、研究要員・資材の供給に違算なからしめ、碧素(「ペニシリン」)、結核、マラリヤ等動員会議の運営を行い研究の催進に努め・・・」ることだった(『軍医学校研究部年鑑』昭和18年12月―昭和19年12月)。

小島三郎(ウキペディア)
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年(明治21年)8月21日 - 1962年(昭和37年)9月9日)は、日本の医師。医学博士。
岐阜県各務原(かかみがはら)市出身。
人物
・旧姓は厳田。岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)卒業後、実業家を目指して東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、21歳の時に羽島郡中屋村(現・各務原市)の叔母の小島家に養子にだされ、小島姓となる[1]。小島家が代々医者であったため、家業を継ぐために東京高等商業学校を中退している。

・医学界のみならず、スポーツ界においても、1938年(昭和13年)に全日本スキー連盟会長に就任、近代日本スキーの基礎をつくりあげている。
・伝染病予防、予防衛生学、公衆衛生など、病気の予防に対する研究を終生行っている。研究内容は防疫、予防、上下水道、大気汚染、食中毒と多岐にわたる。特に、予防衛生学の基礎確立に尽力している。コレラ、腸チフス、赤痢の消化器系伝染病の撲滅を目指し、赤痢についてはSS寒天培地、検査法の改良に力を注いでいる。
・インフルエンザに対してまだ国内で関心が無い時、インフルエンザウイルス研究を始めている。

来歴
・1888年(明治21年) - 岐阜県羽栗郡川島村河田(現・各務原市川島河田町)にて厳田弾之丞の三男として生まれる。
・1909年(明治42年) - 東京高等商業学校中退。第七高等学校造士館へ入学。
・1912年(明治45年) - 第7高等学校を卒業。東京帝国大学医科大学に入学。
・1916年(大正5年) - 東京帝国大学医科大学卒業。
・1917年(大正6年) - 伝染病研究所に入所。
・1920年(大正9年) - 医学博士。
・1926年(大正15年) - 細菌学、衛生研究の為、2年間ドイツへ留学。
・1935年(昭和10年) - 東京帝国大学教授に任じられる。戦時中は陸軍1644部隊にて細菌戦の研究に携わる。
・1947年(昭和22年) - 国立予防衛生研究所設立とともに副所長として就任。
・1954年(昭和29年) - 国立予防衛生研究所所長に就任。
・1958年(昭和33年) - 国立予防衛生研究所所長勇退。保健文化賞受賞。

その他
・幼少時より頭が良く神童といわれていた。事実特例として、満4歳で博文尋常小学校(現各務原市立川島小学校)に入学している。
・スポーツ万能であり、中学で野球、高校でボート、大学では馬術、水泳、スキーなどで活躍していたという。
・1919年(大正8年)に伝染病研究所を辞めて中屋村の家業の医院を継いでいる。しかし、伝染病研究所の再三の要請や、研究を続けたいという思いもあり、1年あまりで家業を譲り、再び伝染病研究所に入所している。
・娘の露子は東京大学医学部助教授・東京共済病院長中川圭一に嫁ぐ。参議院議員・環境事務次官の中川雅治は孫。
・彼の功績をたたえ、1965年(昭和40年)より、小島三郎記念賞が設定され、病原微生物学、感染症、公衆衛生学に対する優れた研究、技術に対し贈られている。
・使用していた医療器具、愛用品、手紙などは、各務原市川島ふるさと史料館(各務原市川島会館4階)に保管展示してある。また出生地には記念碑が建っている。








イタイイタイ病を究明した男 萩野昇

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萩野 昇(富山のシュヴァイツァー)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
 富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
 
イバラの道を進んだ医師
 このイタイイタイ病を発見し、原因を解明したのが地元の開業医、萩野昇である。イタイイタイ病の原因は神岡鉱山から排出されたカドミウムであったが、この原因解明までの道のりは平坦ではなかった。それは険しいイバラの道に等しかった。「田舎の開業医に何が分かる」という医学界の冷たい視線を浴びながら、萩野昇は自説の正しさを、それこそ血みどろになって証明したのだった。真実を真実として学問的に追求し、そして逆境の中でイタイイタイ病の原因を突き止めたのである。萩野は身を切られるような激痛に苦しむ患者を哀れみ、その想像を絶する苦しみを自らの肌で感じ、そして何よりも患者を救いたいという使命感を持っていた。萩野に私心はなかった。目の前の悲惨な患者を助けたい、「痛い、痛い」と叫びながら死んでいった罪のない患者の無念にむくいたい、医師としての純粋な気持が病因解明の原動力となっていた。


 大正4年に生まれた萩野昇は、旧制金沢医科大学を昭和15年に卒業すると、研究生として病理学を専攻した。しかし研究する間もなく軍医として徴兵され、病理学教室に籍を残したまま7年間のあいだ戦地の野戦病院で傷病兵の治療にあたった。そして中国大陸で終戦を迎えると、昭和21年3月21日、7年ぶりに故郷の富山県へ帰ってきた。


 終戦当時の日本は、都市部のほとんどが空襲によって焼け野原となっていた。人々は栄養不足に陥り、シラミまみれのボロボロに汚れた服を着ていた。それは富山市も例外ではなかった。富山駅に着いた萩野は、かつて賑やかだった街並みが瓦礫となり、まばらに建つ粗末なバラックに愕然となった。それは7年前に歓声とともに送られた富山市の光景ではなかった。変わりはてた街並み、生気を失った人々の疲れ切った表情、崩れ落ちた建物を見ながら、萩野は富山市から6キロ離れた婦負郡婦中町(熊野の里)の生家へと足を速めた。富山の市街地から遠ざかるにつれて、記憶に残る懐かしい古里の風景がしだいに見えてきた。



 昔のままの有沢橋を渡りながら神通川を眺めると、神通川は水面をきらめかせて清らかに流れていた。遠くに見える剣岳、立山、薬師岳などの北アルプス連峰も子供の頃と同じだった。生家のある婦負郡婦中町は豊かな穀倉地帯で、幸いなことに空爆をまぬがれていた。水田に点在する農家、昔からの樹木などの懐かしい風景は7年前の記憶のままだった。
 戦地で働いている間、萩野は家族とは音信が途絶えていた。そのため家族は自分の無事を知らず、また家族の無事も萩野は知らずにいた。はたして無事だろうか、萩野はせく気持ちを抑えながら生家の門をくぐると、皆は昇の元気な姿を見て驚き、喜びの表情で迎え入れた。死んだと思っていた昇が無事に帰ってきた。その驚きと喜びは無理もないことだった。互いに涙を流しながら無事を喜びあった。
 
病院を継ぐ
萩野家は代々医師の家系である。初代は富山藩前田侯のお抱え医師で、昇の父は高松宮家の侍従医を勤め、その後に萩野病院の院長として働いていた。萩野家は広大な土地を持ち、病院を経営するかたわら 200人の小作人を持つ地主でもあった。このように萩野家のかつての暮らしは裕福だった。萩野は故郷に帰ったら、母校の金沢医大で病理学の研究をしたいと考えていた。しかし病院長であった父親が戦争中に亡くなり、多額の財産税や相続税をとられ、萩野家はその日の食料も買えないほど生活に困っていた。萩野家は名家であったが、戦争によって落ちぶれていた。生活費がなく子供たちの学費も出せない状態であった。萩野は年老いた母や幼い弟たちを養わなければならない立場になった。そのため金沢医大での研究をあきらめ、父親の後を継いで、翌日から萩野病院の四代目院長として診療にあたることになった。萩野病院に若い跡継ぎの先生が戻ってきたことから多くの患者が押し掛けてきた。
 
イタイイタイ病と出会う

萩野が整形外科医として父の白衣を着て診察を始めると、すぐにある奇妙な病気に気づくことになる。それは神経や骨の激しい痛みを訴える病気であった。彼は7年間、軍医として多くの神経痛の患者を診察してきたが、これほど激しい痛みを訴える患者を診察したことはなかった。しかも痛みは慢性進行性で、痛みが始まると数年後には患者はかならず多発性の骨折をきたした。この多発性骨折をきたす病気は何だろうか、まったく見当がつかなかった。同じ症状を訴える患者が次々に萩野病院に押し掛けてきた。骨折の痛みに悲鳴を上げながら患者は診察を受けにきた。どの患者も「痛い、痛い」と悲痛な痛みを切なく訴えた。萩野はレントゲン写真をみて驚いた。身体中の骨は枯れ枝のようであった。痛みの訴えの切実さが理解できた。「痛い、痛い」と泣き叫ぶ患者の様子から、看護婦はこの悲惨な患者を「イタイイタイさん」と呼んでいた。そして萩野病院ではいつしかこの病気を「イタイイタイ病」と自然に呼ぶようになった。



イタイイタイ病の初期症状は軽度で、農繁期や過労が続いたあとに、手や腰に痛みが出る程度だった。また入浴や休養によって回復することから、最初は農作業による単なる過労と軽く受け止められていた。この初期症状の患者は診察しても外見上の異常は見られない。しかし痛みはしだいに強くなり、大腿部、背部などに神経痛に似た、切られるような鋭い痛みが走り、骨のレントゲンでは骨粗鬆症の所見が見られた。痛みは年単位で悪化し、患者は全身に痛みを訴え、歩く際には大腿部の痛みをかばうため、アヒルのような格好で歩くようになった。

そして痛みのため仕事や家事ができなくなり、数年後には骨折をきたし、激しい痛みから歩行も困難となった。骨は薄くもろくなり、身体を動かしただけで、また医師が細い腕の脈をとるだけで、あるいは咳をしただけで容易に骨折を引き起こした。患者は多発性の骨折のため、昼夜を問わず「痛い、痛い」と訴えるようになった。患者の中には全身72ゕ所に骨折をきたした患者がいた。また脊椎の圧迫骨折のため30センチも背が縮み、まるで子供に戻ったように小さくなった患者も多かった。患者たちは何ら治療法のないまま、苦しみの中で寝たきりになっていった。この病魔におかされた患者は、あまりの痛さから、また精神的苦悩から自殺に至った者もいた。


イタイイタイ病の患者のほとんどが40歳を過ぎた中年以上の女性で、子供の患者はみられず、男性患者はまれであった。更年期の主婦、しかも子供を多く産んだ経産婦がほとんどであった。中年女性に発症することから、イタイイタイ病を抱えた家庭は、家事を支える主婦を失ったのと同じ状態に陥った。病魔に襲われた主婦は農作業はできず、家事もできず、家計は苦しくなった。当時は医療保険のない時代である。医療費はかさみ家族全体が貧困による生活苦から抜け出せずにいた。また中期症状として恥骨の痛みがあり、股を開くことができず、排便も困難になり、夫婦生活はもちろん不可能となった。


夫はいっこうに治らない妻を介護しながら、妻の代わりに子供の世話、家事をしなければならなかった。そしてこのような家庭にあって夫はしだいに酒に溺れ、家庭そのものが崩壊していった。この病気は病名もわからず、治るあてもなく、家庭を絶望のどん底に突き落とした。家族はまるで呪われた病気であるかのように業病ととらえていた。業病とは前世の因縁によって発症する宿命的病気を意味しており、このため家族は病人の存在を他人に知られることを恐れ、病人を周囲から隠そうとした。
萩野病院には同じような症状を訴える患者が押しかけ、外来患者の7割を占めるまでになった。それでも歩いて受診できる患者はまだよい方で、歩けない患者はリアカーに乗せられ、あるいは寝たきりの患者は畳ごと担ぎ上げられて病院へ運ばれてきた。外来患者の多くが病名も分からない悲惨な病魔に襲われていた。そして入院患者の多くもイタイイタイ病患者で占められた。
 
生ける屍
 往診に出かけると、寝たきりの老婆が薄暗い部屋の奥で痛みに耐えながら動けないでいた。最初のうちは家族の同情があっても、慢性進行性の治らない病気に家族からしだいに疎んじられ、家の奥に放置されたまま孤独のなかで病魔に耐えていた。家族は近所の目をはばかり、奥の納屋に病人を隠すように寝かせていた。イタイイタイ病の末期患者は、寝返りをしただけで、あるいは笑っただけで骨折をした。それは身のすくむような悲惨な状態であった。身体中の骨が多発性の骨折をきたし、患者の手足は数ゕ所でねじ曲がり、どこが肘なのか膝なのか分からないほどであった。また布団の重さによっても骨折することから、やぐらを組んで布団が掛けられていた。風呂に入れてやることもできず、まるで地獄絵のようであった。萩野は骨がボロボロに折れている患者を診察するたび、胸がふさがれる気持ちになった。


この病気は脳をおかさなかった。そのため最後まで患者の意識ははっきりしていて、死ぬまで痛みから逃れることはできなかった。また内臓にも病変をきたさないことから寝たきりのまま10年、20年と生き続け、生身を切られるような激痛に最後まであえぎながら、生きる屍となって衰弱していった。そして食事が摂れなくなり、孤独と絶望の中で死んでいった。火葬された遺体は、頭部以外の骨はほとんどが灰となって、骨としての原型をとどめなかった。いつ骨折しても不思議ではないほど骨は薄く、箸でつまめないほどもろくなっていた。

神経痛やリウマチでは骨折をきたすことがない。そのためイタイイタイ病は神経痛やリウマチとは明らかに違っていた。萩野にとってこれまで見たことも、経験したこともない病気だった。萩野はこの奇妙な疾患をなんとか治そうと医学書や医学雑誌などを調べたが、どこにもそのような病気の記載はなかった。午前中は外来診療、午後は往診、そして深夜になってイタイイタイ病の研究という毎日が始まった。
 

病因の究明に乗り出す

萩野はこの悲惨な患者を救済するため、すべてを投げうってイタイイタイ病の研究に打ち込んだ。業病とされる患者を前にして、この患者たちに何の罪があるのだろうか、あるはずはない。病気には病気になる病因が必ずあるはずと考えていた。そして目の前の悲惨な患者を助けたい一心でこの奇妙な病気の解明に乗り出した。

萩野はもともと研究心が強かった。大学を卒業して病理学を専攻したこともその研究心の表れであった。病理学とは患者の解剖や動物実験によって病気の本当の原因を明らかにする学問である。病気の原因が明らかになって、初めて治療が可能になることから、病理学は医学の基本的な学問である。イタイイタイ病にも必ず原因があるはずだ。その原因が分かれば、治療法も確立し患者を救うことができる。萩野はそれが自分に課せられた使命であると信じていた。過労、貧血、栄養障害、寄生虫、あらゆる原因を想定して検査をしたが、この奇病の原因は依然として不明だった。治療法がわからないまま患者だけが増えていった。そして地獄の苦しみの中で患者は死んでいった。


 萩野は萩野病院に残されたカルテを丹念に調べてみた。二代目の祖父の時代にはこの病気の記録はなかった。イタイイタイ病についての最初の症例は大正時代、三代目の父の時代に記録が残されていた。父はすでに亡くなっていて、この奇病を父がどのように考えていたかを訊くことはできなかった。しかし得体の知れないこの奇病を、父は富山の風土病と考えていたようであった。
イタイイタイ病患者は神通川流域に住む40歳以上の農村の主婦が大部分だった。また子供をたくさん産んだ更年期以降の主婦に多くみられた。さらに地元出身の主婦の発症年齢は若く、他から嫁に来た主婦の発症年齢は遅かった。そして不思議なことに、娘時代まで神通川流域で育ち、他の土地に嫁に行った女性は発症しなかった。この病気は血縁のない姑と嫁が同じように発病したことから遺伝病は考えられなかった。


 イタイイタイ病が風土病とされたのも無理はなかった。この疾患は婦中町を中心とした数キロ四方の地区に限られ、日本のどの地区にもこのような病気は見られなかったからである。神通川6キロ下流にある富山市にも患者は存在しなかった。萩野は患者を富山市の県立中央病院、市民病院、赤十字病院などへ紹介したが、腎臓病、リウマチ、脊椎カリエスなど様々な診断がつけられ冷たく帰されるだけだった。病因も分からず、治療法も分からず、また他の医師の興味も引かないまま患者は帰されてきた。
 

暗中模索の研究
田舎の開業医にすぎない萩野だけではイタイイタイ病の解明は困難だった。そのため昭和22年、母校である金沢大学医学部第一病理学教室を訪ね、イタイイタイ病解明への支援を頼むことにした。第一病理学教室では恩師の中村八太郎教授はすでに亡くなっていたが、萩野の先輩にあたる宮田栄が教授になっていた。萩野がイタイイタイ病の説明をすると、宮田教授は共同研究を快く引き受けてくれた。そして宮田教授は暇を見つけては萩野病院を訪ね、萩野と一緒に患者の家を訪問し、イタイイタイ病の究明に力を貸してくれた。患者の頭から足先までレントゲンを撮り、採血、採尿を繰り返したが原因は分からなかった。


この病気の初期症状は骨粗鬆症で、中期以降の症状は骨軟化症の症状と一致していた。そのため骨軟化症の治療薬であるビタミンDの投与を行ったが、終戦直後のビタミンDは粗悪品だったため、下痢、嘔吐などの副作用ばかりで治療効果はみられなかった。原因は依然として不明のまま時間だけが過ぎていった。骨粗鬆症、骨軟化症というキーワードは分かっていた。しかしなぜ骨粗鬆症、骨軟化症を引き起こすのか、そのメカニズムが分からなかった。


イタイイタイ病が通常の骨軟化症と違うのは、腎臓の尿細管がまず障害され、尿中のタンパク、カルシウムが増加することだった。カルシウムの排泄が増加すれば、骨が薄くなるのは当然であるが、なぜ身体に必要なカルシウムが尿から排泄されるのかが分からなかった。原因不明のまま、新規患者は昭和21年には40人、昭和22年には20人、昭和23年には30人となり、総患者数は増加していった。


萩野は原因の一つとしてウイルスや細菌などの感染症を疑い、病院の片隅に動物小屋を作って、患者の便、尿、血液などを数10匹のラットやウサギに感染させる実験を繰り返したが、動物はなんら変化を示さなかった。終戦直後の大学の研究費は限られていた。そのため研究費の大部分を萩野が出していたが、肝心の研究成果は得られなかった。そして昭和30年、宮田教授が脳卒中で倒れて故人となり、10年間の共同研究は暗中模索の中で挫折した。


昭和30年5月、東京北品川にある河野臨床医学研究所の河野稔博士がリウマチの講演のため富山県を訪れた。そして富山県厚生部から婦中町にリウマチに似た不思議な病気があることを聞き、河野稔は萩野病院を訪ねてきた。彼はこの悲惨な奇病を診察し、この病気は日本に類のない悲惨な奇病で、原因解明のための共同研究を約束した。河野稔はリウマチの専門家であったが、イタイイタイ病はリウマチとは明らかに違う疾患と断言した。また血縁のない姑、嫁が罹患することから遺伝性疾患とは考えられなかった。同じ地区に多発することから感染症の可能性が高いと考え、トリコマイシンの発見者である東大名誉教授、細谷省吾を伴い本格的な共同研究を行うことになった。
 
全国に知れ渡った奇病

昭和30月8月4日、富山新聞朝刊の社会面トップ記事を見た富山県民は驚いた。それは富山新聞がイタイイタイ病をトップ記事として大きく報じたからである。イタイイタイ病が五段抜きの見出しで、県民の目の前に飛び込んできた。この富山新聞の記事によって、婦中町熊野地区の奇病、イタイイタイ病は一般の人たちの注目を集めるようになった。


富山新聞の八田清信記者が書いた記事はイタイイタイ病を次のように説明していた。
この病気はこれまで医学界に報告されていない奇病であり、婦中町熊野地帯に多発していること。日本医学界の権威者たちが大挙して来県し、正体解明のためメスを入れることになったこと。このイタイイタイ病は婦中町の熊野地区に大正時代から存在していて、業病、奇病とされていたこと。そして「痛い、痛い」と泣き叫びながら死んでいった患者が100人以上、現在も100人以上の患者が苦しんでいること。さらにこの奇病は地元の萩野病院長、萩野昇博士が発見者であり、リウマチの研究者、細菌学者などが中心となり奇病の解明がなされていること、などであった。

この富山新聞の報道が富山県民を驚かした。それまで県民は自分たちの住んでいる県内に、このような病気が存在することを知らなかった。一方、患者たちは、自分たちの病気がイタイイタイ病という奇妙な名前の病気であることを知って困惑にかられた。この新聞報道をきっかけにマスコミがこぞって動きだし、医学界の権威者が注目したことから、婦中町に閉じこもっていた奇病が富山県だけでなく、日本の津々浦々まで知れ渡るようになった。富山新聞の記事が富山県婦中町熊野地区の奇病を世に知られるきっかけを作った。


昭和30月8月12日、イタイイタイ病の謎を解くため、河野稔を中心とした10数人の医師らによる集団検診が萩野病院で行われた。そしてそれらしい症状を持つ200人が朝の4時から萩野病院の前に集まりはじめた。この受診者の数に驚いた婦中町当局は、職員、保健婦を集め病院前にテントを張って対応したほどである。この集団検診は2日間にわたっておこなわれ、イタイイタイ病患者は52人、その中で男性は3人であることが判明した。
ある婦人は河野にすがりつき「こんな病気は1日も早くなくしてほしい。どうせ死んだも同然の身体だから、痛む片腕でも片足でもよいから切り取って研究してください」と訴えた。この言葉に医師たちは胸をうたれた。河野稔は二人の患者を東京に連れて帰り、各大学の専門家を集め骨系統の疾患を中心に共同研究が精力的に行われた。
 
共同研究の結果

共同研究には世界的な学者たちが参加し、各分野での研究がなされた。イタイイタイ病の原因は感染症ではないことだけは共通の認識となったが、本当の原因は不明のままであった。感染症でも遺伝性疾患でもなければ、何らかの環境因子が関与していることが想像された。権威ある学者たちにとってイタイイタイ病の原因を不明とは言いづらかった。そのためこの地区特有の環境が疾患の原因と説明することになった。


昭和30月10月、河野稔と萩野昇の名前で研究成果が発表された。そしてこの奇病の原因を「栄養不良、過労、ビタミンD不足、日照時間不足」と結論づけたのである。さらに産後の休養期間が短いこと、夫婦生活の多いことも要因として付け加えられた。もちろん、萩野にとってこの結論は納得できるものではなかった。もしこれらが原因であればイタイイタイ病は全国の農村で見られるはずであった。


婦中町より栄養状態の悪い農村はいくらでもあった。日照時間も婦中町は富山県内では長いほうで、また神通川中流の地区だけが過労であるはずはなかった。しかし田舎の開業医としては、大学の研究者の結論に反対することはできなかった。萩野にとって不本意な結果となった。彼は権威ある偉い先生の学説に反対できない悔しさを味わった。


婦中町の農民たちは「イタイイタイ病の原因が、栄養不良、過労、ビタミンDの不足」と結論されたことに憤慨していた。それは婦中町が日本で最も劣悪な地区というレッテルを貼られたに等しいことだったからである。「婦中町では嫁にはろくなものを食べさせず、朝から晩までこき使っている」という暗いイメージが作られてしまった。地元の人たちの不満は共同研究者の萩野に浴びせられた。
婦中町は決して栄養不良、過労、ビタミンD不足の町ではなかった。これまで婦中町は健康栄養模範農村として3回表彰を受けていた。しかし富山県厚生部は婦中町の住民に対し、過労を防ぎ、肝油や小魚を多く摂るように指導した。婦中町は日本中に恥を晒すことになった。

共同研究班は原因を解明したとして解散となり、萩野はひとり残されることになった。「イタイイタイ病の原因が栄養不良、過労、ビタミンD不足のはずはない」このことを地元の医師である彼が一番よく知っていた。しかし農民たちは萩野がよけいなことを言ったからだと憤慨した。地元の反発もあり、萩野は孤立無援のなかで独自に研究を進めることになった。共同研究の成果はなかったが、世界的な学者が取り上げたことから、イタイイタイ病が日本中に知れ渡たり、さらに萩野が世の注目を集めることになった。


 イタイイタイ病の症状は骨軟化症の症状と似ていた。骨軟化症と違うのは、イタイイタイ病患者は必ず腎臓の尿細管障害を伴うことである。つまり尿からカルシウムが異常に排出されるため血液のカルシウムが減り、それを補うため骨のカルシウムが放出され、そのために骨が薄くなり骨折をきたすのであった。腎臓の尿細管障害によるカルシウムの異常排出がその病因であれば、イタイイタイ病が更年期以降の女性に多いことが説明できた。それは妊娠によって胎児にカルシウムを大量に奪われ、母乳からもカルシウムが奪われるからである。
 
なぜ婦中町だけが

 萩野昇の孤独な戦いが始まった。婦中町の日照時間、栄養状態、ビタミン摂取量などを再度調べてみたが、それらは他の町と比較しても水準以上であった。また労働時間を調べてみたが全国平均とほとんど変わらなかった。むしろ東北の貧しい農村や、北海道の開拓地は、婦中町よりも栄養状態は悪く、過労に悩んでいた。イタイイタイ病の原因が栄養不良や過労であるはずはない。ではなぜ日本の中で婦中町だけに患者が限定されるのだろうか。この疑問が常につきまとった。

 原因が分からないまま患者だけが増えていった。そしてある日のこと、萩野は富山県下のイタイイタイ病患者の家をひとつひとつ地図の上に赤いインクでプロットしてみた。すると患者のほとんどが婦中町、八尾町、大沢野町を中心とした神通川中流の一定の地域に限られていることがわかった。神通川上流の地域には患者は見つからず、また下流の富山市でも患者は見つからなかった。なぜ神通川中流の稲作地帯だけにイタイイタイ病が発生するのだろうか。


 神通川は昔から神の通る川として、地元住民はある種の信仰的感情を持っていた。萩野は神通川と赤いプロットとの関係をじっと見つめていた。そして病気が神通川中流に限られている理由を考えていた。
 もしかして、この神通川に悪魔が住んでいるかもしれない。萩野は神通川上流にある神岡鉱業所に釘づけとなった。彼は富山県から数キロ離れた岐阜県吉城郡神岡町にある神岡鉱業所の排水による鉱毒説を考えるようになった。


 神通川の水は北アルプスの山々から平野に入るまでは地形の高度差が大きく流れが速かった。そのため川底が深く洪水の被害は少なかった。また渓谷のため神通川の川水は農業用水として利用していなかった。しかし婦負郡婦中町付近では神通川の流れは急に緩慢となり、急流によって運ばれてきた土砂が川底に堆積し、周囲の水田より川底が高くなっていた。いわゆる天井川で、そのため婦中町では堤防工事が完成するまでは毎年のように洪水による被害が起きていた。そのため婦中町の住民は神通川を暴れ川とよんでいたほどであった。川底が周囲の水田より高いことから、婦中町では神通川の水を農業用水として取り入れ、大沢野用水、大久保用水、牛ヶ首用水が張り巡らされていた。そして神通川は婦中町を流れると、すぐに井田川、熊野川と合流して富山市に流れ込んだ。
「神の通る川」、神通川の川水は農業用水として田畑を潤し、水道が引かれる昭和40年まで、住民は生活用水や飲料水として利用していた。特に井戸が凍る冬場は川水を汲み飲用水として飲んでいた。



 神岡鉱業所の排水による鉱毒説が正しければ、神通川上流に患者がいないのは川の流れが速く、川底が深いため氾濫がおきないことから説明がついた。また下流に患者が少ないのは、井田川、熊野川の合流によって鉱毒が希釈されることで説明がついた。萩野は意識していなかったが、それは疫学調査であり、疾患と地理的関係を示すものであった。彼は神通川の水を採取し、全国の大学や研究所に送りその分析を依頼した。しかしいずれの分析でも有毒物質を検出することはできなかった。
 
鉱毒説にいきつく

 昭和32年12月1日、第12回富山県医学会が開催され、萩野は初めてイタイイタイ病の原因として鉱毒説を発表した。昭和21年以来、93例の患者のほとんどがタンパク尿を呈していること。その原因として神通川の水に含まれる亜鉛、鉛、砒素などの鉱毒が体内のホルモンを乱し、二次的にビタミンD不足をきたしイタイイタイ病を引き起こすこと。また患者の発生地が神通川流域の婦中町付近に限られるのは、特有の地形によりイタイイタイ病患者が神通川の水を多く摂取しているせいだと説明した。つまりイタイイタイ病の原因は神通川の水に含まれる鉱毒と発表したのだった。萩野は名前を出さなかったが、聴衆はそれを神岡鉱業所が排出している鉱毒を意味すると理解していた。神岡鉱業所は日本の大財閥である三井が経営する鉱山である。萩野の発言は大財閥三井への挑戦と受け止められた。


 彼の発表に対し周囲の反応は冷たかった。神通川の水質検査で問題がなかったことから、何の根拠もない仮説として学会で非難された。また鉱毒が亜鉛、鉛、砒素であったとしても、それらの重金属の慢性中毒症状はすでに知られており、それらがイタイイタイ病を引き起こすとは考えられないとされた。この科学的裏付けのない萩野の鉱毒説は医学界から完全に無視されてしまった。ある学者は、神通川に鉱毒があるという証拠がないこと、イタイイタイ病患者に鉱毒が含まれているかどうか確認されていないこと、鉱毒がイタイイタイ病を引き起こす証拠がないこと、これらを挙げ、萩野の鉱毒説は何の根拠もない俗説であると学会誌で反論した。


 たしかに萩野の鉱毒説は何の証拠もない憶測にすぎなかった。しかもこの鉱毒説は神通川上流の神岡鉱業所を犯人として公然と名指したようなものである。萩野は周囲から中傷を浴び、黙殺され、非難、攻撃の嵐にさらされた。しかし疫学的にはイタイイタイ病の原因は鉱毒以外に考えられなかった。その証拠がほしかったが見つけることができなかった。


 昭和33年、東京大学の吉田正美教授が萩野病院を訪ねてきた。吉田教授は萩野の鉱毒説に深い関心を示していた。そして神岡鉱山の実情を知らなければ学問的裏付けができないと主張し、萩野と2人で神通川上流にある神岡鉱業所を視察に行くことになった。東大教授の肩書きの威力は強かった。名刺を出しただけで職員は神岡鉱業所内をていねいに案内してくれた。萩野は教授の弟子のような顔をして構内に入り説明を受けた。神岡鉱業所に入って驚いたのは、周囲の山には緑の樹木が一本もないことだった。別世界のようなはげ山であった。神通川が死の川とすれば、神岡鉱山は死の山であった。


 神岡鉱山の歴史は古く、奈良時代にはすでに黄金を産出して、天皇に献上されたことが記録されている。多くの鉱脈を持ち、銀、銅、鉛を大量に産し、明治時代になって三井組(現在の三井金属鉱業)が買収した。日露戦争により軍の需要が増大し、大正時代にはさらに需要が増し増産された。


 神岡鉱山の採掘法はドリルで穴をあけた岩にダイナマイトをつめ爆破する。砕かれた鉱石は粉末状にされ、水を加え泥状にして、鉛、亜鉛を精製していた。そして残った堆積物は水とともにダムに流して沈下させ、その上澄みを川に流していた。このダム方式といわれる採取法はかつて神通川の氾濫で鉱毒により農作被害を受けた際に造られたもので、鉱毒被害を防止するために通産省が認定した方法であった。このダムができるまでは排水はそのまま川に流されていた。しかしこのダム方式でも大雨や台風などで水が溢れたら、あるいは上澄みに鉱毒が含まれていたら・・・・、この作業行程を見て2人はイタイイタイ病の鉱毒説を確信した。

 萩野は神岡鉱業所を見学して鉱毒説に確信を得たが、それを裏付ける証拠は何もなかった。研究の協力者はいなくなり、研究は行き詰まり失意の日々をすごしていた。イタイイタイ病と萩野の名前は有名になり、多くの研究者が萩野病院を訪ね研究の手助けを申し出たが、結局は話を聞くだけで、誰ひとりとして協力する者はいなかった。
 
他分野の協力者出現

 そのような時期に、農学・経済学者である吉岡金市博士(金沢経済大学学長)と巡り会うことになる。吉岡はたまたま黒部川水系の冷水害の調査のため富山県に来ていて、ついでに神通川の冷水害を調べようと婦中町を訪ねたのだった。そして婦中町の稲の根を見て、これは冷水害ではなく鉱害であると即座に断定したのだった。そしてこれだけひどい農業鉱害があれば、環境を同じにする人間にも影響があるはずだと言った。それを聞いた町議員の青山源吾は、イタイイタイ病という奇病がこの地区に多発していることを教えたのである。青山議員の母親もイタイイタイ病で亡くなっていて、その奇病の原因がまだ解明されていないことを告げた。吉岡はイタイイタイ病も鉱害が原因と直感した。


 吉岡金市は電話で萩野に面会を求めてきた。萩野はいつもの冷やかしの訪問と考え面会を断った。しかし吉岡は萩野病院を訪ね、「5分間でいいから院長に会わせてくれ」と玄関で粘った。萩野はこの吉岡に根負けして渋々面会することになった。そして話をしているうちに、「農作物の被害が鉱毒によるものならば、イタイイタイ病の原因も鉱毒によるものである」という点で、ふたりの考えが完全に一致した。農作物と人間の違いはあるものの、初めて鉱毒説の力強い味方を得たのである。吉岡はイタイイタイ病患者の家をスポットした地図に神通川からの農業用水を書き入れ、神通川を利用した農業用水の使用地区でのみで患者が発生していることを確認し、鉱害により被害を受けた農作物の分布と比較するという科学的データを作り上げた。そして患者の発生地域と農作物の被害地域が一致することを示した。また地元役場で死亡診断書を調査し、患者の発生数の増加と神岡鉱山の生産量が比例関係にあることを確かめた。吉岡は萩野の研究を最後まで支えることになる。


 さらに力強い味方が現れた。昭和34年、岡山大学教授の小林純博士から「神通川の水質を調べたい」と依頼の手紙が突然届いたのである。小林はかつて農林省農事試験場技師として戦時中の昭和17年に婦中町の稲作被害の調査を命じられ、「これは冷害による被害ではなく、上流の神岡鉱山から流れた亜鉛、鉛などによる鉱毒である」と農林省に報告した人物である。この報告書は戦争中であったことから曖昧に処理され、農民には補償金は出されなかった。その後、小林は岡山大学の教授となり、河川の水質検査の専門家となっていた。そしてスペクトログラフという最新の機器を岡山大学の研究所に備えたばかりであった。


小林教授は「科学読売」に報道された「日本に例をみない奇病、イタイイタイ病」の記事を読み、かつての神岡鉱山の鉱毒を思い出した。そして何らかの手がかりがつかめると思った。かつて農林省には亜鉛、鉛などによる鉱毒と報告したが、あまりに農作物の被害がひどいことから、それ以外の何かがあると考えていた。小林教授は神通川流域の奇病に関心を抱き、採水用のビンを手紙にそえて、萩野に神通川の水を調べたいので採取してほしいと郵送してきたのだった。
 
カドニウムの発見

 萩野は神通川の河水と患者の家の井戸水をプラスチックのビンにつめ小林教授のもとに送った。それまで各地の大学で問題なしと分析されていた神通川の水であったが、小林教授の分析によって驚くべき結果がもたらされた。小林教授はスペクトル分析によって「神通川の河水から、亜鉛、鉛、砒素、カドミウムが多量に検出された」と報告してきたのだった。亜鉛、鉛、砒素の慢性中毒はイタイイタイ病の症状とは違うことはすでに分かっていた。そのためカドミウムがもっとも怪しい物質であると手紙に書いてきたのだった。


 当時、カドミウム汚染について書かれた文献は日本にはなかった。「カドミウム」という言葉さえ医学書には書かれていなかった。そのため人体にどのような影響を及ぼすのか何も分からなかった。重金属であるカドミウムはほとんど知られていない物質であったが、亜鉛の鉱石には副産物として必ず含まれる物質であった。神岡工場は亜鉛を製錬する時に、副産物であるカドミウムを神通川に流していたのだった。


 萩野は金沢大学、富山大学の図書館でカドミウム中毒の文献を探したが見つからなかった。そうこうしている間に、吉岡がドイツの医学雑誌「中毒の治療と臨床」に、わずかに「慢性カドミウム中毒」の記載があるのを見つけてくれた。その論文はカドミウム電池工場で働く6人の労働者がカドミウム中毒によって歩行ができなくなり、レントゲンでは骨に横断状のひびが見られたというものであった。カドミウム中毒として記載されたその症状は、まさにイタイイタイ病の中期症状そのものであった。


ドイツの医学雑誌の記載によるとカドミウム中毒は潜伏期が2年であり、3年から4年後に神経痛様の痛みと貧血を生じ、8年後には明らかな骨軟化症の症状を示し、レントゲン所見では骨に亀裂が入り、患者は衰弱してアヒルのように尻をふって歩くと書かれていた。まさにイタイイタイ病の初期から中期の症状にそっくりな記載であった。萩野はとびあがるほど驚いた。


 ドイツの「慢性カドミウム中毒」の論文にはイタイイタイ病の末期症状である多発性の骨折の記載はなかった。しかしこれはカドミウムの摂取量の違いによるものだった。日本人は白米を食べるが、欧米人は食べない。もし神通川の水にカドミウムが含まれ、農作物に吸収され濃縮されていたら、中期以上の多発性の骨折症状を示しても不思議ではなかった。萩野はこの論文によってイタイイタイ病がカドミウムによる慢性中毒であることに自信を深めた。小林教授のスペクトル分析により、この奇病の原因として重金属カドミウムが急浮上したのだった。イタイイタイ病の解明に大きな前進がもたらされた。


 小林教授は神通川の水がカドミウムに汚染されていることを証明した。しかしカドミウムがイタイイタイ病の原因であるかどうかは、患者に含まれるカドミウムの分析が必要であったが、残念ながら小林教授は生体内に含まれる重金属の分析法を知らなかった。小林教授は人体に含まれる重金属の定量分析の方法を習得するため、昭和36年5月からテネシー大学のティプトン女史のもとに留学することになった。またカドミウム研究で知られているシュレーダー教授を訪ね、カドミウムに関する多くの資料と分析法を学んだ。
 

カドミウム説の確信

 小林教授は3ゕ月間、アメリカで分析技術を学んで帰国すると、真っ先に萩野病院に保管されているイタイイタイ病患者の臓器の分析にとりかかった。そして亡くなった患者の各臓器に含まれる重金属の分析を行い、各臓器から高濃度のカドミウムを検出した。骨ばかりでなく、あらゆる臓器を調べてみた。普通の人なら5 p.p.m.程度のカドミウム濃度が、患者の臓器からはその1000倍ものカドミウムが検出された。さらに小林はイタイイタイ病発症地区の白米と、他の地区の白米のカドミウム濃度を調べ、イタイイタイ病発症地区の白米から数10倍のカドミウム濃度を検出した。また稲の根からも数百倍、土壌からも数十倍のカドミウムを検出した。さらに神通川のフナ、アユからも大量のカドミウムを検出した。婦中町はカドミウムに高度に汚染されていたのである。


 患者の尿中のカドミウム量が異常に多いこと、神通川流域の土壌に含まれるカドミウム量が他の河川に比べて明らかに高いこと、イタイイタイ病の発生地区が神通川流域の水田の土壌のカドミウム濃度とよく相関していること、患者の発生地区ではタンパク尿の患者が高頻度に見出されたことが分かった。さらにイタイイタイ病の症状が文献上のカドミウム中毒の症状と一致することから、イタイイタイ病の原因がカドミウムである証拠が明らかになった。


 神通川の川水を下流から上流に沿ってカドミウム濃度を調べてゆくと、上流に行くほどカドミウムの濃度が高くなり、神岡鉱業所付近の川水のカドミウム濃度が異常に高い数値を示していた。
 神岡鉱業所は軍の蓄電池用の亜鉛を生産しており、その過程で生じたカドミウムを廃液として捨てていた。廃液中のカドミウムが20年から30年間の長期間にわたり川や土地を汚染し、飲料水、川魚、米に混入して、カドミウムが体内に蓄積してイタイイタイ病を引き起こしたのである。カドミウムが骨のカルシウムを追い出して骨をもろくしたのだった。


 昭和36年5月13日、岡山大教授小林純と萩野昇は富山県知事の吉田実と会見し、これまでの研究経過を説明し、富山県の奇病「イタイイタイ病」は三井金属神岡鉱業所の廃水が原因であると報告した。この報告に驚いた吉田知事は県庁幹部20人を集め、小林、萩野から詳しい分析報告の説明を聞いた。この会合は秘密のうちに行われているはずであった。しかしひそかに入室していた富山新聞の記者が、その内容を翌日の社会面のトップ記事にした。


 新聞の見出しは「イタイイタイ病の原因は鉱毒。患者の骨からカドミウムが検出、岡山大学小林教授が発表」「亜鉛、鉛、カドミウム、神通川に多量に含まれる」「白米にもカドミウムが含有されている」。この富山新聞社のスッパぬきによって、その日以来、多くの新聞記者が萩野を取り囲むようになった。カドミウムという重金属の名前が初めてマスコミに取り上げられたのである。


 そして昭和36年6月24日、萩野は札幌市で開催された第34回整形外科学会でそれまでのデータを発表することになった。発表には共同演者として吉岡金市博士が名前を連ねていた。日本各地の新聞社、マスコミは萩野の発表に注目していた。会場には整形外科医ばかりでなく多くのマスコミ関係者が押し掛けていた。それだけ社会的関心が高かったのである。萩野が壇上に上がると、カメラのフラシュがいっせいに連射され、映画撮影機が回りはじめた。


 萩野はこれまでの研究成果を発表した。それらを要約すると以下のとおりである。イタイイタイ病は神岡鉱業所から神通川に排出されたカドミウムが原因であること。神通川流域の住民がカドミウムを多く含む川水を飲み、あるいは汚染された米、農産物を長期間にわたり飲食することによって、カドミウムが体内に蓄積して慢性中毒を起こしたこと。その証拠として、カドミウムはイタイイタイ病患者周辺の神通川の川水あるいは流域の土壌に大量に含まれ、他の河川や土壌には少量しか認められないこと。またカドミウムは神岡工業所より上流の神通川には検出されないこと。さらにイタイイタイ病患者の骨などの臓器から多量のカドミウムが検出されたこと。これらのデータを示し、結論としてイタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒であると述べた。
 

いわれなき中傷

 しかし学会では悪意に満ちた質問が相継いだ。なぜ中年女性に多いのか、骨以外の臓器障害が少ないのはなぜか、動物実験をしていないのにカドミウムが原因といえるのか。このような質問に対し、萩野はひとつひとつ丁寧に答えていった。萩野の回答は正確なものであった。にもかかわらず結果的に難癖に近い非難を受けることになった。データそのものが間違いであると非難され、田舎の開業医の売名行為、神岡鉱業所から金をとるための行為と邪推された。「学者でもない田舎の開業医に何が分かる」という先入観がその根底にあった。高名な学者たちのほとんどが萩野の研究を非難した。これだけ世間の注目を浴びている萩野の研究を素直に評価する医師は少なかった。また支持する医師の声も聞こえなかった。イタイイタイ病に対する世間の注目が高ければ高いほど、学者として萩野の研究に嫉妬する気持ちが生じたのである。ある週刊誌では「萩野昇は学者でない、科学的証明が何一つなされていない」と高名な学者が非難した。神岡鉱業所は萩野学説は実証のないひとりよがりの考えと反論した。


なぜ正しい研究が学会の場で素直に受け入れられないのか。正確で科学的データに基づいているカドミウム説がなぜ非難されるのか。萩野には学会という学問の世界で自説が非難されるとは想像もしていなかった。正しい学問をなぜ学会が認めないのだろうか。学会が終わると、にがにがしい思いに憤りを覚えていた。そしてこの学会を頂点として萩野への非難、中傷が始まった。


 イタイイタイ病はカドミウムによって腎障害をきたす骨軟化症の一種で、医学的な診察基準も確立していた。しかしながら神岡鉱業所の肩を持つ医師が多くいた。岐阜大学と金沢大学医学部の有力教授は、イタイイタイ病との関連性を否定し、産業医学の権威者は萩野の研究に難癖をつけた。ネズミにカドミウムを投与する動物実験ではイタイイタイ病の発現はなかったと断言する医師もいた。このように三井財閥に有利な発言をする学者ばかりだった。患者の体内に大量のカドミウムが集積していることを数値で示し、それゆえにカドミウムが原因としたのは萩野だけであったが、学会では孤立無援の状態となった。


 また患者を抱える富山県も萩野の鉱毒説に否定的態度をとった。それは富山県が工場誘致を考えていて、企業側に都合の悪い鉱毒説を否定したかったからである。イタイイタイ病の原因を神岡鉱山とする科学的根拠が示されたにもかかわらず、富山県は三井財閥を正面から批判することに難色を示し、むしろ神岡鉱山犯人説に否定的立場をとった。


 富山県は県民の所得を上げるために大企業を県内に誘致しようとしていた。工業化を目指す富山県にとって、イタイイタイ病の神岡鉱山説は不都合だった。また岐阜県にある神岡鉱山の鉱石が少なくなったことから、神岡鉱山を富山県に誘致する計画が密かになされていた。イタイイタイ病という病人を抱えている富山県は、病人よりも企業誘致を優先させ、県内に潜行しているイタイイタイ病を歴史の闇に葬りたかった。
 富山県は政府の大規模工業化プロジェクトを受け入れようとしており、政府や大企業を批判することはできなかった。政府や大企業を批判しているのは少数の被害者で、県民の大部分は企業誘致のため多少の公害を我慢すると考えていた。
 
失意の日々と妻の死

 本来ならば味方となるべき農民も、農作物の売れ上げがおちることから萩野の悪口をいった。イタイイタイ病が神通川流域の奇病として知られるようになったが、その原因が何であれ農村に嫁が来なくなることを彼らは恐れた。そのため地元のイメージを悪くした萩野を批判した。「萩野病院へゆくとイタイイタイ病と診断される」と噂がたてられ、萩野病院の患者の数が激減した。病院には嫌がらせの電話が鳴りっぱなしとなり、「病院を爆破する」「地元にいられないようにする」といった脅しの電話や手紙が、萩野だけでなく病院職員にも相次いで舞い込んだ。卑劣な中傷や脅しによって、身の危険を感じた職員たちは萩野病院を去っていった。


 萩野は四面楚歌となった。なぜ真実を信じないのか。苦しんでいる患者を救おうとする研究成果をなぜ信じないのか。彼を苦しめたのは、学者や行政だけではなかった。彼を最も苦しめたのは、県政、企業の論理に操られた周辺住民の冷ややかな目であった。萩野ほどの人物に対しても、彼が有名になればなるだけ周辺住民のねたみも大きくなった。三井財閥からの無言の圧力が幽霊の声となって富山県を動かし、富山県から婦中町に、婦中町から住民に大きくのしかかった。


 萩野は自分の研究は患者のためと信じできた。そして奇病、業病として死を待つだけだったイタイイタイ病の原因を発見した。それなのにその気持ちが住民に受け入れられないことに絶望していた。
 神岡鉱業所から長期間にわたり大量に排出されたカドミウムが川や土を汚染し、農業、漁業を破壊し、そして人間そのものを破壊したのである。神通川流域の土壌にカドミウムが沈着堆積し、水稲、大豆等の農作物に吸収され、地下水を介して井戸水を汚染させていた。体内での長期間のカドミウムの蓄積が腎障害を引き起こし、カドミウムがカルシウムを体内から追い出し、カルシウム不足から骨軟化症を引き起こしたのである。なぜ地元住民は自分を信じないのか。やっとイタイイタイ病の原因を解明し、治療に応用したいと考えている矢先の非難中傷であった。


 昭和36年12月、「富山県地方特殊病対策委員会」が作られ、富山県がイタイイタイ病の原因究明に乗り出すことになった。しかし15人の委員の中にイタイイタイ病に最も詳しい萩野と小林の名前はなかった。富山県は、この人選はイタイイタイ病の原因について偏見を排除するため、自説をもたない学者によって研究を進めたいと説明した。しかし15人の委員の中では富山県医師会長をのぞくと、萩野の鉱毒説に反対を唱える学者がほとんどだった。そしてこの「富山県地方特殊病対策委員会」が行ったことは、患者名簿を作り、日照時間、栄養摂取状況などの調査で、まさに栄養説を補強するための委員会であった。さらに金沢大学でも、カドミウム説に反対を唱える学長を中心に「イタイイタイ病研究班」がつくられた。そしてそこにも萩野は選ばれなかった。萩野のカドミウム説に反対の立場をとった学者は富山県当局に取り込まれ、三井財閥に不利な発言をしなかった。さらにネズミにカドミウムを与えた動物実験ではイタイイタイ病の発生はなかったと発表した。ある一流月刊誌はカドミウム無害説を連載し、萩野の鉱害説を否定、彼の研究だけでなく人格まで非難した。


 萩野はこのような非難のなかで、しだいに酒におぼれ自堕落な生活に陥った。マスコミは萩野の自暴自棄の生活を面白おかしく報道した。いつしか萩野は肝臓病、糖尿病、中心性網膜炎という病魔に冒されていた。気力の低下だけでなく身体までも蝕まれていた。
 昭和37年10月、妻の茂子が他界した。茂子は病弱だった。昭和23年に長男茂継を出産してから結核を患い、病弱な身体で家事をこなし、子供を育て、病院経営も手伝い、診療と研究ばかりの萩野の生活を支えていた。茂子は結核に加えバセドー氏病を患い、そのアイソトープ治療の副作用に苦しみ死んでいった。茂子は自分の病状を萩野にしゃべらなかった。萩野は研究に多忙だったこともあり,茂子の看病をあまりしてやれなかった。


萩野はマスコミでは有名人になったが、研究ばかりか人格までも非難された。そのような流れの中で、茂子の病気をあたかも萩野へ下された天罰であるような報道がなされ、茂子の死を自殺だったとする噂が流された。萩野は周囲の中傷に加え、妻の死によって不幸のどん底に落とされてしまった。イタイイタイ病の研究に打ち込んで、茂子の看病をおろそかにしてしまったことを後悔していた。
 

予期せぬアメリカの評価

悲しみのどん底の中で茂子を思いながら、彼はそれまでの生活を一変させることにした。酒を止め、コーヒーもお茶も断ち、趣味のゴルフも止め、すべてをイタイイタイ病の究明に尽くすことを決意した。何もしてやれなかった妻に対する後悔の気持ちが萩野を蘇らせたのである。彼の前には、一介の開業医の力ではどうすることもできない大きな壁があった。しかし一歩たりとも退かないことを誓った。「自分の命があるかぎり、呼吸をしているかぎり、最後の血液の一滴を燃え尽くしてでも、真実を証明する」このことを死んだ茂子に誓ったのである。

 奈落の底にあった萩野に明るいニュースが飛び込んできた。日本整形外科学会で発表したデータがアメリカで認められ、アメリカ国立保健研究機構(NIH)から1000万円の研究費が送られてきた。日本の学会で白眼視された研究をアメリカが認めてくれたのである。うれしかった。アメリカは自由の国、学問の国、偏見のない平等な国であると喜んだ。アメリカが認めてくれたことから、不思議なことに萩野のカドミウム説は本当かもしれない、と周囲もしだいに認めるようになった。


萩野はアメリカからの研究費で動物小屋を作り動物実験を再開した。知人に酒の入った一升瓶を渡し、飲んで空になったら、神岡鉱山の廃水を一升瓶に詰めて返してもらうことを条件に、廃水を集めウサギに投与する実験をおこなった。この実験は何度も失敗した。慢性疾患を動物実験で成功させるには長い時間と根気が必要だった。子供も手伝ってくれて実験はしだいに成功に近づいていった。


 岡山大学の小林教授の実験室でも、ネズミを用いた実験が平行して行われていた。そしてついに成功した。カドミウムを混ぜた餌を与えたネズミでは、食べた以上のカルシウムが尿から排出され、骨が薄くなることが証明されたのである。1年間でネズミの骨の30%以上が溶け出し、225匹のネズミがイタイイタイ病と同じ症状を示した。この実験結果は昭和42年の日本医学会総会で発表され、逆もまた真なりを証明したのだった。イタイイタイ病のカドミウム説の一番の弱点であった動物実験に成功したのである。アメリカが萩野の研究を認め、研究費を与えたことがイタイイタイ病の原因としてのカドミウム説を証明したのだった。この研究により日本の研究者たちも萩野の学説を支持し、萩野は地元住民たちからも認められるようになった。


 またカドミウム説を否定するためにつくられた「富山県地方特殊病対策委員会」、金沢大学の「イタイイタイ病研究班」も、萩野のカドミウム説を次々に支持する実験結果を示した。そして彼の学説は次第に認められるようになり、迫害の流れが賞賛へと大きく変わっていった。


 もしイタイイタイ病の原因がカドミウムであれば、日本の他の亜鉛鉱山の河川にも同じイタイイタイ病患者がいてもおかしくはない。小林教授は日本中の川水の分析を行っていたので、可能性のある鉱山を知っていた。昭和39年9月、萩野と小林教授は、可能性の高い長崎県対馬にある東邦亜鉛対州鉱業所に調査に出かけた。3週間にわたる診察と調査から、その地区にもイタイイタイ病患者1人、死亡者2人、疑わしい患者数人を発見した。全身に疼痛を訴える患者は42人で、そのうちの21人から尿蛋白を検出した。また水田の土壌や井戸水から高濃度のカドミウムを検出した。対馬に患者が少なかったのは、亜鉛工場の規模が小さく、また水田が少なかったからである。この対馬の調査はイタイイタイ病のカドミウム説を裏付ける証拠のひとつとなった。



 昭和41年10月6日、萩野は富山県社会保障推進協議会から、イタイイタイ病に関する講演を依頼された。会場となった富山駅前の労働福祉会館大ホールは聴衆が入りきれないほどであった。萩野は悲惨な病気であるイタイイタイ病について3時間にわたり講演を行った。そしてこの講演をきっかけとして富山県各地で講演が頻回に行われ、富山県民はイタイイタイ病の悲惨な現状と、萩野の学説の正しさを知ることになった。そして三井財閥の経営する神岡鉱山に対する県民の怒りが高まっていった。
 
住民が立ち上がる

 昭和41年11月、それまで萩野を中傷していた婦中町の中から、ひとりの青年が立ち上がった。それは小松義久だった。小松は祖母、母をイタイイタイ病で亡くしており、近所に何人もの患者が苦しんでいるのを長年目撃していた。また農家で育った小松は農作物に被害をもたらした神岡鉱山の鉱毒被害を知っており、萩野の鉱毒説発表以来、祖母、母も同じ鉱毒で死亡したと信じていた。小松は神岡鉱業所に責任を取らせる被害者の会「イタイイタイ病対策協議会」を結成させた。その目的はイタイイタイ病を引き起こした神岡工業所の責任を裁判に訴え、謝罪を求めることであった。誰かが中心となって神岡鉱山と対決しなければいけないと覚悟を決めた。小松は農家を一軒一軒回り、イタイイタイ病対策協議会への入会を勧めた。それまで萩野に批判的だった婦中町も神岡鉱業所のカドミウム説を信じるようになった。三井財閥という巨大な陰を住民は恐れていたが、イタイイタイ病をもたらした神岡鉱業所を許すわけにはいかなかった。婦中町の住民は鉱害による農作物の被害を戦前から経験していた。


 この婦中町の住民がそれまでイタイイタイ病について沈黙を守っていたのは、富山県がこの奇病を栄養不足、過労によると意図的に宣伝していたこと、大企業である三井金属が相手では裁判で勝てるはずがないと諦めていたこと、お上に逆らわない引っ込み思案の住民の性格があった。またイタイイタイ病は業病とされ、家族が患者の存在を隠そうとしていたこともその要因であった。小松義久は「イタイイタイ病被害者の会」の組織づくりに奔走し、住民大会を開き、業病の汚名をそそぐべく団結した。「イタイイタイ病被害者の会」は富山県に協力を求めたが、婦中米の不買運動が起きることを理由に協力できないとの回答であった。次に神岡鉱業所との直接交渉を行った。イタイイタイ病被害者の会の30人は神岡鉱業所に出かけ責任者に面会を求めたが、警察による身元確認がなされ長時間待たされたうえ、「三井を犯人扱いしているようだが、そのような科学的根拠はない」というのが返事であった。


 イタイイタイ病については国会議員も動き出すことになった。昭和42年5月25日、参議院議員の矢追秀彦氏が萩野病院を訪ね、イタイイタイ病患者の悲惨な様子を見て涙を流した。そしてこのような悲惨な公害に何の手も打たず、追求もしなかった政治家としての責任を「申し訳ない」とわび頭を下げた。矢追は大阪出身の医師であった。彼は涙を流しながら、「こんなことが許されるはずはありません。政治家としてイタイイタイ病を国会で取り上げる」と約束してくれた。

 昭和42年12月6日、イタイイタイ病の患者代表、小松みよさんら3人が園田厚生大臣、椎名通産大臣に病気の実情を訴えに行くことになった。患者たちは身体の痛みがひどく、東京まで行けるかどうか自信がなかった。しかしこのようなむごたらしい病気を、二度と繰り返さないために、死を覚悟して東京に向かった。患者たちは矢追参議院議員の紹介で園田厚生大臣の前に進み出たが、ただ涙がこみ上げるばかりで一言も言葉を発することができなかった。しかし田舎の素朴な患者たちの言いたいことはブラウン管を通して国民の誰もが理解できた。そして背が異様に縮んだ患者の痛がる表情がイタイイタイ病の恐ろしさを伝えていた。
 
国会での証言と初の公害認定

昭和42年12月15日、萩野昇は参議院産業公害特別委員会に参考人として証言を求められた。まぶしいライトのなかで満席の会場はしんと静まり返っていた。「痛い、痛い」と泣きながら死んでいった農婦たちの姿が彼の脳裏に浮かんだ。
「私は単なる田舎の開業医でございます。何の力もございません。神岡鉱山のような日本の基幹産業を相手に戦おうというような気持ちは微塵もごさいません。ただ、一人の医師として患者が可哀相なばかりに、この病気の研究を積み重ねてきただけでございます。「痛い、痛い、先生なんとかしてください」、泣き叫びながら死んでいった中年の農婦たち。全身の激痛のため診察もできない老女の絶叫、主婦が寝込んだために起きた様々な家庭の悲劇、・・・・あの人たちに何の罪があるのでしょう、何があの人たちを地獄の苦しみに追い込んだのか・・・」


 会場は静まりかえっていた。咳払いひとつ聞こえなかった。萩野は声をつまらせ、目頭を潤ましていた。「私はただ患者が気の毒だと思います。私はただ患者を助けるのが医師の宿命として、純粋な立場で、謙虚な気持ちで研究を積み重ねただけです」。萩野のこれまでの戦いを支えてくれたのは、農婦たちの「痛い、痛い」と叫ぶ哀れな声であり、助けを求めようとする農婦たちの澄んだ瞳であった。萩野は身長180センチ、体重105キロの巨漢であったが、患者のことを振り返りながら涙で身体を震わせながらの証言となった。


 翌昭和43年5月8日、この日は日本の公害の歴史において記念すべき日となった。園田厚生大臣は萩野の主張をそのまま受け入れ、厚生省見解が次のように発表された。
「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒により腎臓障害を生じ、次いで、骨軟化症を来たし、これに妊娠、授乳、内分泌の変調、老化および栄養としてのカルシウムなどの不足が原因となってイタイイタイ病という疾患を形成したものである。慢性中毒の原因物質として、患者発症地を汚染しているカドミウムについては、神通川上流の三井金属鉱業株式会社神岡鉱業所の事業活動に伴って排出されたもの以外にはみあたらない」このように厚生省は、イタイイタイ病を三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因と正式に認めたのである。さらに厚生省の見解が裁判で争われた場合には、受けて立つとの見解も公表された。


 イタイイタイ病は日本で初めての公害病の認定となった。萩野が患者の発生地域と神岡鉱業所の位置などを総合的にとらえ、鉱毒説を唱えてから11年目のことである。
 患者たちは涙を流しながらこの園田厚生大臣の正式見解を迎え入れた。日本における初めての公害病の認定となったことには大きな意味があった。それは大衆を犠牲にして産業を育成させようとする戦後政治の脱却を意味していた。貧しい国民を犠牲にして産業を優先させるという、それまでの政治が大きく変わった記念すべき日であった。




この厚生省の結論は、萩野昇の血みどろの戦いがあったからである。萩野の学説は何度となく著名な学者から非難されたが、しかし萩野昇の学説が正しかったのである。
このイタイイタイ病の研究は世界的評価を受けた。アメリカでは「ペイン・ディジーズ」と英語でよばれていたが「イタイイタイ・ディジーズ」に、ドイツでは「ベェーベェー・クランクハイト」とドイツ語でよばれていたが「イタイイタイ・クランクハイト」というように萩野の名付けた病名が国際的病名となった。そしてWHO(世界保健機構)などの国際機関や国際学会でもカドミウムをイタイイタイ病の原因であると公式に結論づけた。萩野昇は日本医師会最高優功賞、厚生大臣感謝状、朝日賞(社会奉仕賞)などを次々に受けることになった。
 
初の公害裁判へ

 厚生省はイタイイタイ病の原因を神岡鉱業所が排出した公害と認定した。そしてイタイイタイ病は裁判所に場所を変え争われることになった。第一次裁判は患者と犠牲者の遺族23人が三井金属鉱業を相手に総額6200万円の損害請求額を求めて争われた。イタイイタイ病を追求する20人の弁護士が全国から集まり患者支援に立ち上がった。弁護士たちは貧しい患者から弁護料をとらず、すべて無償の手弁当で集まった。


弁護士は無報酬であったが、裁判には多額の費用が必要だった。裁判には訴訟請求額に応じて数十万円の印紙代がかかった。そのため全国の弁護士に支援を求め、全国300人の弁護士から300万円のカンパが集まった。また婦中町議会は「イタイイタイ病訴訟支援」を決議し、全員一致で町費から100万円の援助金を寄付することになった。また周辺の町からも援助金が集まった。県内世論はこの裁判を支援したが、富山県はイタイイタイ病は鉱害ではないとして動こうとしなかった。それどころか、市町村が一方的に裁判を応援するのは地方自治法違反であるとコメントを出した。



 この富山県のコメントに対し婦中町は、イタイイタイ病の医療費は町で負担している。もし原告が負ければ婦中町には膨大な被害を受けることになる。イタイイタイ病は個人の問題ではなく町全体の問題であり、もし県が市町村を非難するならば、特定企業を応援する富山県こそ地方自治法違反であると反論した。そして婦中町の議員全員がマイクロバスに乗り富山県の市町村をまわり、富山県内35の市町村のうち32の市町村から支援を得た。


 天下の三井財閥を相手にした裁判である。住民たちには絶対に負けられない裁判との悲壮感があった。生命をかけた闘い、どうしても勝たなければならない裁判であった。あとにひくことはできない、「負けたら切腹もの」と住民たちは覚悟を決めていた。
 国も住民のために立ち上がった。原告に代わり訴訟費用の一部を国が負担したのだった。国のこの訴訟救済は原告が勝訴することを確信してのことであった。このイタイイタイ病裁判は大きな意味があった。ひとつは日本最大のマンモス裁判であること、相手が日本有数の企業で、全国初の公害裁判であること、そしてこの裁判は人間の尊厳をかけた闘いといえた。


 いっぽう、神岡鉱業所のある神岡町はこのままでは神岡鉱山はつぶれるかもしれないとあわてていた。町の税収入の7割を占める神岡鉱山がつぶれれば、それこそ死活問題だった。神岡町の町長は「神岡鉱山を守る会」を結成して抵抗しようとした。しかし町長のかけ声に神岡町民は協力しなかった。人命がかかったこの裁判に町民の怒りのほうが強かった。神岡町の町民たちは、一歩間違えば自分たちが犠牲者になっていたこと、さらに神岡鉱業所の横暴な態度を見て協力しなかった。町民たちはイタイイタイ病の原告や弁護士が鉱山を調べに神岡町へやってくるたびに、温かく迎え入れ、道案内や宿泊の手配などを手伝った。


 厚生省がイタイイタイ病を神岡鉱業所の廃水による公害と認定したのに、なぜ裁判で争わなくてはいけないのか。それは被告側が長期裁判に持ち込み原告側の疲労と諦めを期待していたためだった。しかし裁判の過程で興味ある多くの証言が飛び出した。
 吉岡金市博士は次のような証言を行った。イタイイタイ病発生地区の杉の木を切って年輪を調べると、大正末期から昭和18年頃まで年輪の幅が非常に狭くなっていて、ほとんど成長していない。それ以降は徐々に成長して昭和20年以降は回復している。この杉の生長が止まった時期は神岡鉱山がさかんにカドミウムを流していた時期と一致すること、さらにイタイイタイ病が発生していない他の地区の杉の年輪はそのような変化は見られないと証言した。


 また神岡鉱山で働いていた老人は次のような証言をした。神岡鉱業所は人体に影響を及ぼすほど大量のカドミウムを流したことはないと主張しているが、亜鉛は潜水艦の蓄電池に使うため、太平洋戦争中は増産に次ぐ増産だった。そのため鉱滓(亜鉛抽出後のかす)は貯まるいっぽうで、捨て場がないため川に流していた、という証言である。このことはすなわちカドミウムを川に流していたことを意味していた。
 昭和46年6月30日、富山地方裁判所の周囲には全国各地の公害被害地から駆けつけた住民代表や支援団体が集まり、新聞記者などの報道陣も集まり、歴史的瞬間を待っていた。テレビ中継用のカメラが並び、空には何台ものヘリが旋回していた。そして10時8分、富山地方裁判所三階の窓から「勝利」のたれ幕が下がった。


 富山地方裁判所の岡村利男裁判長は「イタイイタイ病の原因は神岡鉱業所が排出したカドミウムであり、被告はすみやかに6億7600万円の賠償金を原告へ支払え」との判決を下した。裁判は住民側の全面勝訴となった。場外にいた500人を超す支援者たちはこの全面勝利に「バンザイ」を繰り返した。
 イタイイタイ病の原因がカドミウムであることは厚生省の公的見解で明らかだった。しかし神岡鉱業所は「カドミウムがイタイイタイ病を引き起こす科学的根拠が不明であり、もしカドミウムがイタイイタイ病の原因だとしても、神岡鉱業所がどれだけ関与していたのかが不明である」と主張して裁判は争われていた。


 神岡鉱業所は判決を不服として控訴したが、昭和47年の名古屋高裁金沢支部での裁判でも敗訴し、上告を断念して裁判は住民側の全面勝利が決定した。企業側は「廃液の放出行為と被害発生との間の因果関係を明確にさせよ」と主張したが、この企業の論理は通用しなかった。裁判所は「他にカドミウムなどの重金属類を排出したものを見出せない以上、神岡鉱業所から排出したカドミウムが発病原因の主体とするほかない」として住民の全面勝訴とした。裁判所は厳密な科学的証明は必要ないと判断したのである。第1次から第7次までのイタイイタイ病訴訟の原告者数は 515人であった。三井金属は総額14億円を支払い和解することになった。


 イタイイタイ病被害者と支援者200人はバスに分乗して三井金属鉱業本社に直接交渉に向かった。そして三井金属鉱業と11時間の交渉を行い、次の3つの誓約書に署名させた。
1、イタイイタイ病の原因が神岡鉱山からのカドミウムであることを認め、今後争わないこと。
2、イタイイタイ病発生地の過去将来の農業被害を補償し、土壌汚染復元費を全額負担すること。
3、今後公害を発生させないことを確約し、被害者、被害者が指定する専門家の立ち入り調査に応じ、要求される公害関係の資料を提供し、これらに必要な費用はすべて負担すること。このように住民が勝ち取った誓約書は画期的なものであった。


 イタイイタイ病裁判は日本の多くの公害訴訟の中で住民勝利を導いた最初の裁判であった。その意味では公害訴訟の1ページを飾る判決であった。このイタイイタイ病裁判の勝訴は患者だけでなく、日本全体への影響が大きかった。
 その当時は、敗戦から立ち上がった高度成長の時代であった。そして工業化のひずみとして公害が問題になっていた。熊本県の水俣病、四日市市の喘息などによって、経済の牽引となった工業が環境を破壊し住民に害を及ぼすという公害が注目されていた。イタイイタイ病も公害病のひとつで、その因果関係を最も早く認めた裁判であった。この裁判の住民勝利によって、企業の論理は通用しなくなり、政府も「企業優先から環境優先」の政策に転換せざるをえなくなった。企業や行政の権威主義は住民の良識という立場から加害者企業、無作為行政と見られるようになり、企業倫理や行政のあり方が大きく変わることになった。


 大正時代からイタイイタイ病の患者がいたとされているが、その総数は明らかではない。「富山の奇病、業病」とされ、カドミウムが原因と分かるまで、家族は患者を家の奥に隠していたからである。その中で、萩野が診察した患者は358人で、そのうちの128人が死亡していた。患者のほとんどが女性で全死亡者は200人以上とされている。昭和42年以降にイタイイタイ病と認定された患者は185人で、イタイイタイ病を引き起こす可能性のある要観察患者は334人であった。
 イタイイタイ病と認定されるためには、カドミウムの暴露歴があること、症状が成年期以降に発現していること、尿細管障害があること、骨粗鬆症を伴う骨軟化症が認められること。この四条件が必要であった。イタイイタイ病の患者数は数千人と見られていたが、症状がリウマチや他の老人性疾患と似ており、その特定は難しかった。公害健康被害者補償法の規定で富山県が認定した患者は178人であった。


 カドミウムは人体への被害だけではなく、神通川を農業用水とする稲作にも大きな被害を与えていた。長期間にわたってカドミウム汚染米を食べた者がイタイイタイ病になったのだから、汚染された農地を放置したままではイタイイタイ病の根本的な解決にはならない。そのため三井金属鉱業の負担でカドミウム汚染土壌の除去が進められた。


 神岡鉱山は奈良時代から鉱山として知られており、明治7年に明治政府から三井組に経営が譲渡されが、当時はカドミウムの名前も毒性も知られていなかった。また神岡鉱山の亜鉛生産は国家の戦時体制により増産が続いた。亜鉛の鉱石にはカドミウムが含まれ、重量比では亜鉛の20%がカドミウムであった。亜鉛のあるところには必ずカドミウムが存在していた。



 亜鉛の大量生産が開始された大正時代から、カドミウムが神通川流域に大量に集積していたと考えられた。神岡鉱山は亜鉛鉱を1日4700トンを採掘し、神岡町は人口二万七千人を数え、にぎわいを見せていた。神岡鉱業所の従業員は4500人で、国内最大級の鉱山として知られていた。政府は神岡鉱山を存続させるため資金を出した。神岡鉱山は患者住民団体との和解を進め企業として存続できた。しかし時代の流れは皮肉なものである。鉱脈がしだいに枯渇し神岡町の人口は半減し、作業員は50人足らずとなった。そして平成13年6月29日に亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止し、その長い歴史を閉じたのである。
 
信念に生きた人々

 平成2年6月26日、萩野昇博士は胆嚢癌にともなう敗血症のため富山市民病院でこの世を去った。74歳であった、イタイイタイ病の研究と治療に半生を捧げた「田舎の開業医」の反骨人生が安らかに終わったのである。萩野昇は亡くなったが、彼の努力により婦中町住民に笑顔がもどり、神通川は「毒の通る川」から再び「神の通る川」となった。
 もし萩野昇という医師が婦中町にいなかったら、もし研究を途中で諦めていたら、イタイイタイ病は解明されず、奇病、業病と忌み嫌われたまま犠牲者を増やし続けたであろう。この萩野昇の生涯はイタイイタイ病を発見し、その原因を突き止めた医師の記録と言えるが、むしろそれよりも患者のために自分を犠牲にして、白眼視の逆境の中で研究を進め、患者のために真実を明らかにした勇気ある医師の記録と呼ぶのがふさわしい。地元の人たちは、萩野昇のことを今でも富山のシュヴァイツァーと尊敬している。


 萩野昇の学説を最後まで支えた農学博士、吉岡金市は平成2年11月死去。イタイイタイ病の原因を突き止めた岡山大名誉教授、小林純博士は平成13年7月2日、虚血性心疾患により死去、91歳であった。
 医師である萩野昇博士、農学者である吉岡金市博士、科学者である小林純博士、彼らは学問の分野は違っていたが、イタイイタイ病という悲惨な病気の解明につくし、周囲の白眼視に耐えながら原因を突き止めた。彼らの人生は医師として、学者として尊敬するに余りある半生であった。患者を助けたいという真摯な態度、真実の追究という学問的姿勢、正しいことを正しいと主張する勇気、これらを決して忘れてはいけない。このことを彼らは教えてくれた。

兒嶋俊郎さんを偲ぶ

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(兒嶋俊郎報告)
「自衛隊は戦後何をやって来たのか‐核・化学・生物‐」というタイトルをつけました。問題意識はこの通りです。
テーマを3つ設けました。
1つは、旧陸軍と戦後自衛隊の人的つながり。2番目は、米軍の下での再軍備と、その過程における核戦争体制への自衛隊の編入。3番目は、核戦争体制下における化学部隊・衛生部隊の役割で、これらを少し見ておきたい。
いずれも体系的に論じるほどのほどの状況ではありませんが、いくつかの資料とか回想によって、事実の確認をしておきたいということです。そこでまず、資料の1をご覧ください。これは以前、私の大学の紀要に資料紹介として載せたのですが、『調査学校史』をいうのを、小平の調査学校が出しているのですね。調査学校というのは、情報関係要員を育成する学校です。53ページの真ん中にアンダーラインを引いていますが、これは自衛隊のホームページに書いてあることで、「陸上自衛隊唯一の教育機関であり、海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」」と言うんですが、要はスパイの育成学校です。これは内容的には、かつて情報関係の業務を行った自衛隊員が、ここ十数年どういうわけか回想録を出版したり、黒井文太郎さんという軍事誌編集者のインタビュ‐に応じられたりしているんですね。そういう回想を見ると、どういう風に、情報機関が戦後成り立ってきたのか、というあたりが見えてくるんですね。
資料1の54ページ、設立時の状況のところで、陸上自衛隊調査隊や調査学校の設立に関わった松本重夫の話をしています。彼は、陸士から陸大を出たエリートなわけですが、1946年の敗戦直後、彼は産経新聞の政治部の記者をやっていたんですが、その産経の中にいた人間を通じて、米軍の情報部にリクルートされるんですね。その下請けをやるようになったわけですね。エージェントになったわけです。つい数年前まで、鬼畜米英と言っていたわけですが、彼は国会内の左翼勢力の調査を行うのです。彼は、警察予備隊に入って、その後、「陸軍中野学校出身者を調査隊に多く入れました。」という風に語っているわけです。
次に調査学校長を務めた清水潤(ひろし)の場合です。東部方面総監部第2部、2の数字がついていると大体情報関係なんですが、そこに居たときに、F機関のトップだった藤原岩市に情報の基礎を叩き込まれたんですね。清水は、藤原の部下だったんですね。という風になっております。その後にも、いくつか書いてありますので、見て頂ければと思います。
次に、「調査学校の教育と情報活動の一端」というところで、いろいろと人物を挙げておきました。
例えば、佐藤守男という人は、1956年1月、調査学校に「幹部露華鮮語課程(1年間)」が開設された際入校し、ソ連情報勤務を予定してロシア語課程の一期生に選抜されている・・・その後、極東方面の局地ラジオ放送の受信、翻訳業務に従事する。
中には、いろいろとユニークな人がいまして、阿尾博政は『自衛隊日罪諜報機関』という本を出したり、山本舜勝(きよかつ)という人は『自衛隊「影の部隊」』という本を出しています。ちなみに山本喜舜勝は、陸軍中野学校の出身で、中野学校関係者は、分厚い『陸軍中野学校史』というのを出しているんですね。これは専修大学に1冊だけあります。これは行って見ることは出来るし、コピーも取れます。それを出すときに、旧中野学校関係者がグループを作るわけですが、「これを作りましょう。」という言い出しっぺ、企画メンバーの1人が山本舜勝です。
阿尾は、戦後、自衛隊幹部候補生学校に入る。そして彼は調査学校に入るわけですが、その時の校長が藤原だったのです。専属教官は、陸軍中野学校出身の諜報専門の教官が3名・・・こういう風になるわけですね。
それから山本舜勝、彼は、陸軍中野学校で教官だった人物で、それから戦後米軍で情報活動の教育を受けた後、調査学校教官になる。彼は、三島由紀夫の盾の会との密接な関係が問題にされました。三島が軍事訓練みたいなことをやるわけですが、この山本がアレンジをしてやるわけですね。私が紹介した『調査学校史第13巻』(昭和43年度)の年は、山本が研究長をやっている、まさにその時の『調査学校史』なんですね。ですからその『調査学校史』などの内容を見ても、日本国内で学生運動や公害反対運動が活発な時期だったので、そういうことをきっかけに内乱が起きるということを想定して活動をやっている。「学生たちが混乱しているところに、病人を送り込んで教育をやった」という風に彼は書いています。
60年安保を想定した対応という事で、山梨県全域が敵に占領されたと想定し、調査学校に入校した自衛隊青年将校たちを、身分を偽って県内各地に潜入させる、こんなことをやっていたわけですね。
それから寄村武敏も陸軍中野学校出身者です。
このように、戦前の旧陸軍の情報機関の幹部たち、あるいは陸軍中野学校の人間関係が、戦後の陸上自衛隊の情報組織の基礎を作っていった大きな流れだったことが確認できるだろうと思います。と同時に、松本重夫に見られるように、米軍がそこに深く関わっただろうという風に思われるわけです。
次に「核戦争体制下の陸上自衛隊」のやや大仰なタイトルのところをご覧ください。
これは、ある方が残された資料の資料整理を何人かでやっておりまして、そこを代表するような形で私と松村先生の2人で、『戦争責任研究』に資料紹介を載せております。1回目の解説部分を皆さんに配っています。それから資料の3というのが、第2回に載せる資料という事になります。両方を使ってお話をしたいと思います。
新妻に関しましては、先ほど、松村先生のお話に合った通り、陸軍の中で電波関係の専門家で、チチハルあたりに行って電離層の研究をやったり、いろんなことをやっていたわけなんですが、彼に関わる資料を紹介します。資料2の86ページです。
1955年に陸上自衛隊幹部学校で新妻が講義をした時の資料だと思われるのですが、『部外秘 原子兵器の効力』、58年に『誘導弾と核兵器』これは中外出版から出版された一般の本なんですが、2月に出版されて、3月に国会で辻正信が、これを取り上げて、「ミサイル防衛をちゃんとやらなくてはならないのではないか?」という問題提起をしたわけです。それに対して、防衛庁長官の津島壽一(この人は元大蔵官僚で、戦争中いろいろやって、公職追放になって、それが吉田内閣で復帰して、フィリピンとの交渉にあたったりして、その後、防衛庁長官になる)は、「誠にもっともな意見である。是非参考にしたい。」というやり取りが交わされました。それに使われた本です。
以下は、新妻の名前が直接出て来ないものになりますが、1950年代にどういう資料が出ていたかという事ですね。
『CBR戦の参考』、『原子兵器の効果について予習資料』。
『参考資料プリントA 米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』これは米軍の教範を翻訳して利用したものですね。先ほど奈須さんのお話で衛生学校も教育資料として米軍の教範がたくさん使われたというお話がありましたけれども、こちらの方も、それが非常に幅広く自衛隊の中にあったという事を示していると思われます。
資料7『原子砲兵の運用について』これは、当時、戦術核弾頭を撃つアトミックキャノン(原子砲)という280㎜の長距離砲が開発されて、米軍はそれを使って本当にバンバン撃って戦争をやることを想定してたんですね。その為に日本の自衛官をアメリカに呼んで、そういう原子砲弾を撃つ教育をやってたんですね。それに関連した資料という事になります。
資料8『原子兵器の歩兵に及ぼす影響』、資料9『誘導弾』自衛隊幹部学校、資料10,11は『火(射)・・・誘導弾』これはミサイル関係の資料ですね。
資料12 新妻清一 これは彼がまとめたもので原爆攻撃を受けた場合にどう対処するかという話ですね。
資料13、14では、当時、自衛隊内部で核兵器についてどういう議論が交わされていたかを示す資料です。
こういうものが、50年代の半ばから後半にかけて、出ているという事になります。こういった資料をまとめる上で、新妻をはじめとする、旧軍の技術将校たちが大きな惑割を果たしたことは明かなんですね。
新妻清一の経歴というのは、資料をお読みください。
次に、「3、広島原爆調査への参加」をご覧ください。
当時、新妻は、陸軍省の軍務課で、陸軍が行っている様々な研究開発に目を通して、判子を押す係をしていました。したがって、核とかレーダーとか、そういうことについても彼は通暁していたわけです。それで、軍務課長という立場もあったかと思いますが、有末精三、当時参謀本部第2部長(諜報担当)を団長とする広島原爆調査に参加したわけです。米軍機が接近してくるという話があったので、仁科は科学面の責任者だったと思いますが。1日延期します。しかしながら、有末は大丈夫だと判断して、自分の部下(山田副官)と一緒に2人だけ予定通り2時過ぎに離陸して広島に向かった。広島で関係者に会って、作業を進めるわけです。翌日に仁科が来るんですが、仁科は7日にトルーマン声明を知って、これは20ktの核爆弾が落ちたという事は、はっきりして、非常なダメージを受けるわけです。ただ、ダメージというのは、彼は旧陸軍における原爆開発、2号研究の責任者だったわけです。結局失敗します。陸軍は仁科に依頼し、海軍は京大の荒勝研究室に依頼し、いずれも失敗するわけですね。原石のウランをどう確保するかという問題もありますが、私が、いくつかの本を本で確認した所では、そもそもきちんとした原爆の概念に、仁科の研究はどうも到達していなかったという可能性があります。それから京大の研究も、実際の原爆の設計とか、工学的に実現する手立てというのは全く立っていない状況だったように思われます。何よりもウラン濃縮が、全く展望がありませんでした。あきらめます。それで放棄するんですね。これは無理だろう。アメリカでも無理だと思っていたら、アメリカでは作ちゃったということで、そういう事で彼は打撃を受けていたという事です。「日本の科学者がアメリカの科学者に敗れた悔しさ」という風に、これは新妻清一を取材した保坂正康さんの文に出てきます。
次に、4大本営調査団・陸海軍合同研究会議のところです。仁科は、1日遅れで広島に行く。8月9日午前11時02分に長崎で原爆が炸裂。10日合同の会議が開かれることになります。この時には京都帝大の荒勝文策等も加わることになります。有末は、この時ソビエトが、宣戦布告したという事で、東京へ急遽取って返すことになります。新妻はこの会議の司会をするんですね。非常に重要な役回りです。そして最終的に「特殊爆弾広島爆撃調査報告」というのがまとめられていく事になるわけです。
その中で、新妻の手書きの原稿には、「人間ニ対スル損害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト。コレニ関連スル発表モ発表モ避ケルコト 中央ヨリ調査隊ヲ派遣ノコト」という風に隠蔽を図ったという証拠があるわけですね。
同時に新妻は、被害状況について、「新妻メモー損傷状況昭和20・8」というのを残していまして、そこに書かれている通りですが、非常に凄惨な実態を彼は目の当たりにしたわけですが、しかしそれを一切知らせるなという姿勢ですね。そして東京に戻って、「特殊研究処理要領」というのを発表します。
次に5、のところを見て頂きたいのですが、新妻は敗戦後、米軍の監視対象者になります。その関係の資料は、防衛省の図書館にありまして、これは見ることができます。それを見ると、サンダースから彼は尋問を受けているのですね。731についても聞かれているんですね。ウランの保有量についてもいろいろ聞かれているんですが、その間の45年11月10日に八木秀次から手紙を受け取っているんですね。八木秀次というのは戦争中に、軍と研究者と官のトライアングルを作る上で大きな役割を果たした大立者なんですね。よく知られているところでは、八木アンテナ、あれを開発した人ですね。この八木が『科学知識』という雑誌に、原子力の特集号を出すから、新妻さんに原稿を依頼したんですね。その内容を引用しています。
「寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることを承知いたします。」とこういう風に書いていまして、新妻というのが戦争中の日本の核開発の中心にいた、また広島の原爆調査で仁科に同行している、そういう重要人物であるという事の1つの傍証になると思います。
しかしながら、彼は戦犯に問われることもなく、戦後、旧軍関係の業務の整理にあたった後、48年に復員局を依願退職して、54年には防衛技術研究所に入所し、55年には防衛研修所教官兼務となる。そしてミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになっていくわけです。
先ほど、紹介したような『誘導弾と核兵器』という本を書いて、その本が辻正信によって国会で取り上げられて、津島防衛庁長官がその通りだという答弁をして、ミサイル研究をしなければいけませんねという国家的な合意を後ろから下支えする資料提供の役割を果たしていたという事になるわけですね。
さらに50年代とはどういう時期だったかという事ですが、杉田弘毅さんが書かれた『非核の選択』という本があるのですが、それによるとこの時期、米軍が核戦争を想定して日本の自衛官を呼んで、戦術核を使用して戦争をすることを本気で考えていました。この時期には米軍で戦術核使用を想定した訓練を受けた三岡健次郎らの留学がきっかけとなって、「ソ連に自衛隊が核兵器で攻撃する研究が・・・・模索された」というわけですね。
その結果、自衛隊関係者や政治家に核容認発言が、頻発することになっていきます。
50年代にこのような議論が戦わされていた、まさにその時代に先ほど紹介した資料が出るわけですが、その一部を紹介したいと思います。資料3をご覧ください。
その中に、『米軍戦術原子戦に関する原則 抜粋』というのがありま。これは、「戦術原子兵器の事項を抜粋」という書き込みがあり、米軍の教範の翻訳なわけです。
一部の紹介だけなんですが、「2 陸軍の職種の特性」の中に「(4)化学部 戦闘行動支援における化学部の主任務は、CBR(化学、細菌、放射能)兵器の使用及防御の為の手段及技術的指導の実施である。」という風に、明確に規定されています。
つまり、化学部というのは、実は衛生関係も関連するわけですが、核戦争を遂行していく重要な要因の一部と認識されていたという事なんですね。
続いて大量破壊兵器とは何かという定義があります。
「大量破壊兵器とは原子的化学的生物学的放射能的(CBR)兵器あるいは広大な規模の荒廃もしくは無効化を遂行する為人員資材の集中に対して使用されるその他の兵器をいう。指揮官は大量破壊兵器の使用に関し自軍及び敵軍の能力を考慮しなければならない。」
このように大量破壊兵器の中に、核兵器、生物兵器、化学兵器などの利用を考えているわけですね。
また、「CBR行為に使用される兵器は攻撃的と防御的の両方に使用される。CBR行為は妨害計画、阻止作戦、及び原子兵器の戦略的使用法とともに使用する為これらの作戦に適応すべきである。これは汚染、敵機動の局限、敵軍の殲滅もしくは無力化及敵の保持できないように野戦築城を汚染すること等により地域の拒止及制限を容易にするための諸手段を指揮官に提出する」
大変にわかりにくい日本語ですが、CBRを積極的に利用して、攻撃にも使う、あるいは不利になった場合や撤退する場合にも敵の行動を遅らせるためにも使うという事を言っているわけです。
さらに、6、攻撃の(7)火力支援調整の(b)原子兵器の使用には
「ア 原子兵器は非常に強力な火力支援の1つである。原子兵器の戦術活動への統合はこれまでに述べられた火力運用についての戦術的法則を変更しない。」となってまして、今までの火力の運用についての原則の上に使われるわけです。
そして、「決定的戦果は機動部隊が原子兵器の破壊と心理的効果とを迅速に利用した場合に得られる。」
実際に、この資料や他の資料を見て行きますと、例えば戦術核で敵を殲滅したら、機動部隊を突入させて、広範な地域をいかに早く制圧するか、そうやって戦果を拡大していく事が重要だという事なんですね。
実は第1回で報告した資料の中では、核に汚染された地域が、どの位で、放射線が弱まるか、何分でこのぐらい弱まる、何時間たてば入れるとか、戦車で入った場合の被曝量は、トラックで入った場合の被曝量は、そういうのを細かく検証している資料が、1回目で紹介した資料なんです。それなどは、戦術核を打ち込んだところに、地上部隊を突入させるわけですから、当然被曝するわけですね。被曝を抑えるために、どうするかという事を、検討していることになります。
さらに、除染するための具体的な方法をいろいろ紹介している資料もあるんですね。したがって、放射線地を確認し、除染しながら、制圧していく事を、かなり本気で考えているという事なんです。
それから、資料7『原子砲兵の運用について』これは、陸上自衛隊幹部学校の資料で、幹部教育という事になるわけですが、これを見ていくと、「1、指揮責任及指揮関係」というところで、砲兵指揮官というのは、自分たちの上級指揮官に、幕僚として助言しなければいけないと言っているわけですが、驚くことは、「6目標分析」です。
「b 原子火力は巨大な威力を持っているので、これを作戦に投入する事は非常に重要である。故に原子火力の使用によって得られる戦術的利益は機動により迅速且十分に開拓されねばならぬ。これがため原子兵器の使用に関する最終的決定は部隊指揮官が行う。」
部隊指揮官が、最終的決定をやるんですね。
「この原子兵器の使用の決定は砲兵部隊指揮官が被支援部隊の一般幕僚と協議して行うところの目標分析に基礎をおく。」
いずれにせよ、大統領から一応戦術核を使ってもよいというような了解が出た上での話だと思いますが、それにしても、それが出ていれば、現場の指揮官の判断で撃てるという事だったわけですね。それをいったん撃ったら、機動部隊が展開し、CBRの要員が随伴するということになっていたわけです。
そこで、CBRという事で、化学部隊という事になるわけですが、(3)の化学学校というところで、これは『化学学校のあゆみ』というものが出ていて、そこから紹介しています。
化学学校の歴史的な経緯という事なんですが、1953年6月29日に保安隊関西補給廠長監督下の臨時化学教育隊が出発点ですが、それ以前に保安隊内部に第750化学業務隊が存在していたことがわかります。ただしその詳細は不明です。いずれにせよ保安隊時代から化学部隊の原型があったということは確実です。
この部隊は53年8月3日に第1回のCBR教育を実施しています。それに先立って、教官教育が行われているんですが、この『化学学校のあゆみ』の11ぺージには、教育の詳しい内容は出ていないのですが、教官研修の写真が載っているんですね。それには米軍の教官が多数写っておりまして、明らかに米軍の指導下で行われた事がわかります。
翌54年7月20日、陸上自衛隊発足に伴い、陸上自衛隊化学教育隊として部隊が成立、組織としては、総務科、教育科、研究科からなり、その後も部隊の編成が続くわけです。
56年には1月25日には、第301化学発煙中隊の新設が行われます。この発煙中隊の任務の中に、「原子兵器の熱戦効果を減殺する」というのが挙げられています。
まさに50年代の半ばに、戦術核を使った戦争があるという想定で、教育訓練が幹部学校で行われている時に、それに対応した部隊編成、恐らく教育訓練が行われていたという事になると思います。
1957年10月9日、化学教育隊は大宮駐屯地に移って、10月15日に化学学校に改編される。初代校長は外山秀雄という事になります。
ごく簡単に触れてきましたが、化学学校についてはこのようになります。
衛生学校の方は奈須さんが詳しく説明してくださったので、余り付け加えることは無いのですが、ただ後ろに『ふかみどり』17巻4号に載っていた衛生学校の年表を4ページにわたって入れておきました。
これに基づいて、経緯を改めて確認しておきたいと思います。
1951年5月14日に、警察予備隊の中に、総隊学校というのが作られます。ここの第4部が後の衛生学校になります。5月14日から設立準備を開始するわけですね。
その時の状況は、レジメの1ページの下の方に書いてあります。
何人かの方の回想が載っておりまして、渡辺文雄という初代総務部長をやった人が次のように書いています。
発足時は幹部3名、士補4名でスタートし、まず豊川部隊のスタッフォードスクール(詳細不明)でアメリカ式訓練を4週間受けた。7月2日からは米陸軍病院(当時聖路加病院が接収されて、アメリカの陸軍病院になっていた)で、衛生科員として約3か月研修を受けた。したがって、完全に米軍式の教育を受けたわけですね。そして、第4部のスタート10日前に米軍顧問から英文をコピーを渡され、連日徹夜して、翻訳して教育に当たったと言っています。51年7月9日から、保安隊衛生学校となる。52年10月15日までに幹部282名、士補など845名、計1127名を教育したという風に語っています。
この後、先ほどの年表に戻って頂きたいのですが、7月9日、米陸軍病院での衛生教育を受けた直後か、あるいはその途中かもしれませんが、衛生教育がスタートする。10月には士補基本教育、11月には幹部基本教育、翌年2月に陸曹技術教育、こういうのが次々と始まり、そして第4部衛生教育担当が設置される。6月23日には、新任幹部特別教育が開始される。10月15日には保安隊発足と伴って、衛生学校となる。
この時の、初代校長が加納保安官補という人ですが、この人は総隊学校の校長を兼務していた人なんですね。総隊学校というのは、この衛生学校だけじゃなく、養護学校とか、先ほど紹介した調査学校のもととなる学校とか、そういうのがここから分岐していったわけで、それを全部見てた人ですね。この加納という人は、医者でもなければ、薬剤官でもなくて、そのことを国会で追及されたことがあると、回想でもちょっと触れてますが、代理校長だと友人に冷やかされたという事です。専門家では明らかになかったと思われます。
彼が初代で、2代目が松野、3代目は安西で、ここら辺は、保安隊時代で、警察関係から来ていた人物である可能性が高いと私も思います。
しかしながら、この段階まで基本的な教育教程というのが、急速に整理されてきているんですね。第3代までという事は、55年の7月まで安西の時代なんですが、安西の最後の7月に、三宿の現在衛生学校があるところに、移転しています。
それで、注目されることは、55年5月10日に、幹部CBR教育が始まっているんですね。
まさに、核戦争を想定していた時期に合わせて、衛生学校でCBR教育が始まるという風になっているわけです。
したがって、第3代までで、基本的な教育の体系というのは、ある程度形をとったのではないかなと、この年表からは読み取れます。
その後、金原の代になりまして、『衛生学校記事』が創刊されたり、財政上の理由で休刊されたり、第6代中黒の時に、それは復刊されたりするわけですね。
園口の回想で、中黒時代が基礎を確立したという風に言っております。中黒の時代には、学校長自らが、アメリカに行くようになっています。63年の7月に第17回国際軍事医薬委員会に出席したり、あるいは64年11月にアメリカ太平洋空軍医学会議に出席したりという風になっています。
その後、園口の時代、9代、10代となりまして、第11代の泉陸将の時に、新しい隊舎が落成します。それに伴って、8月頃から、教育管理、特に教育体系、教育基準及び評価体系等の見直しが開始される。その後、ずっと、全課程の教育科目の集中審議とがあって、内部組織、教育課程そういうものが全面的に見直されたという事がありそうです。
奈須さんのお話の中に、泉の時に、「核兵器による大量傷者処理」のお話がありましたが、確かに泉の時に、中身はわからないのですが、相当本気で教育課程の見直しをやったことは事実のように思われます。
それから、初期の第1期の『衛生学校記事』の内容を見ると。泉が原爆関係の記事をたくさん書いているのを考えると、そこら辺は整合性があるのではないかという気がします。
次に、いくつか配った資料を紹介します。
お配りした資料「自衛隊は戦後何をやってきたのか―核・化学・生物」の3ページをご覧ください。
(4)「衛生学校記事」にうかがえるCBR活動教育という事ですが、
中村治が書いた「特殊武器戦とその影響」とか(資料3)、木村博夫「生物剤はこのように防ぐ」ということで、生物兵器関係の資料が載ったりしています(資料4)。
資料5は、これは近藤正文(衛生学校教育部第2科長 2佐)が、178ページに以下のように書いています。「昭和20年2月下旬と記憶しているが石井中将から直接電話で天皇陛下の不時の恐懼事態の際に乾燥血漿の製造を命ぜられた。早速準備して製造にとりかかった。製造は順調に行われ最後の仕上げである真空ポンプから焼き切り封入する日に(3月10日)あの第1回の大空襲(浅草地方)があった。幸い被害を被らなかったので予定通り完成し献上の手続きをした。次にこの献上に際しての御説明書を付け加えて思い出話をおわる。」という事で、説明書というのが右側にあります。拡大鏡で見て頂ければ、わかると思いますが、これは本当に説明になっているんですね。下に関係者の名前の一覧が載っています。
このように、先ほど新妻清一が、旧陸軍で電波関係をスタートにし、さらには核にも関わるようにようになり、それが戦後の自衛隊の技術面での中心人物の1人になったという話をしたわけですけれども、衛生学校の関係者も全く同じですね。近藤なども恐らくそうでしょう。彼らの頭の中が、こういう思い出話を書くことに見られるように、大日本帝国陸軍の軍医だった時と、全く変わっていないという事ですね。天皇陛下の為にこれを献上しましたと、3月10日の大空襲で何万人も焼け死んでいるんですよ。この人は、元は医者のはずです。しかしながら、天皇陛下に無事届けられたことがとても良かったという回想録なんですね。こういう人が、やっぱし衛生学校の幹部になって、教育をやってたというわけですね。衛生学校でも、調査学校でも、教育方針とか、学校長の訓示なんかを見ると、人間教育が大事だと繰り返し出てくるところがあるんですが、どういう人間教育を考えていたんだろうかという風に思わざる得ないものがあります。
最後に、『衛生学校史』という資料があるんですが、外見だけ、どんなものであるのか見てください。こういった資料です。これは昭和47年の『衛生学校史』です。陸上自衛隊衛生学校です。これは政策研究大学院大学の開架書庫に3年分(45、46、47)ありますから、誰でも行って、コピーできます。
歴史の史がついてますが、毎年の業務報告になっています。その業務報告の内容を見ていくと、いろいろと面白いことがありまして、それは今回丁寧に紹介できないのですが、改めてうちの大学の紀要に載せようと思っていますので、8月頃に原稿が出来て、ネットで検索がかかるようになるのは、多分10月か11月には検索でかかるようになると思いますので、そちらをご覧ください。
どういう資料かという事だけ、紹介したいと思います。
それから、『衛生学校記事』が衛生学校の中でどのように位置づけられていたかという事については、裁判に関わることですので、詳しくお話したいと思います。
そこで、最初のレジメの3ページのところをご覧ください。
(7)陸上自衛隊『衛生学校史』の1)『衛生学校史』昭和45年度 園口忠男が学校長の時です。ます、組織が出てくるんですね。2ページ目に組織編成が載ってまして、研究部の総括室に記事班というのがあって、その記事班が『衛生学校記事』の編集を担当しています。
それがわかるのが、資料6の「幹部配置状況」です。46年3月31日付けの資料ですが、この一番右の欄に、研究部長の下に、総括室というのがあります。そこに記事班長というのがあって、高橋清人になっています。これが『衛生学校記事』ですね。したがって『衛生学校記事』に関して、あれこれ防衛省が言い逃れをしていますが、衛生学校の正式の組織で、きちんと人員を配置して出していたことは、組織上明白なことになります。
ちなみに、この年にどういう教育をやっていたかという事を、資料7に付けておきました。「教育実施状況」というのがあります。
これを見て頂きますと、幹部教育の中に対化学衛生というのがあります。この時点で15期の教育ですね。人員は5名、期間は10週間、こういった教育が行われていたことがわかるという事になります。
それから、「他校等への教育支援状況」というのも出てまして、東京消防庁から受け入れて、救急救命措置の訓練をやっているのが圧倒的に多いのですが、それ以外に化学学校8時間、調査学校4時間という風に教育支援を行っています。
それから研究開発というところで、研究部の総括室に記事班があるわけですから、ここに明確に位置付けられていまして、資料8をご覧ください。
これは『衛生学校史』の55ページになるんですが、ここに「衛生学校記事に関する事項」というのがありまして、「第1 衛生学校記事については、会員の実務・訓練に真に役立つ内容の精選につとめ年4回発行した。」ということです。
また、衛生学校記事の発注部数、会員数及び編集内容については次の通りであるという事で、会員数は1800~1850、発注部数は1900~1930という事です。
したがって、業務報告にきちんと載る形で発行されていたという事になります。
ちなみに、研究部でどんな研究をやっていたかというと、「昭和45年度の研究課題担任表」というのがあるんですが、例えば上から2段目、実用試験「防護マスク」これは化学学校に協力、河合1佐というのは先ほど出てきた河合正計の事かもしれません。
それから、CBR防護(化学学校に協力)というのが出ています。
このように、化学学校とは非常に密接に連携を取りながら仕事をしていたことは、明らかだという風に思います。
次に、『衛生学校史』昭和46年度 門馬公道学校長の事ですが、この人は、面白くてつい書いてしまったのですが、着任時に、「衛生学校はなってない。」という演説をして、大改革をするんだとという事を言うんですが、そのせいか1年半ぐらいで替わるんです。
その下に、編成組織と幹部配置状況がありますが、資料9の左側の方に企画室が書かれています。そこに記事担当で高橋氏が記載されています。
資料10で、衛生学校記事が出ています。ここに、門馬が衛生学校記事の目的について述べた事が、書かれています。「第1線と直結する機関誌」とするというわけですね。10月における編集委員会から編集・発行委員長には副校長松尾将補を任命された。また、記事班は8月26日以降雑誌「防衛衛生」の編集・発行業務を兼ねて実施するよう命ぜられると共に、9月21日付をもって研究部から企画室に配置替えとなり、10月1日付をもって、総務部管理課から平井貞子事務官が補充され、云々となっています。12ページの右側の下のところに、衛生学校記事業務というのがわざわざ書いてありまして、高橋氏が記事担当で、その下に、編集・発行と、また『防衛衛生』の方も、高橋氏と平井氏が関わって発行していたというようなことがわかる資料になっています。
次に、『衛生学校史』昭和47年度 水上四郎学校長の時ですが、ここでも資料12の企画室のところで記事担当が高橋という風に名前が出ていて、位置づけが明確です。ちなみに右下に戦史室というのが設けられていて、これが『大東亜戦争陸軍衛生史』の編纂に関わっただろうと思われます。
教育訓練に関しては、衛生化学教室、化学については、各種化学物質の環境汚染について、更にRについては、医療用放射線の人体に及ぼす影響云々という風になっていますが、この様な化学、R、放射線、に関しての記述が見られます。
その下は教育課程の実施状況についての話です。
研究開発については、富士学校、化学学校と協力しながら進めていくが明らかです。
最後に、一番最初に松村先生が、大きな議論をする必要があると言われて、私も改めてその通りだなと思うのですが、4人で日本経済評論から『「満州国」における抵抗と弾圧』という本を出したんですが、そこで私も論文を書きまして、私は日本共産党満州地方事務局という日本共産党の公式の党史にも載っていない組織について書いたのです。
真面目に日本共産党満州事務局というのが、党中央に承認された公式の党組織として短期間ですけれども、大連を中心として活動するんですね。その記録を紹介したんですが、その中で、9月に満州事変があって、弾圧されて、10月に捕まって、救援活動をやる人もいるんだけれども、その救援活動も弾圧されて、日本共産党の組織的な活動というのは、中国東北、関東州から消えてしまうわけですね。その時、彼らが活動がうまくいかない大きな理由が、彼らは非常に優秀な人たちですね。旧制中学を4年ぐらいで終了して、大学に進学した人もいますしね、非常に優秀な人たちで、当時の情勢分析もしっかりしていたと思います。しかしながら、当面する課題をどうやって打開するかという展望はとうとう見つけることができなかったのですね。そして弾圧された。何故見付けられなかったかの大きな理由の1つが、植民地の支配者だっていう気分が、関東州とか大連にいる日本人に非常に根強くあったと思います。それが日本人と中国人の労働者の連帯という事を、共産党事務局、あるいは彼らは労働運動を組織しますからそちらの組織で訴えるですけど、届かないのですね。数十人規模に拡大するんですけれども、本格的にはならないのです。満州事変以降、反帝国主義の闘いを組織しようと働きかけても、あんな戦争はやらせておけばいいんだ、叩けばいいんだというような職場の反応で、却って我々の方がやられてしまうというような事で、日本人の中で圧倒的に孤立していったという風に思うんですね。
同じ時期に中国共産党もあそこで活動をやっている。その資料も別にありますので、その活動について、江田さんが以前に書かれた論文も参考にして、並行してみると、中国共産党も、日本共産党と同じ方向に向かって闘っているんですね。日本、中国、さらに言えば朝鮮の共産主義者はみんな目標は帝国主義打倒なんですね。帝国主義を倒して、苦しい状況にある人民の生活を建て直そうではないかという事では、基本的な理念、向かっている目標は同じだったんですね。しかし日本人の中では、それはただ単に弾圧だけではなくて、日本人自身の中に圧倒的に支持が広がらない。「植民地支配者である」そういう意識が非常にそこに足かせになっていると思うのですね。そのことが日本人のそういう活動を失敗に終わらせる。個別にはその後もいろんな動きが残ったわけですけれども、組織的な活動としては無くなっていく。それ以外にも自由主義者の活動、いろんな活動がどんどん無くなってしまって、当時の現状が抱えていた問題を直視して、それを変えなきゃいけないという問題提起を片っ端から日本の官憲が潰した結果、新しい時代を展開していくためのアイディアも人も自らの手で殺してしまったわけですね。残ったのは、際限なく軍事力と治安の力で目先の経済的利害だけを押し通すというそういう事に大日本帝国はなっていったという風に思うのです。そしてその大日本帝国を支えた人たちが、調査部門でも衛生部門でも恐らく化学部門でも、生き残って戦後を日本の自衛隊あるいはそれ以外の部分を支えて今日に至っている。そういう風な人たちが日本の国家権力の中枢にいるから、特定秘密保護法で、国民の目と耳を封じようと、共謀罪でああだ、こうだという奴らは、昔のように潰してしまえばいいと、こういう風な順番になってきているんだろうと思うのですね。まさに、そういう意味では、安倍政権の下で、大日本帝国時代の亡霊が具体的な形をとって立ち上がってきている状況になっているんじゃないかなという風に思いますし、それだけに、今回ここで進められている裁判というのは、非常に大きな意味があるし、他の様々な運動と手をつないで、進めていく必要があるんではないかと改めて思います。
どうも、以上です。ありがとうございました。

日本の国家機密

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日本の国家機密   藤井治夫著
はしがき
戦後ひとたびは完全に消滅したはずの国家機密が、いまでは、わが国の政治を骨絡みにするまでに増大してきている。今日まで国民が知りえたのは三矢研究、沖縄密約など、ごく僅かなものにすぎなかったがその内容は衝撃的なものであった。
国家機密は、国民全体の運命にかかわるものである。そして、その核心をなすのが軍事機密である。国の進路をどのように定めるか (国家戦略)、仮想敵国をどこに設定し、いかなる国とどのような軍事同盟関係を結ぶか、戦争を始めるか否か―こうした問題こそ、主権を有する国民にとって何よりも重要であり、それゆえ「知る権利」の第一の対象とされなければならない。だが、これら国政におけるもっとも基本的な情報こそ、国家機密として厳重に秘匿されているのである。
明治以降のいくつかの大戦争に当たって国民は、つねに戦争を始めるか否かの意思決定過程から排除されてきた。もはや引返しのきかない時点で大本営発表を受け、犠牲と負担に堪えるほかなかったのである。軍機保護法と国防保安法を両軸とする軍事機密・国家機密の保護体制が、侵略戦争への道を掃ききよめたのであった。再びこの道を歩んではならない。
戦後日本の国家機密は、自衛隊の成長と日米安保体制の強化を根源として肥大化してきた。こうして、防衛庁と外務省は、国家のなかの国家として、国会のコントロールをも徹底的に拒否している。そして機密の扉のなかで、アジアにおける最強の抑圧者をめざす計画と準備が着々と進行しているのである。
国家機密を不可侵の聖域としておくことは、侵略戦争の加担者となることを意味する。これを全面的に否定し一掃することこそ、反戦平和と民主主義を貫徹するためのカギであるといえよう。私は60年安保以後、経済とともに軍備もまた高度成長を遂げはじめた時期から、「非軍人」こそ軍事研究の主体とならねばならぬと考えて、そのための作業をはじめた。軍事にたいする市民のコントロールを確立する架け橋となることに意義を見出したからである。そのときから、正確な事実の紹介と分析のために、秘匿されている基本的資料に着目してきた。
今年(1972年)3月17日、反戦自衛官小西三曹にたいする刑事裁判(新潟地裁)で、弁護団が54件にのぼる自衛隊関係文書について裁判所にたいし証拠物提出命令の発動を申し立てたさい、私は特別弁護人の一人としてその理由を陳述した。この準備過程で、国家機密・軍事機密の総体について分析したリポートをまとめる必要性を痛感したところから生まれたのが本書である。
国家機密にたいする闘争は、戦後、国会の場において果敢に闘われてきた。岡田春夫、檜崎之助、中谷鉄也、横路孝弘、田英夫氏ら、小西裁判弁護人または5人の反戦自衛官の懲戒免職にたいする審査請求代理人として、共同の戦列にある人びとによって担われてきた議会内反軍・反国家機密の闘争は、世界史的にみても資本主義国における議会活動の輝かしい典型であるといえよう。国会会議録によって、その貴重な成果を多く引用させていただいた。
巻末に収録した主要極秘文書は、断片的に入手することさえ困難なものも含んでいる。また原文の構成にしたがって配列した初めてのものである。出版に当たっては現代評論社の中村公省氏にひとかたならぬお世話をいただいた。心からお礼を申し上る。
1972年9月 藤井治夫

第一章 国家機密と軍国主義
1、戦後日本の機密保護体制
占領ではじまり安保で強化
1950年代前半の時期に日本支配層は、みずからの手による機密保護体制整備の第一段階を終えた。これに先だつ占領下においては、支配体制の機密は占領軍の超憲法的権力を核心として軍政状態下に保護されていた。総司令部によるプレスコードその他の覚書により、公式に発表されていない連合国占領軍の動静にかんする報道および論議は、最高10年の懲役の対象とされたのである。また憲法施行直後の47年12月には「議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律」が施行され、国会にたいする公務員の職務上の秘密に関する証言、書類の提出は最終的に内閣の声明によって拒否することがみとめられた。同じころ公務員の守秘義務を定めた国家公務員法が成立、翌48年の改正で刑事罰が付加された。議院証言法、国公法などの秘密保護規定が、その後どれほど悪用されてきたかについては改めて指摘するまでもない。だが成立当初それらは、占領支配を補足する機能を果たしていたのであって、国会審議過程はいうまでもなく、あらゆる分野に貫徹していたのは占領軍の権力であつた。
 1952年4月のサンフランシスコ平和条約発効にともない、新たな機密保護立法が日程にのぼった。はやくも同年5月6日には、日米行政協定に伴う刑事特別法が成立し、合衆国軍隊の機密は10年以下の懲役という苛酷な刑罰で保護されることになった。これにつづいて治安立法が強力に推進され、同年7月には破壊活動1952年4月のサンフランシスコ平和条約発効にともない、新たな機密保護立法が日程にのぼった。はやくも同年5月6日には、日米行政協定に伴う刑事特別法が成立し、合衆国軍隊の機密は10年以下の懲役という苛酷な刑罰で保護されることになった。これにつづいて治安立法が強力に推進され、同年7月には破壊活動防止法が施行され、翌53年にはスト規制法の成立をみるにいたる。さらに54年5月には日米相互防衛援助協定(MSA)が発効、これにともなうMSA秘密保護法が同年7月1日に施行された。この日は自衛隊発足の日でもあった。こうして、占領支配体制を日本支配層による支配体制へと移し変える過程は、50年代半ばにいたって秘密保護の面でも一応完結したのである。
 刑特法およびMSA秘密保護法は、在日米軍およびアメリカから供与された装備品などの秘密を保護するためのものであった。後者は日本政府に供与され自国のものとなった秘密についてであるとはいえ、本来はアメリカにとっての秘密である。日本独自の機密を保護すべき単独立法が公然の問題となるのは50年代後半のことである(第4章参照)
 もっとも、自衛隊発足の時点で軍機保護法の作成が企図されなかったわけではない。MSA秘密保護法案審議のさい、参院法務委員長であった郡祐一(現法相)は、MSA協定交渉過程で保安庁(防衛庁の前身)を中心に政府が行なった秘密保護立法についての研究状況を紹介して次のように述べている。
「保安庁においても、MSA協定に基く援助に関してのみ秘密保護法を立案すべきが、又は此の際これらの秘密保護を含めて、当時予想されていた自衛隊の防衛出動、防衛出動部隊の編成装備等に関する秘密或いは防衛施設、暗号、作戦情報等に関する秘密をも保護する軍機保護法的な法案を作製すべきか、討議が交わされた・・・・」(『秘密保護法精義』 13ページ)。 p3
 だが、当時の防衛力の実状からすれば 「いたずらに独立国の面目にのみこだわり、軍機保護法的な立法をしても、到底実質的な内容を持ち得ない」し、かつ立遅れている工学関係の「学術の研究が万一にも制限されるようなことがあれば、将来に取り返えしのつかぬ禍根を残すおそれがある」ので、MSA関係だけにとどめたというのである。軍機保護法が見送られたとはいえ、自衛隊法は隊員の秘密を守る義務と違反者にたいする刑事罰を定めている(保安庁法にも同様の規定がおかれていた)。p4
 米軍関係の機密保護立法をすすめると同時に、行政内部における秘密保護体制の確立が推進された。この点ではとくに、53年4月30日の次官会議申合せ 「秘密文書等の取扱規程の制定について」(参考資料1)が重要な意味をもっている。それは「行政機関における秘密の保全について万遺憾なきを期するため、各行政機関の長は次の諸点に留意して秘密文書等の取扱規程を速やかに制定実施するものとする」と述べ、秘密区分として「機密」「極秘」「秘」「部外秘」の4段階をしめし、さらに秘密文書等の取扱いの基準を定めたものであった。これにより各省庁における秘密保全にかんする訓令、規程が相ついで制定されることになった。p4
 保安庁はさっそく「秘密保全に関する内訓」(昭和28年保安庁内訓第1号)により、次官会議申合せと同じ4段階の秘密区分(ほかに「人秘」〔人事秘密〕もあった)を定めている。内訓とは訓令(所掌事務に関し長官が発する規範的命令)と規定事項の範囲を同じくするものであって秘密の取扱いを要するものをいう。つまり秘密保全の規程自体が秘密とされたわけである。p4
 行政管理庁では53年7月27日、「秘密文書取扱要領」なるものを定めたとして、中央部内の課長
以上に送付したという。だが、それは規則番号も制定年月日もない変則的なものであったし、一般職員には知らされなかった。こうした為体のしれない「内規」により、のちに出版物によって官僚機構の腐敗を弾劾した公務員が不当な免職処分を受けたのであった。いわゆる『不正者の天国』事件である(高田茂登男『国家の秘密とは何か』140ページ参照)。
 53年の次官会議申合せは1965年、三矢研究(昭和38年度統合防衛図上研究)が国会で暴露された直後の4月15日に全面改正された(参考資料2)。新しい申合せは、政府の秘密主義にたいする批判を受け入れるかのようなポーズをとり、秘密文書の指定および作成は「必要最少限にとどめる」とうたっている。だが、それが真に狙ったのは、秘密保全体制の強化であった。申合せの文言自体がそれを物語っているだけでなく、後述するように多くの省庁は現在もなお、53年の申合せの線でそれぞれの秘密管理規程を定めているのである。

国家機密の本質
ところで50年代はじめに相ついで制定された秘密保護規程によって、秘密とされたのはなんであったか。当時、法務省刑事局が発行した『検察月報』(54年11月)―「部外秘」の標記が付いている―の巻頭論文「議院の国政調査権と検察権」は、国家の秘密について次のように述べている。
「国家事務の中には、その目的を一そう有効・迅速に達成し、妨害を未然に排除するため、事務の内容を秘密とする必要のある場合が少くない。殊に秘密保護の必要が強く認められるのは、一国の存立にもかかわる基本的な事務についてである。・・・・・警察・検察・裁判、あるいは軍事・外交等は、・・・・国家の任務を達成するためのもっとも基本的な仕事であった。・・・・この種の事務の1つである検察事務は、その運営如何が一国の運命を左右するといってもいいすぎではなく・・・・」(同誌19ページ)。p5
 この論文が30数ページにわたり検察の秘密の重要性を強調しているのには理由がある。今日的意義があるので紹介しておこう。というのは同年1月以来、造船疑獄事件が表面化し、4月にはついに自由党幹事長佐藤栄作逮捕の事態となった。だが、このとき犬養法相が指揮権を発動してこれを許さず、証拠の収集を不可能としたため結局ウヤムヤのうちに葬り去られたのである。これについて同年9月、衆議院決算委員会が証人として佐藤藤佐検事総長らを喚問したところ、佐藤栄作、池田勇人らの収賄嫌疑事実などについて、職務上の秘密に属することを理由として証言を拒否した。

決算委員会は議院証言法により法務大臣に証言の承認を要求したが、これも拒否されたので、さらに同法の規定により内閣声明を要求した。吉田内閣は12月3日、「右証言等の承認をすることは、国家の重大な利益に悪影響を及ぼすものと認める」と声明(参考資料3)、ついに決算委の追及は打切られたのである。これは、国会における証言拒否が内閣声明にまで発展した唯一の事例となっている。
『検察月報』論文が法務大臣および内閣の態度を肯定する立場から、国会の国政調査権を切りちぢめ検察の秘密を拡大するために、三百代言ぶりを発揮しているのは、こうした背景があったからである。この事例は「国家の重大な利益」「検察の機密保持」なるものの本質がなんであるかを、鮮明に国民にたいしてしめしたのであった。p6
 造船疑獄から20年めに、再び機密問題をめぐる国家悪の主犯として同じ佐藤栄作が登場することになったのは、歴史の皮肉であろうか。沖縄交渉をめぐる佐藤内閣の対米密約は、より高度な政治的次元において、国家機密とはなんであるかの問題を、するどく提起したのであった。
『検察月報』論文がみずから告白しているように、「秘密保護の必要が強く認められるのは」「警察・検察・裁判、あるいは軍事・外交等」「一国の存立にもかかわる基本的な事務についてである」。別の言葉でいえば国家の暴力装置の対内的・対外的作用が、もっとも厳重に秘匿されるのである。少数支配階級による多数人民の支配は、こうした暴力装置なしに維持することができない。だが、国家の暴力的本質は、蔽いかくさなければならない。それは権力の恥部なのである。こうして暴力には、不可分の属性として秘密がつきまとうのである。p6
 暴力のいま一つの属性はウソである。単純なウソから複雑厖大な虚構にいたるまで、あらゆる技巧が利用しつくされる。横路孝弘衆院議員(社会党)が72年3月27日の予算委員会で暴露した沖縄密約文書(外務省極秘電信文)が記しているように「問題は実質ではなくAPPEARANCE」なのである。沖縄交渉過程で日米支配層が共謀して努力したのは、議会や国民をいかに欺すかについてであつた。同じ外務省電信文が、佐藤首相、福田蔵相、愛知外相協議のさい「日米間で良く打合せ、対議会説明の食違いなく必要以外の発言はせざるよう米側と完全に一致する必要がある旨、全員一致で確認」したと述べているのも、その一例である(第3篇7参照)。 こうして反権力、反軍国主義闘争において、国家の機密を暴露し、ウソを論破するたたかいが重要な意義をもってくるのである。
「私の舌はみなさんと同じく一枚です」(衆院本会議68・5・14)とシャーシヤー答弁した佐藤首相が、在任中どれだけウソをついてきたか。楢崎弥之助衆院議員(社会党)は72年4月26日の外務委員会
で、常習犯化した政府のウソを列挙し、怒りをこめて追及している。
「43年度の予算委員会で三次防の技術研究開発計画、この中にアンチ・ミサイル・ミサイル、核兵器が研究課題に含まれておる、その指摘をしました。そうしたら、それはないという。現実に秘密理事会で突き合わせをした。あることを認められた。そうしたら委員会では何とおっしやるかというと、草案の草案の中に確かにありました。最終案にはありません。
 沖縄国会の始まった予算委員会で私は第1回の佐藤総理訪米資料を問題にした。そのとき佐藤総理は烈火のごとくおこられた。それは怪文書だとおっしゃった。これまた秘密理事会で現物を突き合わせをした。そうしたら確かに総理府の中にあつた。『極秘』の判を押してあった。
 沖縄密約の問題もそうでしょう。交渉の過程でこれっぽちもないと言った。そうしていよいよ突き合わせができたらどうですか。われわれもいろいろな非難を受けましたけれども、あそこまでしなくてはあなた方はあると言わないじゃないですか。そうしてそれが明らかになったら何ですか。交渉の過程ではあったかもしれないが最終案にはありません。いつもそのようなパターンでしょう。あなたがたの言っているのは」(会議録による、一部略)。p8

ブルジョア民主主義の恥部
秘密主義とウソで階級独裁を貫徹しようとする政治体質は軍事・外交・治安を中軸としながら国政のあらゆる分野を侵食している。国会にたいし大企業本位の減税措置の実態を秘匿しつづける大蔵省、放射性廃棄物の海洋投棄量を偽り報告した科学技術庁(いずれも『朝日新聞』72・4・24)など、数えきれないであろう。決定的な証拠資料が突きつけられ、食言が暴露されたときでさえ、楢崎議員が指摘しているように詭弁の技術ですりぬけようとするのである。沖縄密約が暴露され、国会答弁における外務当局のウソが追及されたとき、福田外相は 「(あのとき)お答えできません、こういうふうに言ったらよかったのかとも思います。それを、承知しておりません、こういうふうに言った。それはことばの表現上まずかった点があるような気がします。・・・・・・今後の問題といたしましては、答弁ぶりにつきましては十分検討いたしてみたい、かように存じております」(衆院予算委72・4・3)と、横路議員にたいしヌケヌケと答えている。常習のペテン師に反省や恥じらいを求めるのは愚かというものだろう。ドジをふんだとき、彼ら考えつくのはいっそう答弁技術を磨き秘密保全を強化することだけなのである。p8
 国政の秘密は、かつて政治が封建君主の私事であると考えられていた時代にはじまり、貴族と市民の政治参加の過程で「国王の秘密」から 「国家の秘密」におきかえられてきたのだという(福島新吾『非武装の迫求」112~3)。確かにわが国では、天皇と天皇の名による軍事・外交・司法が極端な秘密の扉のなかに隠されてきた。軍機保護法にいう軍事上の秘密の第一には「宮闕守衛二関スル事項」があげられていたし、その遺制は今日もなお残存している。そればかりではない。宮内庁では天皇の国事行為は特権的な侍従職の専管とされているし、天皇訪欧の際には同行記者団が宿泊するホテルまで「秘」扱いにされていたという。こうしたことにもあらわれている「天皇の秘密」の拡大は、憲法改悪・天皇元首化の狙いをもって執拗に推進されているのである。国家の秘密は、いまや体制のすべてを捉えている。p9
 ブルジョア革命は国民主権原理に立って表現の自由、政府にたいする批判の自由、それを保障する政府情報の公開を要求し、ある程度まで実現した。トマス ジェファスンが2回目の大統領施任演説において「批判の前に立つことができないような政府は、当然崩壊すべきであり、連邦政府の真の強さは、公開の批判を進んで許すこと、およびその批判に耐える能力をもつことである」と述べたように、政治の公開性―ガラスばりの政治と批判の自由は民主主義のカナメであった。p9
 だが、独占資本主義が発展し、富と権力がますます一部少数者に集中するなかで、民主主義原理は形骸化していった。それは政府秘密の増大と機密保護法制の強化となってあらわれている。その典型は、第2次大戦を契機として軍産複合体制を確立したアメリカである。そこには、網の目のようにはりめぐらされた秘密保護法規が、熱病的な反共主義と結びついて、民主主義的自由と民主的政治制度を完全に狩り取っていった姿がみられる。それによってはじめて、ベトナムをはじめとする数多くの「宣戦布告なき戦争」が可能となったのである。政治の最高の悪である戦争が恣意的に開始され遂行される条件を与えた政府の秘密体質にたいする批判が、ベトナム反戦と結びついた表現の自由の問題として提起されることになるまでには4半世紀を要した。p9
 1971年6月30日、ニューヨーク・タイムズのベトナム秘密文書公表事件について合衆国最高裁
は、政府の公表差止め要求を否定する判決を下した。これを契機としてニクノン政権は政府秘密の縮小に、わずかながらも着手せぎるをえなくなったのである。p9
2 シビリアン・コントロールの欺瞞
温存される専制政治
ニューヨーク・タイムズ最高裁判決における同意意見で、合衆国憲法修正第一条表現の自由の原則を、より徹底的につらぬく立場をしめしたダグラス裁判官(ブラック裁判官同意)は述べている 。 「政府内の秘密は、基本的に反民主主義的であって、官僚主義的誤りを永続させることになる。公の争点を公開で議論し討論することは、われわれの国の健康にとって肝要である。公けの問題に関しては、 “公開で健全な議論”がなければならない」。p10
 これにたいし、おなじく同意意見を述べたスチュアート裁判官(ホワイト裁判官同意)は、「基本的国防の領域では絶対的秘密の必要がしばしばあることは自明である」としながらも、「あらゆるものが秘密扱いされるときには、なにものも秘密扱いされないこととなり、その制度は、皮肉屋や不注意な者により無視され、また保身や自己の昇進を意図する者により巧みにあやつられるものになる。・
・・・・私は要するに、真に効果的な国際安全保障制度の折紙は、信頼関係が真に維持されるときにのみ秘密がもっともよく守られうることを認識して、最大限に可能な発表をすることであろうと考えたい」との見地から、秘密文書の公表が国家と国民にたいし 「直接、即座の、回復しがたい損害を確実にもたらす、ということはできない」として判決に加わったのであった(判決文引用は『法律時報』71年9月号堀部政男訳による)。p10
 前者を古典的なブルジョア民主主義的立場からの、後者を独占資本主義の修正的立場からの、政府秘密にたいする見解として特徴づけることも可能であろう。ところが日本においては、右のいずれかに属する見解や政策が体制の側から表明された事例を発見することはむずかしい。天皇の大権に属した国政の枢要にまつわる徹底的な秘密主義は、戦後の「民主化」過程においても独占資本主義の政治反動体制に組み込まれ、温存強化されてきたのである。現在の外務省秘密文書には、戦前の外交文書の極秘扱い分がなお残されているという(参院予算委72・4・11佐藤外務省官房長答弁)。公安関係文献もまた、戦前のものが現在ほとんど「極秘扱い」されていて研究者から隔離されているといわれる(『毎日新聞』72・4・5)。こうしたことにも、人民による民主的変革がなお達成されていない現実があらわれているのである。p11
 独占ブルジョアジーの反人民的暴力支配の本質と専制的官僚政治の遺物が結合した秘密主義は、とりわけ自衛隊に集中的にしめされている。軍隊が国家の暴力装置のなかで中核的機能を果たすことからもそうならざるをえないのである。自衛隊はブルジョア職業軍隊の本質をもっているだけでなく、特殊日本的体質を継承している。ここからその反人民性、秘密主義とウソの三位一体的特徴が倍加してあらわれ、まさに末期症状を呈しているのが現実である。こうした推移は、自衛隊出生の秘密をさぐることによって、もっとも具体的に理解されるであろう。p11
自衛隊の反人民的な伝統
 自衛隊は1950年7月8日のマッカーサー書簡により、警察予備隊として創設された。ちょうど国会開会期であったにもかかわらず意識的に国会での審議を避け、休会に入った直後の時期を狙って、ポツダム政令により設けられたのであった。国民はおろか国会さえも無視し、占領権力により、まさに「植民地土民軍」として強行的にスタートしたのである。今日の自衛隊が実質的にも形式的にも「国民不在」の軍隊であるのは、じつにこうした出生の経緯に起源をもっている。p11
 72年はじめ、自衛隊をめぐっていくつかの重要な政治的事件が起こった。すなわち四次防予算先取り、立川基地への奇襲移駐、沖縄派兵などでしめされたのは、このような国民不在の反人民的体質であった。立川市では市民の82%が、それぞれに理由をあげて自衛隊の移駐に反対していた。沖縄では朝日新聞社の調査(71年9月)によっても、県民の56%が自衛隊の配備に反対しており、賛成はわずか22%にすぎなかった。これほどに強い住民の反対を突破してまで配備を強行したのである。四次防予算先取り問題では国会はもちろん、国防会議まで無視された。p12
 体制内にあって軍備を認める人びとでさえ、国民の支持なき軍隊がいかに無力であるかは、いやというほど多くの事例をつうじて理解しているはずである。もっとも重要な暴力装置であるだけに、その機能を果たすためには、それが国民のために存在するたてまえをとらねばならない。そうでなければ、どれほど強力な兵器装備をもち大兵力を保有していたところで、あっけなく崩壊してしまうのである。したがって「国民の軍隊」としての擬制を、みずから突き崩すことは、それこそ支配階級への裏切り行為となるはずである。ところが政府・自衛隊首脳は、彼らが奉仕すべき階級にたいして「裏切り行為」を積み重ねたのである。そこには、「天皇の軍隊」としての体質を継承しつつ、これに「植民地土民軍」的体質を合成してきずかれた自衛隊の姿がある。あわせて独占資本主義の軍隊としてもつ腐敗と退廃をあげなければならないとすれば、自衛隊は三重の反人民性によって、その体質を規定されているといえるであろう。p12
 アメリカ最高裁のステュアート裁判官に「助言」を求めるなら、「国民とのあいだの亀裂を深めるお
それがあるならば、何十力所の基地でさえ放棄すべきであり、何千億円の新兵器でさえ断念すべきである」と答えるにちがいない。そうするのが、 「まとも」な頭脳をもつ「自主防衛」派のはずである。
 警察予備隊創設当時、アメリカ軍事顧問団幕僚長としてその企画、組織、配置、訓練に参画したフランク・コフルスキー大佐は、彼の著書『日本再軍備』のなかで、「米国が日本の保守政権と腹を合わせて憲法を無視した不正は、今になっていかなる詭弁を弄しても正しうるものではない」(勝山金次郎訳201ページ)と指摘している。彼は50年8月はじめのある日を回想して、次のように綴っている。
 「アメリカおよび私も個人として参加する『時代の大ウソ』が始まろうとしている。これは、日本の憲法は文字通りの意味を持っていないと、世界中に宣言する大ウソ、兵隊も小火器・戦車・火砲 ロケットや航空機も戦力でないという大ウソである。人類の政治史上恐らく最大の成果ともいえる一国の憲法が、日米両国によって冒漬され蹂躙されようとしている。・・・・」(同書50ペ-ジ)。p13
 憲法を蹂躙し国会を無視してスタートした大ペテンは、とうぜんその意図と実態を秘匿して進められねばならなかった。「日本におけるわれわれは自分たちのやっていることを敵に知らせないことのみならず、味方のものからも隠さねばならぬという余分の負担があった。・・・・われわれは、最初のうちは日本の幹部たちに、予備隊が将来日本の陸軍になるものであることを言ってはならなかった」 (同書28ページ)。 マッカーサー司令部の日本再軍備に関する「基本計画」は、「トップ・シークレット」の書類となっていた。コワルスキー大佐は、ビストルを着用し護衛とともに、これを極秘文書保管用の金庫に収めに行ったエピソードを記している。p13
 自衛隊はこのように、アメリカの機密計画から生まれたのであった。これにたいする批判は、占領政策違反をもって恫喝され、軍隊的装備のあいつぐ導入は、国民の眼を避けて秘密裡に進行した。「設置当初は、一般大衆は予備隊やキンプを訪れることを禁ぜられ、公用以外で一般人がキャンプに立入ることを禁ずる厳しい命令が出された」(同書142~3ページ) のであった。p13
 三つ児の根性百まで―自衛隊はこうして出生時に形成された体質から、もはや脱け出ることはできない。ウソはウソを生み、秘密主義はいっそう強まり、人民に敵対するグロテスクな外貌だけが、ますます際立ってきている。それはちょうど、伊藤博文らによって完全な秘密裡に起草制定された明治憲法が、戦前の国家体質を形づくったのに近似している。p14
 イチジクの葉の国防会議
 職業的軍隊―常備軍は、つねに国民の少数者であるにすぎない。だが、それが手中に握っている兵器の強力な破壊力と、彼らの組織暴力集団としての専門的技術は、ひとたび暴走すれば殲滅的威力を発揮することになる。国民全体の運命と権利を左右するのである。p14
常備軍が国王の私兵として使用されることから生じるさまざまな害悪から市民を守るために、軍隊にたいして市民の優越を確保し、市民による軍人のコントロールを実現する理念として、市民革命の時期に登場したのがシビリアン・コントロールである。シビリアンとはcitzenに属する人の意で市民身分のことである。それは国民主権のもとで議会制民主主義を手段として、議会による軍隊の統制によって実現れされてきた。このような本来の、実質的意義をもつシビリアン・コントロールが貫徹される前提そのものが、今日の自衛隊にはないのである。
 アメリカをはじめ、すべてのブルジョア諸国でも、シビリアン コントロールは形骸と化し、たんなる文官統制にすぎなくなっている。だが、いくつかの国々では民主主義の伝統が人民と労働者兵士のなかに生きている。軍隊と政治の理念や制度にも、民主主義的枠組みが残されている。これにたいし、憲法とそれにもとづく政治体制とは別に、全く異質の存在として設置され、強化されてきた自衛隊には、そのような条件はひとかけらもない。51年以降、大量にその指導部に流入した旧軍人は、天皇の軍隊の伝統を継承させる人的パイプとしての役割を果たし、60年安保闘争をはじめとす階級矛盾の発展は、独占資本の私兵としての性格をますますつよめた。p14
 政府のいう文民統制とは、先に述べたような実質的意味をもつものではなく、全く形式的なものにぎない。それは防衛庁内局(文官)、国防会議、政府、そしてほんの名目的に国会によるコントロー ルして規定されている。これらがすべて完全に機能したとしても、真の市民統制からは遥かにへだたっている。しかも現実は、こうした擬制としてのシビリアンコントロールでさえ形骸化していることをしめしているのである。p15
 文民統制のシンボルにまでもちあげられている国防会議は、四次防予算先取り問題、沖縄への
装備秘密輸送問題で明らかになったように、その形骸的役割さえ果たしていない。国防会議は防衛庁設置法第62条により「国防に関する重要事項を審議する」内閣の諮問機関とされ、内閣総理大臣は国防の基本方針、防衛計画の大綱なについて、これにはからなければならないと定められている。ところが、ここにいう防衛計画の大綱とは、国防会議が設置された当時の内部資料によれば、「国防の基本方針に基づく防衛力整備計画案などをさすのであって、狭義の作戦、用兵に関する計画は含まない、と解させる」とされている。p15
 一般に、軍事にかんする活動は、戦力の創造、育成、維持の分野と、こうして建設された戦力を直接間接にどう運用するかにかかる分野に分けて考えることできる。国防会議は、 このうち戦力をつくる面―防衛力整備は扱うが、戦力を使う面―作戦用兵にはタッチしないと自己限定しているのである。育成増強される軍事力がどう使用される計画であるか―つまり作戦計画と関連なしに、建設されつつある戦力の本質を捉えることはできない。国防会議は―したがってその議長である内閣総理大臣も当然に―この重要な分野に全く関与せず、事実上制服組にまかせてしまっているのが現実なのである。p16
72年3月8日の衆院予算委員会で、中谷鉄也議員(社会党)が明らかにしたところによれば、71年度中に防衛庁が国防会議に提示した秘密文書は、わずか27件にすぎなかった。それも秘密区分としてはもっとも軽度の「秘」に属するものばかりである。同年中に防衛庁が作成した秘密文書は2万4294件であった(第1表参昭)。つまりこの面からいえば、国防会議は千分の一のコントロール機能しか果たしていないのである。要するに、国防会議はイテジクの葉にすぎない。それは肥大化する軍隊と行政権力の補完物であって、真のシビリアン・コントロールの道具にはなりえないのである。国防会議の現実は、制服優位に立って軍民官僚の利害を調節する機関であり、軍事優先的体質をもつ反動政治家と制服組との癒着を蔽いかくすカクレミノにすぎないことををしめしている。

ツンボ桟敷の国権の府
 文民統制を保障する手段は国会である。だが国会は、作戦用兵面について全く知らされていないだけでなく、防衛力整備面についても、 重要な意味をもつ5ヵ年計画は付議されず、わずかに年度の予算と法律をコマ切れに審議しているですぎない。年間3万件前後におよぶ防衛庁の秘密文書のうち、国会に提出されるものはただの1件もないのである。国民や国会にたいしてだけではない。 『自衛隊』(朝日新聞社編)は指摘する。隊内には「“国会で突つかれるとまずい”からという、いわば“対国会秘”があり、また“局長にも報告していないから”という“対内局秘”もあった。たとえば、日米双方の現地部隊幕僚間の非公式な計画研究が、それだった。(同書74ページ) p17
まさに軍部独走である。71年12月28日の参院沖縄北方問題特別委員会で渡辺武議員(共産党)は、海上自衛隊の水中探知機用海底ケーブル秘密購入問題について、防衛当局を追及した。総額27億3336万円総量、4200トンにのぼるケーブルがなんのため、どこに敷設されるのか。質疑を要約すると次のようであった。
江崎防衛庁長官 この点についてはひとつ御容を願いたい。 1
―何本に分けて使っておりますか。
江崎 これはご容赦を願いとうございます。
―みんな御容赦願いますでは質疑続けることできませんよ。
江崎 これをはっきり申し上げますと、自衛隊の任務が根底からくつがえつてしまうわけです。p18
 こうしたやりとりが続くのである。研究者タイプの温厚な渡辺議員もついに怒った。 「何を聞いても答弁拒否。資料要求をしても資料を出さない。これは国権の最高機関である国会の上に軍隊を置いて、そうして議会制民主主義を踏みにじろうという軍国主義の明確なあらわれだ」。p18
そのとおり、ズバリ軍国主義なのである。この現実を直視するなら、とうてい「国会の民主的運営」
などに、なにひとつ期待するわけにいかないことが理解できよう。国会だけではなく国政全体の民主的変革が、反軍国主義闘争との結合のもとに社会主義への展望に立って成し遂げられねばならないのである。
 答弁し(なかっ)た江崎長官は、皮肉にもかつて防衛庁の秘密主義にたいして警告を発したことが
る。55年7月26日の衆院内閣委員会においてであった。
『時局の性質上、すでに防衛庁においても、秘密主義に流れておる傾向が、審議をめぐりまして強く現われております。かようなことでは再び軍閥独裁の過去の姿に帰らぬとは保証しがたいものがあるのであります。こういう秘密主義と同時に防衛庁及び国防会議のあり方につきまして、総理はどういうふうにお考えでございますか」。
 これにたいし、ときの総理大臣鳩山一郎は、「なるべく秘密主義というようなそしりを受けないようにしたい」と答えている。秘密主義と軍閥独裁の相互関係を正しく突いたはずの当人が、16年めにみずから軍国主義の生き証人として登場することになったのである。体制内、ハト派の末路が典型的にしめされているといえよう。p18 ″
 議会制民主主義が踏みにじられたのは、今日の自衛隊によてだけではない。警察予備隊としての発足と、その後の成長の全歴史をつうじて、そうなのである。したがって民主主義の枠内で考えるとしても、国民主権原理を無視し、稀代の大ウソでごまかしながら、ヤミからヤミへと既成事実を積み上げてきた根本にメスを入れなければならないことが理解できるであろう。「既成事実」の全面的な解消―自衛隊解体こそ、シビリアン・コントロールの第一歩なのである。p19
     3 「機密」概念の曖昧性
権力のほしいままに
機密とはなにか。その本質についてはさらに解明していくこととして、ここではその概念について検討しておこう。日本独自の機密についての定義は法律上は全く存在しない。定義がないというより、機密自体が存在しないというたてまえなのである。戦前の機密保護法規は、すべて敗戦後憲法施行までに廃止された。憲法上根拠があるのは「投票の秘密」と「通信の秘密」だけである。p19
 1952年5月、サンフランシスコ平和条約発効直後に、法務府検務局の津田総務課長と神谷刑事課長によって執筆された『刑事特別法解説』は、「今日のわが国自体には軍隊の機密なるものは勿論、国家機密、国防機密といわれるものは法律上は存在せず、従って一般的な刑罰法令としてこれを保護するものはない」と明言している。当時すでに施行されていた国家公務員法第100条にいう「職務上知ることのできた秘密」「職務上の秘密」、その他民事訴訟法、刑事訴訟法などにおける秘密が、国家機密、軍事機密と全く異質の概念であったことが理解できよう。p19

同様のことは、52年7月に公布された保安庁法についてもいえる。同法第54条は「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を離れた後も同様とする」(第1項―以下、2項、3項も職員が隊員と変わっただけで現行の自衛隊法第59条にそのまま受け継がれている)と定めていた。したがってこれらにいう秘密は、厳密に限定して解されなけれならないのである。それは「全体の奉仕者」としての公務員の職務に立脚した、たとえば試験問題や入札予定価格とか、個人のプライバシー等々に関して職務上知りえた秘密を守る義務にすぎないのである。p20
 もっとも「職を離れた後」にも守秘義務があるとすれば、試験問題などだけがその対象でないわけだろうが、それも厳密に局限されるべきで、憲法上の根拠を欠くとして廃止された国家機密、軍事機密の守秘を強いるのは、もってのほかといえよう。たとえば「公開」原則を定めた原子力基本法のもとで、原子力委員にたいして守秘義務が課されているが、両者が矛盾するものあってならない以上、「職務上知ることのできた秘密」の限界は明らかである。p20
 機密とは「枢機に関する秘密」〔広辞苑)をいう。法律でこの範囲について定めているのは刑事特別法があるだけである。すなわち同法第6条は、「合衆国軍隊の機密」について「合衆国軍隊についての別表に掲げる事項及びこれらの事項に係る文書、図画若しくは物件で、公になっていないものをいう」と定義している。別表に掲げられた事項は、次の11項目である。
1 防衛に関する事項
イ 防衛の方針若しくは計画の内容又はその実施の状況
ロ 部隊の隷属系統、部隊数、部隊の兵員数又は部隊の装備
ハ 部隊の任務、配備又は行動
ニ 部隊の使用する軍事施設の位置、構成、設備、又は強度
ホ 部隊の使用する艦船、航空機、兵器、弾薬その他の軍需品の種類又は数量
2 編制又は装備に関する事項
イ 編制若しくは装備に関する計画の内容又はその実施の状況
ロ 編制又は装備の現況
ハ 艦船、航空機、兵器、弾薬その他の軍需品の構造又は性能
3 運輸又は通信に関する事項
イ 軍事輸送の計画の内容又はその実施の状況
ロ 軍用通信の内容
ハ 軍用暗号
それはおよそ軍に関するあらゆる事項を含んでいるといってよいほど広範なものである。前出『刑事特別法開設』はいう。p21

「明文上は表われていないが、合衆国軍隊において、機密として取り扱わていない事項で、そのことが明らかにされたものは、事柄の性質上当然合衆国軍隊の機密の範疇から除外されるものと解している。合衆国軍隊の機密には、その種類として重要度の高い順に挙ると(イ)トップ・シークレット(Top Secret)
 (ロ) シークレット(Secret)
(ハ)コンフィデンシャル(Confidential)
〔ニ)レストリクテッド(Restricted)
の四種がある由で、この分類のいずれかに該当するもののみが、ここにいう合衆国軍隊の機密に当るわけである」(同書54~5ページ)
 つまり、秘匿されているものは、すべて機密だというのである。ここには、重大な秘密を機密とする
定説にみられるような区分はない。秘密と機密は同範囲である。ところが、1954年6月のMSA秘
密保護法では、MSA協定によリアメリカ政府から供与された装備品等およびこれに関する情報で公になっていない一定のものが「防衛秘密」とされている(第1条)。同法施行令第一条は、秘密区分として「機密」「極秘」「秘」の三段階を定めている。これはMSA協定付属書Bで、日本国政府の執る秘密保持の措置は「アメリカ合衆国において定められている秘密保護の等級と同等のものを確保する」と取り決めていることにもとづくものである。すなわち、「トップ・シークレット」は「機密」に、以下対応する秘密区分が指定されるわけである。前出『刑事特別法解説』の秘密区分にあったレストリクテッドは、1953年アイゼンハワー大統領の行政命令により廃止されたので、いまはない。MSA秘密保護法における防衛秘密と、刑特法にいう機密とは、秘密区分の範囲を同じくしているのである(混同を避けるため本書では秘密区分上の「機密〔トップ・シークレット〕」については「」つきで使用する)。なお、現行の資本主義諸国軍隊の秘密区分を別に掲げておく (参考資料4)。
 いずれにせよ概念そのものが混乱しているわけだが、これは秘密そのものの本質に由来している。なにが秘密であるかを明確、具体的にしめすことは秘密の本性からして不可能であるし、それだけに権力者によってほしいままに拡大乱用され、抑圧の武器とされるのである。p22

憲法違反の機密保持
アメリカでは、「国家の秘密は二つに大別され、軍事または外交上の情報で、その公開が国家の安全を傷つけるものは国家機密(state secret),執行府が権力分立原理にもとづき情報を秘匿する固有の権利を有するという特権理論から秘密とされるものは秘密情報 (confidential information)
または職務上の情報(official infomation)と呼ばれ」ている(芦部信喜「民主国家における知る権利と国家機密」 、『ジェリスト』72・6・15)。秘密区分に関連づければ、 「一般に『機密』と『極秘』はstate secretsに当り、『秘』はconfdential(or official)informationに当ると解されている」(同論文)という。その内容を定めた法規としてはいわゆる防諜法(合衆国刑法典第18編37章「防諜および検閲」)、原子力法等があり、ほかに政府機関または政府職員を拘束する多くの法令がある。p23
 日本の場合、国家機密、軍事機密はありえないのに、政府は一貫して「国家機密という言葉はございませんが、やはり国家の利益に重大な影響を及ぼすというような機密は当然ある」(参院予算委65・3・22、小泉防衛庁長官)という趣旨の見解をしめしている。国会の場においてさえ、 「国家機密はいろいろな面からお答えできない」〔同65・3・5)として答弁を拒否するのである。この場合つねに引用されるのは、「その証言又は書類の提出が国家の重大な利益に悪影響を及ぼす旨の内閣の声明・・・・・・があった場合は、証人は証言又は書類を提出する必要がない」という議院証言法第5条の規定である。刑事訴訟法第144~145条の「国の重大な利益を害する場合」、職務上の秘密に関する証言について監督官庁等としての承諾を拒否できるとの規定も同様に悪用されている。p23
 その一例としては、札幌地裁におけるいわゆる恵庭裁判(自衛隊法違反)がある。66年2月26日、防衛庁長官は、証人として出廷した田中義男元統幕事務局長が職務上の秘密であるとして証言を避けた9項目について、わずか2項目の尋間を承諾しただけで、のこり7項目は「国の重大な利益に反する」として承諾を拒否したのである(参考資料5)。p23
 行政府によってほしいままに機密が設定され、それが刑事罰によって保護されることが現憲法下で全く許されないことはいうまでもない。『刑事特別法解説』(前出)でさえ、刑特法立案に際してとくに留意されたことの第一として「保護の対象たるべき合衆国軍隊の機密の意義、種類及び範囲が法律上明記され、且つ、できるだけ妥当を得るよう規定された」などと弁解せぎるをえず、さらに「戦前の軍機保護法における如く、機密の種類、範囲を命令に委任することは、新憲法の精神に反するといわなけれならないので、法律の別表においてその範囲が明らかにされることとなった」(同書49ページ)と述べている (しかしそれによって十分明確になったわけではもちろんなく、秘密の特性、とりわけアメリカの機密であって日本政府でさえ分らないものが保護対象であることから、包括的・抽象的な規定にすぎない。これらの点について批判的検討を行なったものとしては、佐伯千仭ほか「防衛秘密保護法」〔別冊法律時報〕、入江啓四郎「防衛協定と機密保持」〔法律時報臨時増刊〕などがある)。p24
 ところが国家公務員法、自衛隊法等にいう「職務上知ることのできた秘密」については、秘密の種類、範囲が法律によって全く定められていないのである。ここから、構成要件的に明確性に欠ける刑罰法規は憲法第31条(法定の手続の保障)に欠けるとして違憲の主張がなされているのである。p24
 だが、おどろくべきことに防衛庁秘密漏洩事件(いわゆる川崎一佐事件)の東京地裁判決(71・1・23)は、「自衛隊の秘密について考えるばあい、日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法における防衛秘密を判断の参考にすることも、決して無駄ではあるまい。すなわち、これにより秘密の実体を合理的に推認することも必要である」などとして、かってにいくつかの「秘」文書が秘密に該当すると認定している。法律が一つあれば、あとはいくらでも裁判官の自由裁量によって刑罰を加えられるというのであろうか。p24
 さらに見逃がしがたいのは、同判決が 「事柄の性質上、それに相当するか否かの判断に当っては、当該秘密の対象そのものを公判廷において公開するに適しないばあいもあることが当然予想されるから、当該国家機関により秘密の種類、性質等のほか、秘密にする実質的理由を明らかにさせることによって秘密の実体を推認することは、是非必要であり、また可能であろう」としていることである。またしても「推認」なのである。いったい憲法第82条に定められた政治犯罪の対審の絶対的公開の原則はどこへいったのか(69年3月18日、東京高裁のいわゆる外務省スパイ事件第2審判決にも同趣旨の文言がある―『判例時報』516号参照)。 「もしこのようなことが許されるとするならば、現行刑事訴訟法の直接審理主義、自由心証主義のたてまえが大きく崩されることになり、憲法31条の適正手続条項にも違反する」として吉川経夫法政大教授は、国家秘密を刑法上保護する規定が現行憲法下では存立しえないことを」指摘している(「刑法における国家秘密の保護」、『法律時報』71年9月号)。p25

軍国主義のバロメータ
 ともあれ法制化されるよりも先に国家機密保護体制は、すでに裁判所をもまきこんで暴力的に強化されつつある。これは司法反動の到達点をしめしているだけでなく、まさに国家機構の中枢に軍国主義が確立していることの証左といえよう。p25
国家機密の量質にわたる増大と高度化は、そのまま軍国主義成長のバロメータとなるのである。軍隊はそれが国家機構のなかでもつ特殊な役割から、つねに強固な秘密保全の防壁をきずく。軍事機密は国家機密のなかでもっとも重要な部分を占めている。軍備拡充と兵器装備の近代化、編成配置・教育訓練の複雑化とりわけ対外侵略作戦能力の強化とそのための作戦研究、戦略計画の進展は秘匿の必要度を高め、秘密の範囲を拡大していく。p25
 アメリカの秘密区分 (classification)は、1953年のアイゼンハワー行政命令によって、公式には3段階(前述)と定められたが、実際にはそれだけにとどまらない。たとえば最高の「トップ・シークレット」の一段上のものとしてTOP SECRET-SENSITIVEというのがある。これは、もし公表されたら外交交渉その他進行中の微妙な工作に影響を及ぼすおそれがあるものに付けられる。ほかにEYES ONLY という標記もあり、これは国内回覧用のメッセージに付され、宛名の人物だけが見る。このように、政府の秘密は拡大してとどまることを知らない。日本の場合も、別掲 「資本主義諸国軍隊の秘密区分」中、台湾の項にある用語なを取り入れて、「機密」のうえに「極機密」「殊特機密」の区分を設定することになるかもしれないだろう。p26
 国家政策のなかで国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるにともない、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野を蔽いつくすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。さいごにくるのは争である。p26
 戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民は全く参加することができない。戦争準備は極秘裡にすすめられ、ある日突如として戦争の人ぶたが切られる。国民はただ肉弾としての運命を甘受するほかなかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえなしに、関東軍が勝手に戦争をおっばじめ、その「既成事実」をいやおうなく追認させられつつ、破滅的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。p26

第二章国家機密の構造

国家機密と軍事機密
「庁秘」と 「防衛秘密」
 自衛隊の秘密にはMSA秘密保護法にもとづく「防衛秘密」と、秘密保全に関する訓令による「庁秘」がある。その総数は、第1、2表(15~7ページ)にしめしたとおり、70年12月31日現在の点数で、防衛秘密が9万0359点、庁秘が72万4241点、あわせて81万4600点に達している。加えて71年中に新たに防衛秘密271件、庁秘2万4294件が指定されている。70年までの実績からみると、増減を繰り返しているが決して減少していない。p27
 件数と点数との関係をみると、庁秘のうち「機密」は平均して1件あたり14点、「極秘」は1件につき30点、「秘」は1件につき10点ずつ作成されている(70年)。「機密」「極秘」の1件当り点数が多いのは、暗号書が含まれているからで、「秘」がすくないのは起案書が多いからであろう。なお、解除の件数、年末保管件数がしめされていないのは、これについて下部からの報告を徴していないからである。p27
 秘密保護に関する内部規定としては、防衛秘密についてMSA秘密保護法施行令にもとづく「防衛秘密の保護に関する訓令」があり、庁秘については1958年11月、「秘密保全に関する内訓」の全部を改正して定められた 「秘密保全に関する訓令」(以下、庁秘訓令という)がある。自衛隊が在日米軍と濃密な共同作戦関係にある以上、とうぜん防衛秘密(アメリカから供与された装備・艦艇等にかかるもの)以外に、刑事特別法によって保護されている在日米軍の秘密情報・資料が一定限、提供されているはずである。だが、これを庁秘と区別して保護する内規はないといわれている。したがつて、同じく庁秘訓令によって秘密区分を指定されているもののなかに、漏洩すれば刑特法により10年以下の懲役に処せられるものも含まれているわけである。一般庁秘については、防衛庁長官、国防会議議員などが漏らしても刑事罰は科せられない。しかし、防衛秘密および在日合衆国軍隊の秘密については、すべての者がMSA秘密保護法および刑特法によって拘束されている。したがって国会で答弁しても刑事罰の対象となるのである。p28
 庁秘訓令にいう秘密とは、 「防衛庁の所掌する事務に関する知識及びそれらの知識に係る文書、図画又は物件であって、機密、極秘又は秘のいずれかの区分に指定されたものをいう」(第2条)。保安庁内訓で「人秘」「部外秘」とあつた秘密区分は、58年の改正でなくなった。代わって「取扱注意」が設けられたが、これは訓令上の秘密にはあたらない。だが、「取扱注意」のなかに実質的秘密が含まれている場合は、自衛隊法上の「職務上の秘密」に該当するという見解を政府はとっている。庁秘訓令第5条は、保全の必要度に応じた秘密区分の基準を次のように定めている。p28
(1)「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
(2) 「極秘」とは、機密につぐ程度の秘密の保全が必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に損害を与えるおそれのあるものをいう。
(3)「秘」とは、極秘につぐ程度の秘密の保全が必要であって、関係職員以外の者に知らせてはならないものをいう。
「取扱注意」については訓令第47条で 「官房長等の指定した者は、その取扱う事務に関する文書、図画又は物件で、その保全の必要度が第5条に定める基準には達しないが、当該事務に関与しない者にみだりに知られることが業務の遂行に支障を与えるおそのあるものについて、取扱注意の指定をするものとする」と定められている。p29
 このように訓令の規定は、 「区分」の名に値いしない、曖昧な基準をしめしているにすぎないのである。限界や基準をしめしえないのが秘密の特質であって、MSA防衛秘密の場合も大同小異である。アメリカで現行の秘密区分システムが設定されたのは1953年、アイゼンハワー大統領が定めた「秘密情報の保護」と題する行政命令10501号によってであった。これには、「トップ・シークレット」、「シークレット」、「コンフィデンシャル」の3区分の定義がしめされているが(参考資料6)、これも全く
抽象的であり、庁秘訓令の規定と共通している。p29
1941(昭和16)年、国防保安法が帝国議会で審議されたとき、秘密区分の基準についての質問があった。「明確ナル区別ガアリマスナラバ、御聴キシタイト思ヒマス」との問いにたいして「司法省ニ関スル限リハ如何ナル事項ヲ極秘トシ、如何ナル事項ヲ秘トスルカト云フ基準ハゴザイマセヌ。実ハ大体ノ感ジデ、是ハ大切ナモノダト思フモノヲ極秘トシテ取扱ツテ居ルノデアリマス」との答弁がなされているが(寺沢音一編著『国防保安法』釈義篇10ページ)、 戦後も戦前と変わりはない。なお、防衛庁の庁秘訓令は、改定前の次官会議申合せ(53・4・30)の基準そのままであることが注目される。p29
戦前の国家機密
ここで、戦前の国家機密について検討しておこう。当時の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があり(戦後、憲法制定時に廃止)、そのほか陸軍刑法(明治41年法律46号)、海軍刑法(同48号)にも、「軍事上ノ機密フ敵国二漏泄」したものは死刑に処すとの規定があった。また出版法(明治26年法律15号)にも、「外交軍事其ノ他ノ官庁ノ機密」「軍事ノ機密」の文言があった。さらに旧軍機保護法(明治32年法律104号)には、「軍事上秘密ノ事項又ハ図書物件」とあり、その探知漏洩が処罰の対象となっていた。しかし、いったいなにが軍事上の機密なのかについて示したものがなかった。
「軍ノ本当ノ機密卜申シマスノハ軍事機密卜申シマシテ、是ハ極メテ少イノデアリマス。軍事機密卜云フモノヲ洩ラシマストドンナ偉イ者デモピシャットヤラレル」 (前掲書6ヘージ)。決して少なくはなかったのだ、がこんな説明ではなんのことだかわからない。これについては、わずかに「陸軍ノ秘密書類二関スル件」(昭和8年2月18日、陸達第2号)が存在するだけであった。その全文を示すと―
第1条 陸軍ノ秘密書類ハ之ヲ陸軍機密書類及陸軍秘密書類トス
第2条 陸軍機密書類トハ作戦、戦時編制及動員二関スル書類中重要ナルモノ竝二特二指定シタル書類ヲ謂フ
第3条 陸軍秘密書類トハ作戦、戦時編制及動員二関スル書類中軽易ナルモノ竝二陸軍ノ内外ヲ問ハズ公表ヲ禁ジタル書類フ調フ
第4条 陸軍機密書類及陸軍秘密書類ノ取扱二関シテハ別二之フ定ム(末弘厳太郎編『現代法令全集 兵事篇』545ページ)
 
軍機保護法は1937(昭和12)年に大改悪され、その第1条に 「本法二於テ軍事上ノ秘密卜称スルハ作戦、用兵、動員、出師其ノ他軍事上ノ秘密ヲ要スル事項又ハ図書物件ヲ謂フ」(第1項)と定義されるにいたり、その種類範囲は陸海軍大臣が命令を以て定めることとされた 。これにより陸軍省令は「宮闕守衛」「国防、作戦又ハ用兵」「編成、装備又ハ動員」「国土防衛」「諜報、防諜又ハ調査」「運輸通信」「演習、教育又ハ訓練」「資材」「軍事施設」「図書物件」に関する事項を50項目にわたり指定したのである。このうち資材、図書物件に付する標記は、「軍事機密」「軍事極秘」「軍事秘密」の3段階に区分されている。海軍省令もほぼ同様であるが、軍事上の秘密に属する図書物件には「軍機」「軍極秘」の標記を付すことになっていた。海軍の場合、ほかに「秘」があったが、これは軍事機密に含まれていない。軍機保護法によって保護された軍事機密は一応、統帥事項であったが、それと関連あるものも「其ノ他軍事上ノ秘密フ要スル事項」であるとされ、無限に拡大されたのである(軍機保護法については日高巳雄『軍機保護法』参照)p31
 それがいかに暴威を振るったかの事例は多挙げることができよう(第4章1参照)。1937年の改正案審議のさい、一議員が政府にたいし、「所謂議員の正当の業務の範囲と云ふのは、何所まで及ぶといふ御見解をもってをられるか」とただした。これにたいする答弁は「不断に於て軍事上秘密としてゐる所を態々探知収集することは、たとえそれが将来の予算審議或は決算審議に利用しようと云ふ善意のものでありましても、やはり軍機保護法では動機の如何を問はないのでありますから、法規違反になるといふより他はなかろうと思います」(伊達秋雄「軍機保護法の運用を顧みて」、『ジュリスト』59号)というものであつた。全国民を対象とする機密保護法が、いかにおそるべきものであるかが理解できよう。そうた性格のものとして今日すでに刑特法、MSA秘密保護法がある。この2法律は機密の探知。収集罪について「合衆国の安全(MSA秘密保護法は「わが国の安全」)を害すべき用途に供する目的をもって、又は不当な方法で」としぼっているものの、「探知収集行為の手段が不当であることの故をもって犯罪としたのは・・・・日本国憲法の制定とそれに伴う現行刑事訴訟法の施行により、被疑者に黙秘権が与えられ、一方では予審制度が廃止される等刑事手続上の改革が行なわれた結果、いわゆる目的罪の立証が極めて困難となったことに対する立法上の措置である」(前出『秘密保護法精義』62ページ)といわれているように、乱用の危険があるとして国会審議でもつよく批判された。不当な方法とは不法な方法より広く、「情を通じ」たときどころか立入禁上を無視した場合などを含むのである。p32
 1941(昭和16)年、太平洋戦争突入直前に制定された国防保安法は、軍事機密以外の国家機密の保護を直接の目的としていた。その第1条は「国家機密トハ国防上外国二対シ秘匿スルコトヲ要スル外交、財政、経済其ノ他二関スル重要ナル国務二係ル事項ニシテ左ノ各号ノ一二該当スルモノ及之ヲ表示スル図書物件ヲ謂フ」として、
1 御前会議、枢密院会議、閣議又ハ之二準ズベキ会議二付セラレタル事項及其ノ会議ノ議事
2 帝国議会ノ秘密会議二付セラレタル事項及其ノ会議ノ議事
3 前二号ノ会議二付スル為準備シタル事項其ノ他行政各部ノ重要ナル機密事項
を挙げていた。これらの探知、収集、漏泄、公表などは死刑を含む苛酷な刑罰の対象となり、1944年には同法により3人に死刑が執行された。とくに第1条第3号中の「其ノ他行政各部ノ重要ナル機密事項」はいくらでも拡張解釈できた。そればかりか同法第8条は「外交、財政、経済其ノ他二関スル情報ヲ探知シ又ハ収集シタル者」にたいして10年以下の刑を科するとし、これにより新聞切抜きを集めた者まで弾圧されたのである (前出『秘密保護法精義』63ページ、なお国防保安法については大竹武七郎『国防保安法』参照)。p32

厖大な秘密文書
現在はどうか。政府はすでに国家機密が存在すると公言している。そして政府内部の秘密保護規程としては、次官会議申合せを基準として各省庁ごとに訓令等を定めている。これによ秘密文書として指定されたものは、1971年中だけで第3表、第4表がしめすように10数万件にのぼっている。もっとも多いのは外務省であり、防衛庁、法務省、公安調査庁などがこれに続いている。「機密」の区分を設けているのは16省庁とされているが、これはごまかしで、総理府本府、外務省も「機密」の区分をもっている。外務省は「機密」文書がないとしているが、後述するようにこれには疑いをもたざるをえない。なお「部外秘」「取扱注意」は65年の次官会議申合せでは削除されているのに、これを設定している省庁が16もある。これがすべて秘密文書のなかに入れられているが、省庁によっては訓令上の秘密とされていないところもある。p33
 また、この表には情報機関として大量の秘密をもつ内閣調査室が含まれていない。内調は1952年に発足、あらゆる諜報機関がそうであるように、秘密保全体制強化の歴史とともに成長してきた。72年度予算は9億5000万円で、秘密裡に内外の情報収集を続けている。収集された情報資料の大部分は秘密文書であり、とくにその分析結果は「機密」に指定され、官房長官を経て首相に提出れさている。そのほか、この表には国防会議なども入っていない。こうした点を留意したうえで分析する必要があろう。p34
 次に各省庁の秘密保全規程を瞥見しておこう。警察庁は「警察庁の秘密文書の取扱に関する訓令」(昭和29年12月25日訓令第18号)により、すでに廃止されたはずの53年次官会議申合せと同様の4段階の秘密区分を設けている。法務省(公安調査庁、検察庁、刑務所などを含む)もまた、1953年7月23日付訓令「秘密文書等取扱規程」により、同じく4段階の秘密区分を定めている。破防法によって設置された公安調査庁は、発足以来の訓令・通達だけでも4200件を超えている。そのすべてが秘密扱いであり、そのうち一部だけなら公表できるのが4件、他は件名さえ明らかにできないという。 「その秘の件名自体から内容がうかがわれて調査に支障を来たす」との理由で国会への提出さえ拒否している(衆院法務委72・3・22、川口公安調査庁長官)。その他の調書、資料入手調書も完全に秘匿されている。このようにして憲法違反のスパイ活動がなされているのであ。法務省と 同じく、経済企画庁の「秘密保全に関する訓令」も53年のものであるp35

 外務省は「機密保全に関する規則」(昭45年外務省訓令第5号)を70年6月12日に定めており、71年7月17日に改定している。だが、この訓令自体「秘・無期限」の秘密区分を指定されているため、国会各委員会での要求にもかかわらず提出されていない。p35
 これら各省庁の例から明らかなように、国家機関の中枢においては、65年の次官会議申合せが無視され、廃止されたはずの53年申合せそのままの基準が適用されているのである。お膝元の総理府本府だけが65年6月16日、あらたに「秘密文書取扱規程」を定めたにすぎない。なお、運輸省、農林省、通産省、郵政省、建設省、文部省、大蔵省、自治省、科学技術庁等は、一般の「文書管理規程」のなかに、秘密文書取扱いに関する章を設けているが、その多くは秘密区分について53年次官会議申合せの基準に従っている。また厚生省、農林省、通産省、警察庁、食糧庁、林野庁、水産庁、特許庁中小企業庁、消防庁などは文書管理規定上の定めがないのに、運用上「部外秘」(または「取扱注意」)を設けてさえいる。p35
最近発足した環境庁でさえ、71年7月1日に定めた「秘密保全に関する訓令」を、53年甲合せにもとづいて作成している。これにはさすがの竹下官房長官も 「追跡調査がきわめて欠けておった。そういう残念な事実も確かにある」と認めざるをえなかった(参院法務委72・4・20)が、こうした事実はたんに秘密主義に執着する官僚の体質をしめしているだけでなく、政府の意図的な政治的方向を暴露しているのである。沖縄密約問題でその秘密主義を追及された政府は、72年4月13日の次官会議において65年申合せを再確認しただけでお茶をにごす一方、「外務省、防衛庁は秘密文書の性格が違うので別個にきちんとしたものにする」(竹下官房長官)と、かえって国家機密保全体制強化の方向さえ打ち出したのである。p36


2安保体制の機密
日米密約のありか
 沖縄軍用地復元補償費400万ドルを実際には日本が負担しながら、協定文ではアメリカが 支払うことにみせかけたヤミ取引―沖縄密約問題について、外務省は国会ではあくまでそれを否定したが、非公式の場では一応認めたうえで次のように弁明したという。
 「外務省は ″外交交渉の内容はいずれなんらかのかたちで明るみにでる。だから、ひどい交渉はそうそうできるものではない〃という。ところが沖縄返還交渉は外交交渉としても特異なケースだったと説明する。つまり戦争で負けて取られた領上の返還を求めるのだから、いかに相手の要求する代償を値切るかが大変で、最初から大きな負い目のあった交渉だったというわけだ」(『朝日新聞』72・4・5)
とすれば、「負い目」のある外交交渉の場合は、密約があると考えていいのである。戦後の歴史を顧みるならば、「負い目」をもつ外交交渉こそ常態であって、そうでないほうがむしろ「特異なケース」であった。その最たるものは、占領支配の解消と引きかえになされた片面講和の締結であろう。同時に、旧安保条約が結ばれ、アメリカにたいして「極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに・・・・・日本国の安全に寄与するために」その軍隊を日本国内及びその付近に配備する権利を与えた。ひきつづくMSA協定もまた、アメリカの兵器装備、あるいはいわゆる余剰農産物売却資金を得るのと引きかえになされた「負い目」をもっていた。さらに、「アメリカの核のカサ」への依存もまた、相当の「代償」を要するはずである。以上のような占領の遺制ともいうべき特権の許与と、帝国主義同盟内部における強者への従属とが、日米関係において、国民に秘匿しなければならない数多くの密約を生んでいるひとつの要員であろう。p37

 だが、それだけではない。自衛隊の軍事力が強化され、その防衛分担が拡大するなかで、日米共同作戦体制は軍事行動のあらゆる分野におよび、またアジア太平洋全域にわたるひろがりをもつにいたっている。いわゆる日米ミリタリー・コンプレックス(軍事複合体)の形成である。したがって自衛隊の対外作戦は、あらゆる面でアメリカ軍との関わりをもつ。こうした体制のもとで実施される作戦研究とか協定される戦略計画は、在日米軍の機密として刑特法により、自衛隊法に比して10倍も強く(罰則の点で)保護されると彼らが考えたとしてもふしぎではない。いったん、刑特法上の秘密にしてしまえば国会はもちろんのこと、政府をも拘束できるのであるから、これにより日本の機密保護法体系の不備を補うことができる。刑特法第6条第2項は、「合衆国軍隊の機密で、通常不当な方法によらなければ探知し又は収集することができないようなものを他人に漏らした者」は10年以下の懲役に処すると定めている。これについて『刑事特別法解説』(前出)は、「合衆国軍隊の要員が自発的にその機密たる事項を話し、若しくは見せてくれ、又はその機密たる事項を表示した文書を貸与してくれた場合であっても、かかる機密事項や文書が通常の場合には不当な方法を用いない限り知り又は集め得ないようなものであるときは、これを他人に漏らせば本項の罪に該当する」といい、「他人に漏らす」とは「相手が特定又は一人を含む少数の人」であってもいいと述べている。となると、日米両軍間に設けられている多くの共同作戦機構において作成される協定、覚書、資料などは、うっかり防衛庁内局などへ報告することもできないであろう。
 「対内局秘」が生まれるゆえんである。65年度の日米共同作戦計画「フライング ドラゴン」などが、そうした取扱いを受けていることについては第2篇で述べる。p38

憲法に優先する安保条約
以上のような両面の性格をもつ安保体制の秘密について検討をすすめよう。52年に発効した旧安保条約・行政協定は、周知のように60年6月、新安保条約・地位協定に変わった。これにより安保体制の政治的内容は大きく変化したが、条約面では、大部分旧来のものを引き継いだ。とくに地位協定は、ほとんど行政協定そのままである。新安保体制はこれらの条約、協定を軸として築かれているわけだが、その構造はどうなっているのか、機密保全問題に焦点をあてて説明しよう。p38
 安保条約第6条によれば、「施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位」は、地位協定および「合意される他の取極」により規律されるとなっている。地位協定は安保条約とともに、条約のカテゴリーに属するものとして一応国会に提出され公表された。問題は、「合意される他の取極」の性格とその取扱いである。地位協定は、多くの事項を両政府間の取決めに委ねている。たとえば、個々の基地に関する協定は、日米合同委員会をつうじて両政府が締結すること(第2条)、 航空交通管理および通信体系の協調整合に必要な手続は、両政府の当局間の取極によって定めること(第6条)、そのほか気象業務(第8条)、警察権(第17条)等々である。これらの合意事項については60年3月25日、国会に提出された政府資料により29項目にわたって、その概要が明らかにされた。ついで62年4月28日、参院予算委に提出された資料で、新協定にもとづく改正点の概要が11項目についてしめされた。だが、公表されたものは「合意された取極」の概要にすぎず、しかも重要な部分はすべて除外されている。p39
 外務省の吉野アメリカ局長はいう。
「合同委員会の議事録ないし合意は一切不公表にする。・・・・・・・なぜ不公表にするかと申しますと、これはやはり日米間の安全に関するものでございまして、このような内容のものをそのまま出すことは諸種の見地から適当でない、こういう判断にもとづくものでございます。なお、米側はもちろんこれを不公表にすることを要請しております」
(衆院外務・内閣・地方行政・法務委連合審査会72・4・13)。
 合意書の秘密区分は「極秘」で、地位協定に関する合意書だけでも百数十件にのるといわれる。
憲法は内閣の職務として「条約を締結すること」をあげ、「但し、事前に、時宜によ ては事後に、国会の承認を経ることを必要とする」と定めている(第73条)。ここにいう条約の形式にはいろいろある。たとえば、旧行政協定は国会の承認なしに締結されたが、地位協定は国会に提出された。国際合意は条約(treaty)、協約(convention)、協定(agreement,accord)、規約(pact,covenant)、憲章(charter)、規定(statute)、取極(arrangement)といった名称でよばれようと、交換公文(exchange of letters)の形をとろうと、国際合意であるかぎり条約の範疇に入る(田畑茂二郎『国際法』92ページ、なお「条約法に関するウィーン条約」参照)。p39
 しかも、これらの合意は法律に優先するのである。日米共同防衛義務を定めた新安保条約第5条について林修三法制局長官は次のように述べている 。 「条約が成立したあかつきにおきましては、 第5条の規定は、日本国全体についての効力があるわけでございまして、日本政府のみがこれに拘束されるわけではどざいません。日本の国会も、政府も、裁判所も、すべてこの条約が拘束する範囲においては拘束されるわけでございます」。「法律と条約との関係では、公法たる条約が勝つ」(衆院安保特別委60・4・11)。条約という名称がついていようといまいと、それは変わらない。
 1953年、行政協定を改定する議定書が発効したとき、「改正行政協定第17条および公式議事録に関する政府の解釈等」と題する文書が、法務省刑事局により作成された。それは、最高裁事務総局が54年2月に発行した「部外秘」の『刑事裁判資料』(第87号)に収録されている。その冒頭には、刑特法と改正17条との関係についての政府見解が示されている。すなわち―
「刑事特別法の規定中には、改正行政協定第17条に抵触するものがあるので、政府においては、近く開かれる臨時国会に提出するため現在その改正法案を立案中であるが、その改正をまたないでも同法の規定中改正行政協定第17条に抵触するものは効力がない。即ち安全保障条約は国会の承認を経ており、行政協定は同条約の一般的委任の規定(第3条)に基くものであるから、行政協定は国会の承認を必要とせず、その改正についても更に国会の承認は必要とせず、改正行政協定第17条は実質的に条約と同様の効力を有するからである」(37ページ)。p40
 条約に一般的委任の規定があれば、どんな政府間協定を締結しても国会の承認を要せず、しかも法律以上の効力をもつというのである。こんなベラボーな話はない。たとえば、国会が「核兵器持込禁止法」を可決成立させたところで、政府が新安保条約第6条の一般的委任によリアメリカとの間で秘密裡に「核兵器持込協定」を締結すれば、後者が優先するというカラクリである。非核三原則は一内閣の政策にすぎないのだから、米日反動が共謀すればなんでもやれるわけである。しかも核持込みの事実は、当然に刑特法による合衆国軍隊の機密として保護されるわけであるから、国民も国会も全く知ることができない。それどころか、自衛隊が米軍の核兵器を共同使用することになり、そのための作戦協定が締結
されたとしても、やはり在日米軍の機密にかかわる事項として刑特法が適用されるのである。このように、日本の憲法原理と民主主義制度を根底から空洞化しているの安体制なのである。p41
 以上述べてきたように、「合意される取極」の効力は絶大なものがある。そうした取決めが数多くなされ、「極秘」文書とされているのである。安保条約関係で、このような取決めがどれだけ存在するかについて、国民の「知る権利」はいまだ有効に生かされていない。すべてが外交機密の名のもとに外務省の奥深く蔽いかくされているとしても、それらの取決めがどれだけ存在しうるのか、その範囲と事項を分析することは不可能ではあるまい。こうした作業がすすめられるよう期待しておきたい。p41

手厚く保護される米軍機密
 条約締結についての国会の権限が低下しているのは、日本だけではない。アメリカ憲法
は、条約の批准には上院の3分の2の賛成が必要であると定めている。だが近年、「従来上院の承認を要する条約事項であったものが、ますます多く行政協定事項となり、しかも極秘扱いによって隠されている」という(S・レンズ『軍産複合体制』小原敬士訳92ページ)。ペンタゴンは、秘密軍事協定の詳細を国民の眼から隠しつづける。 「これらの協定は、状況しだいによっては、国家を実際の戦争に追いやりかねないものである。このような了解がどの位たくさんあるのか、それは正確なところいった 造い何を包含しているのかということは、世間から隔絶した内部の少数者以外は誰も知っていない」(同書90ページ)『U・S・ニューズ・アンド・ワールド・レポート』(69・7・21)は、少なくとも24の軍事協定が秘密裡に締結されていると伝えている。レンズはこうした傾向を、「軍国主義の症状」と正しく指摘している。p41
 地位協第23条後段は、「日本国政府は、その領域において合衆国の設備、備品、財産、記録及び公務上の資料の十分な安全及び保護を確保するため、並びに適用されるべき日本国の法令に基づいて犯人を罰するため、必要な立法を求め、及び必要なその他の措置を執ることに同意する」としている。これは行政協定第23条をそのまま引継いだものであり、刑特法の根拠となっている。ここにいう「必要なその他の措置」として、なにがなされているかは明らかにされていない。p42
 このほかに地位協定第11条は、「公用の封印がある公文書及び合衆国軍事郵便路線上にある公用郵便物」について税関検査を行なわないことを定め、さらに同協定合意議事録は、地位協定第17条の10(a)および10(b)に関し、「日本国の当局は、通常、合衆国軍隊が使用し、かつその権限に基づいて警備している施設若しくは区域内にあるすべての者若しくは財産について、捜索、差押え又は検証を行なう権利を行使しない」としている。p42
 ここで一般に、合意議事録がいかなる意義をもつとされているかについて述べておこう。法務省刑事局見解はいう。「公式議事録は、協定の一部ではないが、協定締結に当って協定の内容に関し、両締結国に成立した合意として協定の内容を補充し単なる解釈資料以上の拘束力を有する」(前出最高裁資料28ページ)。議事録といえども拘束力をもつのである。
 このように米軍の機密は手厚く保護されている。刑特法の適用については、 「日米行政協定の規定を履行するため討議した問題」と題する予備作業班 (のちに日米合同委となる)裁判権分科委員会刑事部会の文書があり、52年7月30日の日米合同委で承認され発効した。それは次のようになっている。
38 質問 合衆国軍隊の機密を侵す罰の裁判、捜査において、日本の当局が、当該事項が合衆国軍隊の機密に属するや否やを如何にして知るか。
合意された見解 日本の当局は個々の事件について合衆国軍隊に、当該事項が機密に属するかどうかを昭会する。合衆国側は、これに対し、当該事項が機密に属するや否やを回答するものとする。
40 提案 日本にある合衆国の機密のスパイを防止し、国外に持出すことを防ぐのに役立たしめるため、日本政府は税関及び警察の職員に合衆国の機密の符号を知らしておくべきである。
合意された見解 本提案は合意された(最高裁事務総局『民事及び刑事特別法関係資料』232ページ)。p43
 
 行政協定第17条改正にともない、53年10月22日あらたにそれについての合意が刑事部会でなされたが、その第19項 (機密事項の照会)、第32項(機密符号の告知)も同様の定めをしている。また、
同年11月27日の合意では、「急使等に関する特例」(第47項)として、「権限を与えられたすべての急使その他機密文書若しくは機密資料を運搬又は送達する任務に従事するすべての軍務要員は、その任務の性質により、その氏名と所属部隊を確めるという必要以上に他の目的のためにその身柄を拘束されず、且つ、その所持する文書又は資料はその所持を奪われ、開披され又は検査さない旨相互に合意される」となっている(法務省刑事局『外国軍隊に対する刑事裁判権の解説及び資料』305、311,323ページ)。p43
 以上のように、アメリカ軍の機密は協定、合意事項、法令その他の措置によって、それ自体厳重に保護されている。そればかりか、これに関連する日米間の軍事・外交機密までが、その保護対象とされているのである。なお、防衛庁の庁秘訓令は、第10条第6項で「外国政府から得た秘密については、その外国政府の秘密区分に相当する秘密区分に指定するものとする」と定め、また、第29条第2項で「外国政府に秘密の知識又は文書、図画若しくは物件を伝達又は送達するときは、事務次官の定めるところによる」としている。事務次官の定めは秘密文書とされている。これにより日米間(日韓、日台間その他も含まれるであろう)の秘密情報資料の交換がなされているわけである。庁秘訓令に刑特法上の機密について特段の規定がないのは、それを知得するメンバーが極めて限定されているからであるともいわれている。p43

 安保条約とならんでMSA協定もまた、安保体制下の軍事機密を大量に生産している。同協定第3条は「各政府は、この協定によって他方の政府が供与する秘密の物件、役務又は情報についてその秘密の漏せつ又はその危険を防止するため、両政府の間で合意する秘密保持の措置を執るものとする」と定めている。これに関して同協定付属書BおよびMSA秘密保護法、ならびに防衛庁の「防衛秘密の保護に関する訓令」が、一連の秘密保護体制を構築していることについては、すでに述べた。また、MSA防衛秘密のうち文書については、70年末現在で「極秘」が27件217点、「秘」が3118件9万0142点あることが、前掲第2表の防衛庁資料で明らかにされている。物件は7~8万点といわれているが、公表されていない。というのは、MSA秘密保護法が、「品目及び数量」を防衛秘密としていることとの関連からであろう。p44
 だが、たとえば「ホークには数十の防衛秘密がある『何と何が防衛秘密であるかも、また秘密』だそうだ」(毎日新聞社編『安保と自衛隊』131ページ)といわれている。MSA秘密保護法適用第1号となった青木日出雄元三等空佐は、『航空情報』誌66年10月号の解説記事中に、F104Jジェット戦闘機の火器管制装置ナサール15Jの能力が出力220キロワット、探知距離40カイリである事実を記載したため取調べを受けたのであった。p44
 対空ミサイル「ホーク」がそうであるように、アメリカから供与される技術情報にもとづいて国産さ
れる近代兵器には、大量の秘密部分が含まれている。その一例として、四次防で第一線に登場しつつある航空自衛隊主力戦闘爆撃機F4EJファントムについてみておこう。航空自衛隊資料によると、その防衛秘密部分は航空機全体、レーダー装置、射撃管制装置に分けて詳細に指定されている。とくに対電子(ECM)、対電子対策(ECCM)関係は「極秘」である(参考資料7)。p44

3 外交機密の生態
底知れぬ外交機密
外務省の秘密文書は、71年度に新たに指定された分だけでも10万件を超え、累積されてきたものの総計は150万件に達する。各省庁のなかでも群を抜き、防衛庁の2倍近くもあるのである。中枢部分は、主として安保体制の秘密にかかわるものであろう。71年度分の内訳は、
機密?                電信 66、881
   極秘  40、673           公信 27、362        
   秘    59、915           調書 6、345
計    100、588件

と発表されている。だが、詳細はいっさい秘密の扉の中に隠されている。沖縄密約問題を契機に衆参両院で何回となく、この問題が取り上げられたが、まったくラチがあかなかった。参院法務委員会は秘密理事会まで開いたが、この席においても外務省は、 「機密保全に関する規則」についてすら説明しなかった。 「この間の秘密会でも外務省は、この文書取扱い規則といえども、ムニャムニャムニャムニャということでございます」(参院法務委72・6・6、野々山一三議員の発言) といった調子で逃げてしまった。わずかに行なわれた答弁でさえ、以下にみるように矛盾に満ちたもので、とうていまともに受けとるわけにはいかないのである。p45
 まず秘密区分についてみると、内閣官房資料(前掲第3表33ページ)では、「機密」の区分がないとされている。しかし実際にはある。佐藤外務省官房長はいう。「私のところは『極秘』と『秘』だけしかつくっておりません。『機密』という区分もございますが、『機密』という区分にしている文書はいまのところ1つもございません」(参院法務委72・4・20)。すなわち規則上は「機密」の区分があるのである。果たしてそれに指定された文書が、いわれるように存在しないのかどうか。p46
 1941年2月4日、国防保安法が帝国議会で審議されたとき、衆院国防保安法案委員会で政府委員大竹武七郎司法書記官は、こう答弁している。「国家機密ノ中ニハ、其ノ存在スルコト自体ハ公表サレナイケレドモ事実上、世間二分ルトイフヤウナモノモアリマス。併シ又一面二、存在自体ヲ秘匿シナケレバナラナイ、例ヘバ秘密内容ハ勿論、其ノ秘密ノ存在自体サヘモ秘匿シナケレバナラナイト云フニ種ガアリマス」。p46
 最高機密は、その存在自体さえ秘匿されるのである。これは現在もそうである。70年3月18日の衆院予算委第2分科会で、島田防衛庁官房長は 「『機密』の文書につきまして、どういう件名の機密文書があるかということは、これはやはり防衛の基本に関する問題に関連いたしますので、そういう意味におきまして、 やはりこれを外へ出すということは適当でないというふうに判断をするわけでございます」と述べ、「機密」区分の文書について題名を明らかにせよとの要求を拒否している。防衛庁は件名はじめさないが、件数、点数は発表している。外務省は件数までも秘密にしているのではないか、という疑惑が生じるのも当然である。いずれにせよ、内閣官房の資料がおざなりであることは確かといえよう。p46
 外務省の秘密文書は、電信、公信、調書に区分されている。その内容は明らかにされていないが、電信は在外公館から本省にあてた報告、暴露された沖縄密約電信のような情報伝達などが含まれていよう.。だが、こうしたものは、それほど重要な秘密ではない。在外公館からの電信は、すべて「秘」以上に指定すると政府は国会で答弁している(参院法務委72・6・6、竹下官房長官)。「在外公館は、現地新聞の記事を焼直して報告書に仕立てるのだが、これも秘扱いだし、レセプションに出席する場合の服装の注意まで秘印を押していることもあった」(『朝日新聞』72・4・9)。
こういう秘密体質にとどまるなら笑話ですむかもしれない。それはともかく、沖縄密約電信でさえ、国民には隠さねばならなかったが、アメリカにたいして秘匿しなければならぬものではなかった。その「対象事項は、沖縄返還にかんする対米交渉のかけひきの上で秘匿を要する性質のものではまったくなかったこと。たとえば、交渉者への本国政府からの訓電等とはその性質をことにしており、交渉の相手方に知られてもなんら支障のないものであった」(稲本洋之助「沖縄と報道の危機」、『別冊経済評論 裁かれる日本』335ページ)のである。p47
 より高度の秘密性をもつ訓令が、分類中の「公信」に入るのであろう。「調書」とは分析報告などであろう。たとえば、いわゆる外務省スパイ事件1審判決(東京地裁68・10・18)において、外務省職員が朝鮮人商工連合会商工新聞社記者に交付したとされている「第10回共産圏情報担当官会議資料(秘)」、「東欧情報―近東問題に対するソ連の動向(秘)」、「第8回東欧大使会議議事録(極秘)」 (『判例時報』543号)の類であろう。安保体制の深部に秘められた秘密取決め、合意議事録、了解覚書などが果たして「調書」類のなかに含まれているのか、すべてが「極秘」以下で「機密」はないのか、などは究明していべき問題点といえよう。 p47
暗号電報の仕組み
外務当局は、「機密保全に関する規則」を公表できないのは、「暗号の取扱いをどうするかという部分があるのです。それにまた類した案件がありまして、これは各省と非常に違う点であり・・・・そういうようなことでこれを公開をするということがむずかしいのです」(参院法務委72・6・6、福田外相答弁)と説明している。ところが同じ規則について竹下官房長官はいう。「私は実はざっくばらんに申しまして、いわゆる暗号電報の内容が入っておるから秘密であると、こういうふに理解をしておったのであります。ところが、昨日来調査いたしてみますと、いわゆる暗号電報の問題はまた別の扱いになっておりまして・・・」(参院決算委72・4・12)。同じ規則が、読む人によってこうも違のである。規則の条文が勝手に出たり入ったりしているのであろうか。まさに霞ケ関の怪談である。p48
 竹下長官のほうが、まだしもまじめに答弁していると判断すべきであろう。福田赳夫という人物は、官僚のミイラのように醜悪である。前掲東京地裁判決文は、「外務省においては、秘密指定の手続につき、その秘密文書取扱規程および官房長文回章等により『極秘』、『秘』等の指定基準、その指定および解除の決定者、様式、方法など詳細に定めており、特に秘密電信文については、暗号保護の見地等から一層高度の秘密性を保持するため、特別の配慮がなされているほか、ほぼ右規程に準ずる手続が定められていて・・・・」(『判例時報』543号90ページ)と述べている。やはり竹下答弁にいわれているようなシステムなのである。p48
 ここで、暗号について簡単に述べておこう。70年9月、中曽根防衛庁長官が訪米したさい、ワシントンで行なった外人記者との会見内容が「極秘」電信で外務省に送られてきたという記事(『朝日新聞』72・5・4)があった。事実とすれば噴飯ものだが、日本外務省も、それほど愚かではないだろう。秘密電信は暗号化して打電する。この場合、秘密区分にしたがって暗号の強度を区別するのが常識であろう。現在、暗号解読の技術は高度に発達しており、公知の文献を暗号化すれば、たちまち解読のカギを提供することなる。解読のカギがなくても、大部分の暗号電信はいつか解読できるのであるが、問題は時間にかか
ってくる。即座に解読されたのではお手上げだから、カギをしめすようなヘマなことはしない。p48

 日本で暗号解読作業を実施しているのは自衛隊であって、主として陸幕二部別室が担当している。指揮下の部隊が配置されているのは北海道東恵庭通信所、埼玉県大井通信所、鳥取県美保通信所、福岡県太刀洗通信所などで、いずれも完全な覆面部隊とされていて、公表される基地・部隊名のリストには掲載されていない。後述する「陸上自衛隊第二次防衛力整備計画(極秘)」中に、その拡充新設計画が含まれている(第三篇300ページ参照)。これにより、すでに二次防で大井、東恵庭、稚内、小舟渡、美保の各拡充計画、南九州の新設計画がたてられていたことが判明する。p49
 陸幕二部別室は陸上自衛隊の機関であるが、海空隊員も派遣されておvり、事実上陸海空の統合機関となっている。71年3月現在、航空自衛隊からの派遣要員は、将校32人、下士官94人、兵96人、事務官19人(藤井『自衛隊の作戦計画』215ページの表参照)であり、陸海も合わせて2000人程度の機関であると推定される。これらによって外国の無線通信を傍受し、暗号を解読する活動が日夜つづけられているのである。これを「コミント」(通信情報)作戦という。ソースは外国の通信電波および空中航法、レーダー、ミサイル管制のための電波である。p49
 アメリカは暗号の作成と解読を任務とするNSA(国家安全保障局)を設置し、職員2万人がこれに従事している。その太平洋事務所がおかれているのは、神奈川県の米軍基地「キャンプ淵野辺」である。沖縄のトリイ・ステーションも、その一機関である。NSAの海外における活動は、主として米陸海空軍が受け持つ。日本にはASA(陸軍保全部)が福岡県博多、東千歳とトリイ・ステーションに、NSG(海軍保安グループ)が博多、上瀬谷(神奈川)、波平(沖縄)に、AFSS(空軍保安部隊)が稚内(北海道)、三沢(青森)、博多にそれぞれの基地を設けている。その多くはエリント機能をもつ。つまり電波の内容だけでなく、電子器材の位置、量、方向および種類などをしめす電波特性をも捕捉し分析することができるのである。こうしてアメリカは、日本の地理的条件をあますところなく活用してきた。p50
 これらの基地の多くは、自衛隊にも一部共同使用を認めてきたが、最近は全面的肩代わりを進める傾向にある。日本海、オホーツク海上空を長時間飛行するナゾの定期便―エリント機による情報収集体制が強化されたためという。すでに東千歳、稚内などは、自衛隊に移管されている。p50
 自衛隊以外に、日本には米NSAにひとしい国家情報機関がないのであろうか。外務省が厖大な暗号を使用しているとすれば、暗号および暗号機を開発し、その保全体制を強化するとともに、あわせて外国の通信傍受と暗号解読を任務とする機関が、事実上設置されているのではないかとも考えられる。なぜなら、暗号作成技術は暗号解読技術の高度化に伴って発展するからである。一部には、そうした機関が民間情報機関を偽装して設置されているとの説もある。とすれば、施設は米軍、自衛隊内のものを使用しているのかもしれないが、自衛隊のコミント部隊さえ国民に知られていない現状からすれば、ありえないことではない。外務省や内閣調査室の機密費の行方は、だれも知らないのである。p50
 暗号としてもっとも強度なものは、無限乱数表を使用したものである。この方式によれば、同一乱数を絶対使用しないから解読不可能であり、完全暗号とよばれる。不規則な暗号化数字が無限につづいているので、米軍ではこの乱数表を「トイレット・ペーパー」と呼んでいるという(長田順行『暗号―原理とその世界』による)。これなら乱数表が漏洩しないかぎり、解読される危険はない。高度の外交機密は、この方式で暗号化され、送受信されているのであろう。p50
 一般秘密通信の場合は、暗号機が使用される。普通の文章(平文)をタイプすれば、ただちに暗号化されて発信され、受信先では自動的に平文化されて出てくる。だが、こうしたテレタイプによる高速自動暗号方式は、大量の秘密通信には適しているが、システムさえ解明すれば容易に受信解読できる。もちろんシステムは、つぎつぎに変更していくが、解読可能だからこそアメリカ軍や自衛隊が、巨額の費用と兵力を投入して、コミント作戦に躍起になっているのである。p51
 要するに、暗号には一定時間後には解読可能のものと、まったく不可能のものとの両者しかないわけである。完全暗号を使用したばあいは、サンプルが入手できても解読のカギにならないし、その他のものはおそかれはやかれ解読できるものである。したがって暗号から平文化された文書であるから、それが漏洩すると解読のカギを与えるという理由によって、実質的秘密性を判断するのは (いわゆる外務省スパイ事件1、2審判)、誤りであろう。あらゆる秘密は時間的秘密であるにすぎないとの説は、この点からも肯定しうるのである。

戦争を誘う秘密外交
外交交渉が妥結した場合は条約・協定その他の取決め、関連文書がまとめられる。これらが拘束力をもつ国際合意であることについては、すでに述べたが、交渉過程で交換される文書も、けっして軽視できない。いわゆる「トーキング・ペーパー」である。これには、交渉を進めるに当たって話合いの基礎にするものと、話合いの経過を議事録ふうにまとめたものとの、2種があるとされている。後者はふつう討議メモといわれ、このうち双方が合意したものは合意議事録と呼ばれて、先に述べたように「協定の内容を補充し単なる解釈資料以上の拘束力を有する」のである。p51
 たんに交渉過程で交換されただけの討議資料や討議メモも合意議事録ではないにしろ、条約解釈について行政府の見解をしめす重要な効果をもつ。したがって、安保条約や沖縄返還協定の全体系からみれば、公表されたものは、まさに氷山の一角にすぎない。その下部には、多くの「合意された取極」や交換文書が隠されているのである。p51
 沖縄交渉が最終ラウンドを迎えた69年8月から、東京で事務レベル折衝が開始された。このなかでアメリカ側は、アジアにおける「緊張の予想例」として100~200項目のリストを提示し、それぞれのケースについて日本政府の協力程度を明らかにするよう迫ったと伝えられている。これにたいする応答などが、69年日米共同声明を経て沖縄返還協定につながる日米軍事同盟の新段階を規定しているのである。p52
 71年10月29日の衆院予算委員会で楢崎議員が暴露した「佐藤総理訪米資料(極秘)」は、トーキングペーパの一例である。それは、佐藤首相の第1回訪米時の資料として63年12月に作成され、首相と大統領の会談のためのものと、首相と国務長官の会談のためのものの、2つの部分から構成されていた。その文言の多くは64年1月の佐藤・ジョンソン共同声明と一致しており、まさに共同声明の解釈資料としての意義をもっているのである。このときの共同声明が過去何回かの日米共同声明と異なる最大の点は、日本政府がはじめて公式に琉球および小笠原諸島における「米国の軍事施設が極東の安全のため重要」であることを認めたことにあった。この文言は、沖縄・小笠原に触れた共同声明第11項の冒頭に記されているのである。こうして佐藤内閣による沖縄交渉は、その出発点において米軍基地機能の維持補強を第一義とする枠組を設け、そのもとに進行することになった。トーキングペーパーは、こうした日本政府の姿勢を詳細かつ具体的にしめしている。すなわち、
「(アメリカは)基地の管理、運営を円滑に行ない、ひいて極東の安全を確保していくためには、その住民の協力をうることが不可欠の要件であると思う。以上のような見地から日米相協力して、常に沖縄住民の要望に充分の関心を払い、これを尊重し、その安寧と福祉の向上を図るとともに、基地運営に支障のないかぎり沖縄住民の希求してやまない自由と自治の要請に応じてゆくことが賢明であると考える」。p52
 このような姿勢のもとに、その後具体的に展開されてくる日米支配層の共謀路線が、多くの項目にわたって提起されている。この例にも明らかなように、条約・協定のもつ意味を正確に把握するためには、こうした全体構造を知る必要があるわけである。沖縄交渉に当たった愛知外相は、当時の公電だけでも百数十通あると述べている。これらの「極秘」文書こそ、抽象的な協定に真の内容を与えているのである。p53
 外務省が年間作成する文書は、70年を例にとると電信を含め約35万件、そのうちほぼ20%が「極秘」で、20%が「秘」であるという。これらの秘密が国家公務員法、外務公務員法あるいは刑特法によって守らているのである。71年2月25日の衆院内閣委員会で山中貞則総理府総務長官は、次のようなエピソードを語っている。沖縄で住民の陳情を米側に取りついだところ、話がついて村長から感謝電報がきた。そのあと外務省から回ってきた文書には「どうやら許可になる模様である」とあり、「極秘」となっていた。村長さんの電報と同じものが「外務省を通ったら極秘になるのかいなと思って首をひねったこともあります」というのである。外務官僚は官僚のなかでももっとも特権的・貴族的体質をもっている。それが秘密主義の土壌となっていることも確かだが、外交機密の核心は国の進路、国民の運命を決定するものであることを見失ってはならない。あらゆる帝国主義戦争は秘密外交から生まれたのである。p53

4 自衛隊の機密事項
複雑な内部規範
年間3万件前後が作成され、総点数70万を超える自衛隊の秘密(MSA協定による防衛秘密をのぞく)の実体は、どうなっているのか。この「庁秘」が 、「機密」「極秘」「秘」の3段階に区分され、その基準が庁秘訓令の第5条に示されていることについては既に述べた。だが、訓令に記された基準は、全く抽象的で、基準の名に値しないものにすぎない。国家機密はその範囲や区分基準を具体的に明確に示すことができない。ここから、無限に拡張解釈され、乱用されることになるわけである。とはいえ、官僚がすべて「大体の感じ」だけで機密区分を指定しているのではない。最も厳重に秘匿すべきものが放置されたりしないためにも、また、公務員に対して「秘密を守る義務」を強制するためにも、それなりに厳しい規範を示す必要があるわけである。p54
 防衛庁の場合は、外務省とちがって庁秘訓令を公表している。だがそれは、いわば公表できる部分を集めたものにすぎないのであって、秘匿したい事項は、なにひとつ記載されていない。その第50条は、「この訓令の実施に関し必要な事項は、官房長等が定める」とし、さらに「この訓令により難いときは・・・・長官の許可を得て、特別の定めをすることできる」と規定している。こうしたところにも、公表用にすぎない性格があらわれている。p54
 こうして秘密保全の例規は、陸海空各幕僚長、統幕会議が発する「達」にゆずられている。また、秘匿を要するものは、「秘」扱いの「達」ないし「通達」で定めることにしているのである。「(秘密区分指定の基準について)聞いてみたら、陸幕のほうは別の達でやって、達そのものを秘区分にしているのです。・・・・訓令があって達があって、達のまたその達のようなものがある。こういうようなかっこうになっている」(衆院予算委72・3月8日中谷鉄也議員)のが実情である。事務次官通達のひとつに68年12月5日付の「防防調第3192号―秘密保全に関する訓令及び防衛秘密の保護に関する訓令の一部改正について」がある。これには「官房長等は、そのつかさどる事務のうち、訓令第5条の基準に該当する事項について、秘密区分ごとに分類し、秘密区分の指定の基準を定めておくこと」との指示がなされている。なお、この通達や庁秘訓令に「官房長等」とあるのは、官房長、局長、陸海空幕僚長、統幕事務局長、防衛施設庁長官などをいう。p56
 陸上自衛隊の場合、秘密保全に関する規定としては「秘密保全に関する達」(昭和43年12月19日、陸自達第41-2号)、「陸上幕僚監部情報等業務規則」(陸上幕僚監部達第40-1号)、「暗号等の秘密保全に関する達」(陸自達第44-3号)があり、ほかに、「防衛秘密の保護に関する達」もある。航空自衛隊では、とくに「レーダー内立入制限区域の立入手続に関する達」(昭和35年空自達第52号)が定められている。以上のように、なんとも複雑な構造であるが、このカラクリを分析しなければ、自衛隊の機密構造を全面的に捉えることはできないのである。

正体不明の「機密」
 ここで、防衛庁の文書体系について述べておかなければならないだろう。防衛庁がその所掌事務について発する文書には、告示、訓令、達、行動命令、一般命令、個別命令、日日命令、指示、通達、承認、許可、上申、申請、報告、進達、通知、協議、照会、依頼、回答、諮問、答申などがある。それぞれの形式、内容、相互関係の基本は「防衛庁における文書の形式に関する訓令」に定められている。これについての一覧表を別に掲げておく (参考資料8)。p56
 庁秘訓令にもとづく陸海空幕の達についての検討をすすめよう。これらのうち、秘密区分の基準をしめしているのは、航空幕僚長が1968年11月28日付で定めた「秘密保全に関する達」(空自達第33号)である。その第9条は航空自衛隊における「機密」の基準として、次のように規定している。p56
 第9条
訓令第5条第1号の秘密区分の機密に指定すべき知識又は文書等は次の各号に掲げる基準によるものとする。
(1)航空自衛隊の基本的な方針及び計画のうち、訓令第5条第1号に該当するもの
(2)航空自衛隊の出動(災害派遣を除く。以下同じ)及び出動準備並びにこれらに関連する基本的な計画及び情報で、最高度の秘匿を要するもの
(3)前号に関連する主要部隊の配備計画及び命令
(4)航空自衛隊の出動実力の全容を詳細には握するに足る情報
(5)将来使用されるものを含み、訓令第5条第1号に該当する装備品等及びこれに関する資料又は情報
(6)個々の場合、極秘以下の秘密区分に指定すべきであっても総合編集の結果、前各号の1以上に該当するもの
(7)その他訓令第5条第1号に照らし、機密に指定すること適当とめらるもの。
この規定自体も、なお抽象的ではあるが、訓令にいう「秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるもの」が、なにをさすかの輪廓はしめされている。それは主として防衛出動・治安出動に関する計画と情報、最新秘密兵器に関する資料・情報なのである。その具体的な件名は、国会でも明らかにされていない。恵庭裁判において田中元統幕事務局長も、「『機密』というのは、例えばどんなものがありますか」との問いにたいし、「これはちょっと、許可を得ないと申し上げかねます」と証言を拒否している。(第18回公判65・5・27)。
 防衛当局が国会で明らかにした最大限のものは、こうである。「『機密』文書 につきまして一例を申し上げますと、毎年毎年つくりますところの防衛計画の基本に関するもの、あるいは暗号の基本に関するもの、こういうものが『機密』文書になって、おるわけでございましてその一つ一つにつきましてここで申し上げるということは、必ずしも適当でないというふうに考えます」(衆院予算委第2分科会70・3・18、島田防衛庁官房長)。暗号については空自達の基準に全く出てこない。これは別個に秘密文書としての例規が定められているためである。その秘密区分は、「送信や解読に使うひとつひとつの暗号書(乱数表)は『極秘』で、その暗号書ナンバーを集めたものは最高度の『機密』という」(『毎日新聞』68・3・18)
 川崎一佐事件の第1審判決で「機密」にあたるとされたのは、「3次防地上通信電子計画概要(案)」のなかの特定情報回線の部分であった。それは「司令部と部隊とにおける情報伝達の回線設置計画が示され、設置の場所、年度別計画記載されて、航空自衛隊がある地点で情報関係の収集をやっているという状態を暴露するもので高度の機密性がある」とされ、空自達第9条の7号に該当するものといわれている。通電案自体には「秘」の指定がされていただけだが、内容の一部に「機密」に該当するものがあったわけで、関係者のミスということになる。ともあれ、情報収集は高度の秘密であって、先に述べた通信情報部隊などが、これに含まれるわけである。p58
「極秘」の指定基準
「機密」に指定されている個々の文書を摘示するのは第2篇の課題として、次に「極秘」の指定基準として空自達がしめしているものをみよう。それは次の12項目にわたっている。
第10条 訓令第5条第2号の秘密区分の極秘に指定すべき知識又は文書等は次の各号に掲げる基準によるものとする。
(1)航空自衛隊の出動及び出動準備に関連する基本的な計画及び情報で、秘匿を要するもの
(2)出動部隊の行動の詳細及び命令
(3)出動地域における出動部隊の編制装備、移動及び士気並びにこれらに関連する情報で秘匿を要するもの
(4)出動のための編制及び装備のうち航空自衛隊全般に関するもの
(5)出動部隊の輸送、通信連絡及び補給等の計画、命令、報告のうち訓令第5条第2号に該当するもの
(6)業務計画で訓令第5条第2号に該当するもの
(7)長期及び中期の各種見積のうち訓令第5条第2号に該当するもの
(8)将来使用されるものを含み、訓令第5条第2号に該当する装備品等及びこれらに関する資料又は情報
(9)技術開発に関する計画で、訓令第5条第2号に該当するもの
(10)秘匿略号及び隠語表で訓令第5条第2号に該当するもの
(11)個々の場合、秘の秘密区分に指定すべきもの又は秘密区分の指定を要しないものであっても総合編集の結果、前各号の1以上に該当するもの
(12)その他訓令第5条第2号に照らし極秘に指定することが適当であると認められるもの
 右基準によって明らかとなる2、3の問題をしめしておこう。無条件に「極秘」に指定されるものは、防衛・治安出動部隊の行動の詳細および命令、出動のための編制および装備で航空自衛隊全般に関するものなどである。また、出動および出動準備に関連する基本的な計画および情報は公表されるもの以外、すべて「極秘」以上に区分される。長期および中期の見積(たとえば戦略見積など)、技術開発に関する計画、装備品等およびこれに関する資料・情報なども、「極秘」に指定される場合があることは注目していい。これを総括すれば、作戦用兵関係はすべて「極秘」以上であり、防衛力整備関係は重要なものが「極秘」、その他大部分は後に述べるように「秘」に指定されるということである。p59

米軍のシークレット
自衛隊の創設・育成者として、つねに悪しき教訓を与えてきた米軍の場合はどうか。米陸
軍の管理訓練について公式の方針および規則をしめした陸軍規定((Army Regulation)が大統領行政命令にもとづくクラシフィケーションの準拠を明らかにしている。「トップ シークレット」に分類されるのは、たとえば次のような文書である。
①戦争の全体的指揮についてしるした戦略計画
②世界的規模での戦争指導計画
(a)計画のデータと設想
(b)核兵器使用の戦時計画要因
(c)敵戦力についての情報見積
(d)戦力の配備と展開
(e)数ヵ月にわたる時間相での実際所要量と施設の地理的位置
③単一の作戦計画または一連の複合作戦計画であって、②のファクターのいくつかと、出撃率、作戦開始日・完了日を含んでいるもの
④合衆国側の主要な情報活動の成果を明らかにするに十分な情報を含み、米国情報機関によって成し遂げられた成功、あるいはその能力を評価できるような情報文書
⑤核兵器、原子兵器など最新かつ極めて重要な装備に関する情報、など。
「シークレット」に区分されるのは、①「トップ・シークレット」に該当しない戦争指導計画、②その他の軍事上の計画、③交戦中の部隊の編組、識別、位置、①秘匿すべき情報資料、⑤直接的軍事利用が国防上重大な意味をもつ科学技術の進歩、⑥通信保全方策、⑦暗号資料、③重要な装備品の欠乏など弱点を表示したもの、などである。こうしてすべての戦争計画とスパイ謀略活動が軍事機密とされているのである。p60
 なお、1954年原子力法は、その第11条W項において、同法にいう機密資料とは①原子兵器の設計、製造または利用、②特殊核物質の生産、③エネルギーを生産するための特殊核物質の利用、に係るすべての資料をいう、と包括的に規定したうえ、第142条において、原子力委員会が「国家の防衛と安全保障に不当な危険を与えることなく公開できる」と判断したものについてのみ個別に機密を解除していく旨定めている。こうして例外的なものをのぞき全面的に機密資料とされているものについて、漏洩、収集、改ざん等をしたものにたいし、同法第18章は苛酷な罰則を規定しているのである。軍事機密は本来、無限界性をもち、戦争遂行能力が強化発展するにともない、機密事項の範囲が拡がり保全措置が厳しくなるわけだが、窮極兵器としての核兵器において、ついにその極限に到達するわけである。p60
5 「秘」の性格と内容
すべての文書が「秘」
71年6月24日、アメリカの下院政府活動委員会の分科委員会で証言に立ったフローレンス前米国防次官補代理は、ペンタゴンには少なくみても2000万件の秘密文書があるが、そのうち99.5%は最低限の秘密扱いの必要さえもないものであると述べている。証言によれば、ペンタゴンでは秘密区分の指定が軍機保持の目的から離れて日常茶飯事になっているという。秘密主義はあらゆる軍隊の属性であるわけだ。p61
 自衛隊も全く変わらない。その実態について検討をすすめよう。前記航空自衛隊の「秘密保全に関する達」は、「秘」の指定基準として次の19項目をしめしている。
第11条 訓令第5条第3項の秘密区分の秘に指定すべき知識又は文書等は、次の各号の基準 によるものとする
(1)平常時における航空自衛隊の部隊行動、配備計画及び主要補給品、施設等の配置計画並びにこれらに伴う命令、報告等で秘匿を要するもの
(2)平常時における部隊の移動計画、補給品、装備品の配分若しくは輸送の計画又はこれらに関する命令、報告等で秘匿を要するもの
(3)航空自衛隊の出動実力の一部をは握するに足る情報
(4)年度の各種見積で秘置を要するもの
(5)通例の情報報告書
(6)部隊行動の結果得た教訓で秘匿を要するもの
(7)教範又は技術上の取扱書等で秘匿を要するもの
(8)訓練の計画及びその成果で秘匿を要するもの
(9)将来使用さるものを含み、訓令第5条第3号に該当する装備品等並びにこれらに関する資料又は情報
(10)技術開発に関する計画のうち、極秘に該当しないが秘匿を要するもの
(11)予算に関する書類で秘匿を要するもの
(12)業務計画のうち、極秘に該当しないが秘匿を要するもの
(13)各種物件の調達計画で秘匿を要するもの
(14)編制及び装備のうち、極秘に該当しないが秘匿を要するもの
(15)衛生関係の統計資料で、秘匿を要するもの
(16)秘匿略号及び隠語表で極秘に該当しないもの
(17)調査及び秘密保全に関連する文書及び図画で秘匿を要するもの
(18)個々の場合、秘密区分の指定を要しないものであっても、総合編集の結果前各号の1以上に該当するもの
(19)その他訓令第5条第3号に照らし秘に指定することが適当であると認められるもの
「機密」から「秘」にいたる38項日におよぶ基準を検討するなら、自衛隊の基本的文書は、すべて秘密区分の指定を受けているといってよい。これに「取扱注意」を入れると、事実そういうことになる。むしろ秘密でないものの基準をしめしたほうが簡明であろうと“提言 ”したくなるのである。p62
「秘」区分の基準のうち重要なものを指摘しておこう。これに属するものは、主として平常時の行動、計画である。秘匿略号および隠語表はすべて「極秘」または「秘」に指定される。情報報告書は通例のものが「秘」、特別のものは「極秘」である。年度業務計画は「極秘」または「秘」に指定される部分と、その他(「取扱注意」)の部分に分かれる。予算関係書類にさえも「秘」区分のものがあり、年度の各種見積、教範類についてもそうである。p62
「秘」は公知の事実
川崎一佐事件の第1審判決文から、実質的にも「秘」にあたると判示された記載事項の具体例と、その理由を紹介しておこう。自衛隊の秘密の実体と、その秘密主義的体質をしめす貴重な資料であるから、該当条項ごとに整理しつつ、全部を掲出することにしたい。空自達第11条1号(平常時における部隊行動、配備計画など)にあたるとされた秘密は、
(1)レーダー改換表(3次防中に改換装される24個のレーダーの位置、改装する種類が記載され、日本の防空能力の現状、弱点わかる)
(2)AEW機(早期警戒機)用地上通電設備(AEW機に関する地上通信のための設備をするポジションとその内容が記載されている)
(3)対空通信強化(バッジ・システム〔自動警戒管制指揮組織〕における滞空している飛行機と地上局との間の対空送信装置〔GAT〕、対空受信装置〔1GAG〕を設置する地点と設備の内容が記載されていて、バッジの弱点がわかる)
(4)通信電子戦(ECCM〔電波妨害対抗装置〕を付加するレーダーの年度別の記載があり、弱点を暴露し将来の能力増をうかがいしることができる)
(5)年度別基幹部隊整備計画(廃止になる部隊、新設される部隊、保有すべき機種を時期的に明らかにする線表がある)
(6)42年度主要部隊編成配置計画 ((5)によってしめされたものの関連で、それがどこにあるか年度ごとに明瞭にしめす表がある)
空自達第11条3号(航空自衛隊の出動実力の一部を把握するに足る情報)に該当するものは、
(7)防空作戦能力(防空作戦に関する問題点として、撃墜率の具体的数字、F104戦闘機の弱点、ナイキの対空誘導弾の弱点が記載されている)
(8)現有防衛力の問題点中のその他(弾薬の不足について、数字をあげてはいないが、その種類、区分をいっている)
(9)弾薬の備蓄 (弾薬の各年度の取得数量が記載され、あわせて3次防末における弾薬の備蓄について言及している)
(10)防衛力整備の重点項目(F104戦闘機につける機能、新戦闘機についての基本的な考え方、ナイキの増強、新しいレーダーの採用、弾薬の備蓄などが記載されている)
(11)バッジの現組織の完成時における能力、用法、問題点ならびに3次防における整備目標 (昭和42年度末に建設が終るバッジの処理能力、すなわちレーダーに写ったものを主に計算機を使用して分析し、敵味方を判別し、敵機を迎撃する戦闘機をコントロールする能力、地区別の能力が数字で記載されている)
(12)防空組織(バッジ、要撃機、対空ミサイル)の運用要領とその能力(3次防末における迎撃機、戦闘機の数、対空ミサイルの数、それらの運用関係、撃墜率などの記載があり、とくに後者についてはwargameによる相当詳細な数字がしめされている)
(13)弾薬の整備(F104戦闘機の搭載弾薬、ナイキの弾丸について、3次防末までに取得することを要する数量の記載が年度別に具体的数字をもって示されている)
(14)要員の充足 (バッジ操作員、バッジ整備員のそれぞれの要員充足見積表があり、昭和41年以降昭和44年までの間の毎年4半期ごとにバッジ操作員、バッジ整備員の養成されていく数が示されて、バッジの能力が判断される資料がある)
(15)自動運用に必要な部隊練成訓練 (昭和41年度から昭和43年度までの間における各方面隊ごとの機材の運用能力、バッジの運用能力を知りうる表があり、これを見ればわが方の機材の運用能力が判断される)
(16)F104Jの可動率の見通し見積(昭和41年度から昭和43年度までの間における各航空団ごとのF104J戦闘機の可動率が数字でしめされており、これはこの国の秘密の一番大きな対象となっている)
(17)行動用資材の取得配分(昭和42年度において取得し配分する弾丸その他行動用資材の数量を数字でしめす表がある)
(18)高射部隊の建設構想 (高射部隊の設置場所、時期、規模をしめす表、その部隊展開にいたるまでの用地取得、施設工事の概要、養成するナイキ操作員を数字でしめす表がある)
(19)航空弾薬整備計画(備蓄弾薬類の取得計画AAM〔空対空ミサイル〕取得計画、訓練用航空弾薬使用計画、落下タンク備蓄計画などの、いざという場合の実力の一部を把握するに足る資料がある)
(20)ナイキミサイル整備計画(昭和47年度までの年度ごとの取得数が記載されている)
(21)地上火器用弾薬整備計画(航空機に搭載しない小銃、機関銃の弾薬の年度別備蓄、取得計画、訓用使用計画など) p65

 次に空自達第11条9号(装備品ならにこれらに関する資料または情報)に該当するものは、
(22)防空作戦能力 (F104戦闘機に付与したい機能、将来取得する戦闘機の選定条件、ナイキ部隊の増強と装備の改善、新レーダーの装備についての記載があり、これにより、わが方の弱点ないし今後の装備の方向も判明する)
(23)通信および電子戦能力 (ECCM能力をつけるレーダーの種類の記載がある)
(24)通信電子計画(ECCM能力をつけるレーダーの種類と新しいレーダーの取得についての記載がある)
(25)その他(F104戦闘機につける機能のことと新戦闘機の条件を含めて、3次防期間中に取得する航空機のことが数字でしめされている)
(26)ナイキ部隊整備計画(3次防期間中に増強するナイキ部隊の編成時期、場所、ナイキハーキュリーズに改変することが記載されている)
(27)戦闘機の整備について(F104戦闘機に付与する機能、新戦闘機の必要性、時期、数量が記載されている)

空自達第11条10号(技術開発計画)に該当するのは、
(28)研究開発計画(F104戦闘機につける機能のこと、どういう対空誘導弾にするかという研究、電子戦についての研究が記載されている)
空自達第11条21一号 (改正によって現行達前記19号となる―秘に指定することが適当であると認められるもの)にあたるのは、
(29)防衛力整備の方針(第3次防衛力整備期間中の整備についての基本的な考え方が記載され、防衛力整備の方向を示すもの)
(30)情報能力(3次防期間における情報機関に増強する2つの機能に関する記載がある)
(31)主要部隊整備計画および部隊配置 (航空機をもっている部隊、ナイキ部隊などの編成、廃止、移動の一覧表がある)
(32)防衛力整備の基本方針(どういう事態に対処する防衛力を考えるかということと5年間の整備についての基本的な考え方が記載されている)
(33)兵器からみた外国の航空攻撃能力およびわが防空能力の進歩発展の見通し(3次防末における将来の航空機およびミサイルの進歩の見通しとの関連で撃墜率に触れ、新戦闘機の必要性が記載されている) p66
以上が航空自衛隊の「秘」文書である「3次防地上通信電子計画概要(案)、「昭和42年度航空自衛隊業務計画説明資料(第1分冊と、「第3次防衛力整備計画について」、「第3次航空防衛力整備計画の概要」中の秘密事項だというのである。だが、ここにもっともらしく掲げられている事項の大部分は、軍事問題研究家にとっては公知の事実なのである。MSA秘密保護法が参院法務委員会に付託され、54年4 月27日公聴会が開かれたさい、かつて司法書記官として国防保安法の立案に参画した大竹武七郎氏は、同法案中秘密の要件とされている「公になっていないもの」という言葉が不明確であり、どの程度知られていれば公になっているものと解すべきかが問題であると指摘し、軍機保護法の苦い経験に立って乱用のおそれを強く戒めたのであった。p66
 漏洩された文書中の個々の具体的数字なども、基地の外から見れば分かる程度のものがほとんどである。計画の方向やその具体的内容についても、たとえば自衛隊が仮想敵国と考えているソ連などにとっては容易に分析しうるものであり、誤差が生じたとしても本質的意味をもつほどのものでないことは常識的に理解できるだろう。では、これらの文書にいかなる意味があったのか。それは事業計画を事前に知ることによって装備・資材の売込みを有利にするうえでは大いに役だつものあった。だからこそ、川崎一佐はヒューズと伊藤忠に手渡したのである。いわば入札予定価格と同質の秘密であった。

モザイク理論の登場
 だが、こうしたもののほかに、なんとしても秘匿しなけれならないと彼ら考えている高度の軍事機密が現実に存在していることも事実である。その1つは「国土防衛」の枠を超えた攻撃用装備とその運用構想である。それは奇襲戦略の利点を確保するために徹底的に秘匿しなければならないし、なにより国民に知らせるわけにはいかない。いま1つは諜報関係の分野である。攻撃対象の手の内を、どの程度読んでいるかは絶対に知らせるわにはいかないのである。つまり、高度の秘密とは「国民的合意」の許容限界を全く逸脱した、よこしまな意図をしめすものか、そのための具体的な活動内容なのである。その他のものは公になっているか、軍事的意義からすれば取るにたりないもの、あるいは利権の対象になるものである。自衛隊の秘密を認める立場からしても、フローレンス前米国防次官補代理のいうように99・5%、すくなくとも秘密区分「秘」は全部公開せよと主張すべきであろう。
p67 
 また、空自達に 「総合編集」の結果が秘密になるという、いわゆるモザイク理論が姿を見せているのも問題である。西ドイツでは「それ自体は公表されている事実であっても、それを体系的に編集し充分に総合することによって得られた国家の重要な軍事能力の正確な叙述は国家機密たりうる」という連邦裁判所の判決があったが、1962年、NATOの演習「ファレックス62」の内容を暴露した雑誌『シュピーゲル』事件に関する連邦憲法裁判所判決(66・8・5)では、「すでに知られているか、あるいは一般に知りうる状態にある個々の事実を体系的に総合して、国防の重要な要素の正確な全体像を構成したばあいにも国家機密の漏洩があるとする理論は認められない」との意見が半数の裁判官から出され、憲法訴願自体は却下されたがモザイク理論は出版の自由に反するとして認められなかった。(石村善治「報道の自由と国家機密」、『法律時報』71年9月号および野中俊彦「西ドイツ―連邦憲法裁判所判例を中心として」、『ジュリスト』72・6・15)。p68
 ヒトラーはモザイクによってナチスドイツの国防能力を分析した人物を投獄したという。国防保安法も同様であった。同法第8条の情報に関する罪は、「或問題に関し新聞雑誌其の他の出版物に掲載されてゐるところをそのまま、又はこれを集めて綜合して結論を出し」た場合をも対象としていた(大竹武七郎『国防保安法』149ページ)。そういうことになれば、さしずめ私の分析作業なども弾圧の標的となるかもしれない。もちろん現在の法制では、直接に秘密保護法令違反の対象にはならない。だが、自衛隊の内部規定に、すでにモザイク理論が存在するとすれば、いつ全国民を拘束する法律になるかもしれない。
軍国主義の原型は、つねに軍隊内に生まれるのである。ともあれ、「個々の場合、秘密区分の指定を要しないもの」は、どれほ多く総合しても秘密にはならない。それは民主主義のイロハである。分析総合は学問と表現の自由にもとづき、自衛隊員をも含めて完全に保障されなければならないのである。p68
 陸上自衛隊においても、「秘密保全に関する達」が定められている。このなかでとくに注目すべきものは、秘密保全の観点からの部外者の取扱規定である。同達第39条は、「通常部外者への公開、展示及び説明等を行なわない」施設として、次のものを挙げている。
(1)沿岸監視の施設
(2)秘密文書等の保管容器及び保管施設等
(3)弾・火薬、燃料類の貯蔵施設
(4)秘密の武器等を使用する訓練、演習等の行なわれている場所
(5)秘密の物件の実験施設等
(6)特殊の訓練、演習等の行なわれている場所
(7)作戦、情報及び通信関係施設p69
 庁秘訓令第20条は、「秘密の知識又は文書、図画若しくは物件が取扱われ、又は設置されている場所」についての立入禁止を規定し、その旨掲示されたところへは隊員といえども許可なしには立入りできない。この場合は個別に指定されるわけだが、陸自達は一般的に部外者への公開禁止を定めているのである。p69

第3章 秘密保全の機構と体制
秘密保全のシステム
厳重な保管体制
 外務省の「極秘」電文が暴露された直後、防衛庁はあわてて秘密保全講習会を開いた。集められたのは内局の文書係など約50人だが、そのうち7割は女子職員だった。「記者とナイトクラブヘ出入りしてはいけません」といった面白い話はひとつもなく、「法律、訓令の堅い話ばかりでつまんなかったわ―」とは彼女たちの感想であった(『朝日新聞』72・4・7)。秘密保全制度は訓令、内訓、達、「秘」達、通達などを積み重ね、アリの這い込む隙間もない防壁を築いている。内局には女性も多いが、陸海空幕の機密文書保管金庫には、制服の不寝番が立っているという。p70

 秘密に関与する範囲は、きびしく限定されている。その1は当該秘密事項の起案、運用、調査研究を命ぜられたもので、これを「取扱者」という。その2は、秘密に関する事務を取り扱う職制で、内局、各幕の課長以上、部隊では中隊長(陸)、航空隊長(空)等以上のもの、これを「管理者」という。その3は、管理者の指定により秘密文書等の管理を担当する准尉以上のもの、これを「保全責任者」という。だいたい以上を「関係職員」といい、この範囲以外の者に「職務上知ることのできた秘密」を漏らしてはならないとされている(庁秘訓令第6条)。保全責任者の補助者が設けられるときもあるが、補助者は 「関係職員ではないので、秘密内容に積極的に関与することは許されない」(次官通達)。p71

秘匿すべき文書、図画、物件に一定の秘密区分を付与する指定者は、段階的に定められている。「機密」については内局の官房長、局長、各幕僚長など、「極秘」については陸では師団長以上、空では航空団司令以上であるが、「秘」はさきに述べた管理者以上なら、だれでも指定できる。「取扱注意」にいたってはじつに多く、将校クラスが管理者から指定権を与えられる。防衛庁以外の省庁もこれと同じで、本庁だけでも合計2128人にのぼる課長クラス以上が指定権をもっている。これに外局、陸、海、空自衛隊などをふくめると、「取扱注意」をのぞき4000人程度になるだろう。p71

アメリカの場合は、行政命令により47人の各省長等に指定権が与えられ、うち34人は下級への権限委譲を認められており、合わせて千単位にのぼるという。それにしても日本はとくべつ指定権者が多く、この点は公明党などが国会で追及している。秘密主義の一因となっているからである。p71
 秘密文書の保管も、ますます厳重になってきている。陸上自衛隊「秘密保全に関する達」は、「機密」および 「極秘」の文書等は、3段式以上の文字盤付き鋼鉄製金庫、特殊書庫、耐火キャビネットの中に保管するよう定めており、庁秘訓令よりも厳しくなっている。文字盤カギは毎年2回以上、組合せを変更しなければならない。保管関係者が代わったときも同様である。開閉には2人以上の将校が立ち会うことになっている。「秘」および「取扱注意」は、カギのかかる鋼鉄製の箱に収める。p71

暗号書の保管について、航空自衛隊 「秘密保全に関する達」は、3段式以上の文字盤カギのかかる鋼鉄製金庫としているほか、暗号機、暗号書を取り扱う室は、窓に鉄格子と金網をつけ、曇リガラスを入れ、出入口には全金属性扉をつけ、さらに受付窓をつくるよう定めており、まさに監獄なみの厳重さである。統幕、各幕から各種司令部施設にいたるまで、オペレーション・ルームなど重要施設は、すべて立入禁止措置がとられている。表示がなく、正体不明の室や建物も多い。p72
 基地の内部で保全措置がとられているだけではない。沿岸監視部隊やレーダー基地、通信情報部隊などは、基地周辺に近づく一般住民まで規制している。数年前、青森県むつ市の釜臥山で観光客が自衛隊員により写真撮影を差し止められている事実が表面化した。山頂のレーダー基地(空自第42警戒群)に、「機密機械がたくさんあるから」というのである。軍機保護法は軍港、砲台、飛行場、軍需工場などの撮影、スケッチを禁じていた(遅反者は7年以下の懲役)。現在は全く法的根拠がない。やはり機密保護法制定のまえに、既成事実化が先行しているのである。海上自衛隊が津軽海峡で行なっているソナー(聴音機)による通峡監視作戦を受けもつ竜飛(青森県)、白神(北海道)などでも、撮影を規制している。p72
 
文書の場合、「極秘」以上は赤表紙を用いる。秘密区分は通常、縦1.8 センチ、横3.6センチの標記をつけてしめす。この表示自体を秘匿する必要があるときは、数字などでしめすことになっている(陸自教範『野外幕僚勤務』)。秘密の内容が少しでも含まれている文書は、全体について、もっとも高度の秘密区分を指定する(次官通達)。区分ごとに別冊にする場合はすくない。秘密区分を指定された文書は「秘密登録簿」に記載され、配布については「秘密作成配布簿」「秘密接受保管簿」に記録される。これらの簿冊自体「秘」ないし「取扱注意」に指定され、陸自の場合5年ないし10年、空自の場合20年ないし永久保存とされている。

送達についても、こと細かな規定がある。空自達によれば「機密」は将校または同等の地位にある事務官が携行し、1名以上の護衛隊員が同行する。暗号書、暗号機も同様である。 「極秘」は幹部による携行送達を原則とする。ただし護衛隊員はつかない。特命ある場合は第一種書留郵便による送達が認められる。「秘」は管理者の指定する隊員による携行、指示あるときは書留送達が許される。製作を外部に発注するときは、自衛隊の監督者が常駐する。p73



局限された「知る必要」
かくも厳重かつ広範に保全措置がとられている文書等が、いったいどのように利用されるのであろうか。貸出しは管理者の承認を要し、「極秘」以上については閲覧場所が指定さ
れる。「秘」についても当日限りである(陸・空達)。「極秘」以上を勤務時間外にわたり使用するときは、特別の立会人がつく。基地外への持出しは原則として禁じられている。
 だれに、なにを閲覧させるかの基準はあるのか、庁秘訓令が「関係職員」に限定している以外、具体的な規定は見当たらない。各省庁のものでは、法務省の「秘密文書等取扱規程」が「秘密事項は職務の上下にかかわらず、公務上必要な場合に限り知ることができる」(第7第2頑)と定めているのが目につく。科学技術庁「文書取扱規程」は、秘密区分とに許可権者がちがう。「機密」は主管局課の長および総務課長、「極秘」は主管局課の長、「秘」は主管課長の許可を要する。だが、許可を与えるさいの基準はない。p73


 航空自衛隊では防衛秘密に関し、空幕長から関係職員に「秘密保護適格証明書」を発給している。それには、取り扱いうる最高秘密区分がしめされる。いわゆるセキュリティ・クリアランスである.だが許可証をもっている者は、許された秘密区分以下ならなんでも見れるというわけではない。それを「知る必要」のあることが、確証できる場合に限られるのである。航空教育隊『教程』中には、「隊員は職務及び階級の上下にかかわらず、公務上必要なときに限り秘密事項を知ることができる」とある。おそらく秘密の達ないし通達にこうした詳細な定めがあるのであろう。p73

 これを「知る必要(meed-to-know)」の原則という。それを認定するのは、現にその機密資料を管理している者である。長官や次官でも勝手に見るわけにはいかない。米国防総省が発行した『極秘情報保護のための産業保全便覧』(66・3・1)は、これについて次のように述べている。
「『知る必要の有無』―これは当該極秘情報を開示する可否についての基準を端的に示す言葉である。すなわちこの言葉は国防のために国防省によって認可された極秘契約または計画を遂行するうえで絶対に必要な作業または職務を行なうために、ある者がその極秘情報に接し、それを理解する必要性を有するかどうかについての決定基準を示すものであり、この決定を行なうのはその作業または職務に含まれる情報を現に所有し、理解し、管理している者であって将来において当該情報を受領または取得する者がそれを行なってはならない」(ワース・ウェイド、小西基弘『機密管理マニュアル』192ページ)。p74

 この原則は、自衛隊においても同様に適用されているであろう。なおクリアランスについてもアメリカでは各種の段階が設けられている。自衛隊がどの程度これを導入しているかはともかく、秘密保全体制の現状と将来を分析するに役だつであろうから紹介しておく。アメリカでは秘密資料に接近するクリアランスの最高のものに「Q」という記号がつられている。しかし、それがなにかは知られていない。「当局者は、この種別に含まれている事柄がなんであるかが秘密であって、簡単に口にすることさえ許されないといっている。また『Q』よりもさらに高度にランクされているクリアランスがあるのかどうかについても政府当局者は秘密保持の見地から答えられないという」(『u・S・ニューズ・アンドワールド・リポート』71・7・5)。p74

「Q」よりも下にランクされている「トップ・シークレット」のクリアランスについては、「だれが、なにを知る必要があるのか」を基準として、情報のタイプに応じて与えられている。たとえば、戦略兵器制限交渉に当たっている人物であれば、これに関連する資料には接近できるが、他の分野の作戦計画等の機密文書は見ることができない。p74

日本だけの無期限秘密

ところで、このように厳重な保全措置をとっている秘密文書は、永久に公表されないのであろうか。外務省の文書には「無期限」と指定されたものが多い。65年から71年までの7年間に、外務省で秘密扱いを解除された文書は9355件にすぎず、それも条約・協定案や国際会議における演説テキストなど、公表を予定されていたものばかりである。公安調査庁、警察庁は同じ期間の解除件数ゼロと報告されている。防衛庁も高度の秘密についてはそうである。年間30万~40万点にのぼる秘密解除文書の大部分は、暗号書等の更新によるものである。その他のわずかな解除文書も、すべて廃棄しているといい、国民の眼にれることはない。また、政府あるいは各省庁の統一規定として、一定年限を経過したものについて原則的に秘密解除の措置をとるという定めもない。すでに歴史的資料となったものについてさえも、秘匿措置がとらているのである。p75


 アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。p75
 このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。p76

 秘密資料の解除手続きに問題があるだけではない。防衛庁図書館 (国立国会図書館防衛庁分館)の毎年度 『図書目録』を見ていると、公刊資料がつぎつぎに姿を消していくのがわかる。68年度と69年度を比較してみよう。定期刊行物で目録に収録されなくなったのは、陸上自衛隊の『幹部学校記事』、『航空自衛隊幹部学校記事』をはじめ、陸自の『富士学校記事』、『化学学校記事』、『会計記事』、『施設学校記事』、『衛生学校記事』、『武器』、『高射』、『通信電子』、『輸送』などで、いずれも月刊ないし季刊の公刊雑誌である。その多くはアメリカはもちろん、韓国、台湾や、西ヨーロッパ諸国の軍隊にまで送付されているのである。目録から消えたばかりか、現物も図書館に置かれていない。教範類も完全になくなり、
『防衛庁法規類集』さえ置かれなくなった。近ごろは、陸海空自衛隊の『公報』さえも消えてしまった。書棚はガラガラで、戦記読物や大衆小説が並んでいるにすぎない。

2 軍事警察とスパイ機関
戦後の弾圧事例
秘密保護法により弾圧された事例についてみると、刑特法第6条(合衆国軍隊の機密を侵す罪) 関係で、同法施行直後に4件あった。いずれも52年後半のことで、全部が不起訴となっている。54年5月11日参院法務委における政府説明によると、その概要は次のとおりであった。
(1)52年9月ごろ、路上で米軍機密と思われる軍事施設の位置、航空機の編成装備について記載した宣伝文書を頒布した者があったが、米軍から同文書の内容は機密に該当しないとの通告があり、不起訴処分とされた。
(2)そのころ、ある米軍基地で撮影禁上の標札があるのに基地内を撮影した者がMPに検挙された。しかし撮影対象が一般通行人の目撃しうるものであったので「公になっていないもの」に該当しないとして不起訴となった。
(3)同年8月ごろ、レストランで日本人と米軍将校が雑談中、たまたま同将校が米軍機の性能について語り出したため、居合わせたMPが将校を逮捕、日本人も警察の取調べを受けた。日本人は相手米軍人が偶然話し出したと弁解し、これが認められて不起訴となった。
(4)そのころ在日米空軍の移動状況を記載した文書を所持していた者が、別件の取調べで判明したが、他人からの預り物で犯意がないとして不起訴になった。
 以上4件は起訴されなかったとはいえ、機密ではないものを撮影したり公表したものが弾圧の対象になったという事実は、いったん法律が制定されると、現場ではとかく乱用されがちであることをしめしている。刑特法違反で起訴された事例もある。1955年に横須賀市で起きたクリーニング屋「谷源浜に係る刑特法違反事件」である。彼は基地近傍に「フリー・チャイナ・ランドリー」という店を持っていて、米兵相手に営業していた。入港してくる艦船に早く駆けつけ注文を取るのが商売のコツなので、米兵から聞いて出入予定日のメモを作っていた。このため検挙されて裁判の結果、懲役8月執行猶予2年刑受けた。ニュースを提供した米海軍通信隊のオペレーター、バーロー軍曹は軍事裁判で重労働2年、階級剥奪の刑を科せられたという。p77

 MSA秘密保護法で適用第1号となったのは、前述した『航空情報』事件で、解説記事をリライトた青木元3等空佐が取調べを受けている。自衛隊法関係では川崎1佐事件のほか、三矢研究漏洩事件で行なわれた大規模な捜査が注目されよう。このとき防衛庁、警視庁の合同捜査の対象となったのは、記者クラブのメンバーを含む約120人だった。この結果容疑者として「最後まで残ったのは2人だったが、2人とも決め手となる証拠がつかめなかった」(海原治防衛庁官房長〔当時〕談)とされている(「サンデー毎日』65・10・3)p77

警務隊と調査隊
こうした捜査や内偵を担当するのが、警務隊、調査隊である。警務隊は旧憲兵にあたる軍事警察機関であり、調査隊は米陸軍のCICと同じ対スパイ・スパイ機関である。警務隊は陸が1000人 空120人、海が100人で、それぞれ独自の本部と指揮系統をもって全国に配置されている。陸の本部は東京・芝浦分屯地にあり、幹部のほとんどは憲兵か警察官の出身である。全国に5つの方面警務隊本部をもち、各駐屯地に警務隊、警務派遣隊を分駐させている。海の本部は東京・市ヶ谷基地内におかれ、横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊に地方警務隊本部、各基地に警隊分遣隊を置く。空の本部は防衛庁内にある。入口には「入室厳禁」の貼紙があり、表札はない。各基地に警務分遣隊を配置している。p78

 警務隊の権限は、自衛隊法第96条に定められ、陸海空自衛隊員および自衛隊学生の犯罪だけでなく、「職務に従事中の隊員に対する犯罪その他隊員の職務に関し隊員以外の者の犯した犯罪」(たとえば贈賄、秘密漏洩教唆)についてまで、司法警察職員としての職務を行なう権限をもつ。自衛隊の使用する艦船、営舎その他の施設内での犯罪(現行犯にかぎらない)、自衛隊が所有しまたは使用する施設または物にたいする犯罪についても同様である。したがって秘密暴露を 「企て、教唆し、又はそのほう助をした者」(第118条2項違反―懲役1年以下)や、「自衛隊の所有し、又は使用する武器、弾薬、航空機その他防 衛の用に供する物を損壊し、又は傷害した者」(第121条違反―懲役5年以下)は一般人も対象になる。そのほか自衛官組合なの結成、予備自衛官の防衛招集不出頭、防衛・治安出動待機命令下の職務離脱、治安出動時における命令不服従などを教唆、ほう助した者、または多数共同による抗命、権限なき部隊の指揮を共謀、教唆、煽動した者(第119条2項違反ー3年以下の懲役)、治安出動命令を受けた者のストライキ、サポタージュなどの争争行為等や、共同抗命、権限なき部隊の指揮を共謀、教唆、煽動した者、職務離脱を教唆、ほう助した者 (第120条2項―5年以下の懲役)、防衛出動命令を受けた者に、職務離脱、抗命を教唆、ほう助した者、または争行為等や権限なき部隊の指揮を共謀、教唆・煽動した者 (第122条2項違反―懲役7年以下)は、隊外の者でも捜査されるのである。郡祐一氏の『秘密保護法精義』も、警務官の権限が常人に及ぶことを指摘しており、「保安庁の秘密を保護する法律があったとすれば、その違反者に対しては、警務官も常人に司法警察権を及ぼし得る場合が考えられた」(同書148ページ、傍点は引用者)と述べている。警務官の権限、守秘義務について、保安庁法、自衛隊法は全く同一の規定をもっている。ということは、氏が「・・・あったとすれば」としたのが誤りであることをしめすのではなく、本来、自衛隊法などの守秘義務の規定には秘密保護法的意味あいが全くなかったことを証明しているのである。それはともかく、現実には自衛隊員にたいし、秘密暴露を教唆し、ほう助した一般市民にたいしても、警務官の捜査がおよぶのである。p79

ただし、MSA秘密保護法違反の犯罪については、自衛隊の使用する船舶、庁舎、営舎その他の施設内における現行犯人だけが警務隊による捜査の対象となり、その他は警察にゆだねられる(自衛隊法施行令第110条)。警務隊員は下士官以上を警務官と称し司法警察員と同格、兵士クラスは警務官補と呼ばれ司法巡査と同じである。旧憲兵の場合も「将校、准士官及下士」は司法警官、憲兵卒は司法警察吏とされていた(旧刑訴法第248条)。 こうして、警務隊は隊外の者にたしても逮捕、押収、捜索を含め捜査に必要な取調べをなしうるのである(事前に防衛庁長官の承認を要する)。自衛隊の秘密を取材したり、隊員に反軍・反戦闘争を呼びかける者にたいして警務隊はつねに監視の眼を光らせている。p79

張りめぐらされたスパイ網
陸自警務隊については、「警務隊の運用に関する達」(陸自達35-2)があり、その本部には秘密漏洩時の“科学捜査”に必要なあらゆる新兵器が揃っている。ウソ発見機は警視庁のものより高性能という。自衛隊独自の軍事警察制度が設けられた理由について陸幕監理部 『陸上自衛隊法制提要』(68年3月)は、次のように述べている。「出動時における犯罪は一般警察がこれを捜査することは事実上困難である」。また、「自衛隊の施設、物件等を保護することは、防衛力の温存として極めて重大であるから、この犯罪についてみずからの手により処理する必要がある」(161ページ)。このように軍事警察は、有事のさいに最大の暴威をふるうわけである。なお、警務科部隊は犯罪捜査のほか、施設・物件の警護、脱走の防止と逮捕、捕虜の尋間、交通統制にもあたる。平時においても脱走者が出れば、“立回り先”に張り込み“説得”によって隊に連行している。p80

 警務隊と連携して情報活動の中心になるのが調査隊である。陸自調査隊は中央調査隊が市ヶ谷基地にあり隊員60人、各地に分遣隊を置いている。総数は約600人という。空自調査隊は本部を防衛庁内に置き、全国で67人。海自調査隊の正体は全く知らされていない。調査隊は対スパイ、対謀略任務を主とし、このために隊員の思想調査、外部との関係調査を極秘裡に行なっている。その準拠として航空自衛隊は59年8月8日、「秘」指定の「調査業務に関する達」を定めている(参考資料9)。
「取扱注意」に指定されている「陸上自衛隊情報等業務規則」によれば、対情報業務とは、諜報または謀略などの活動にたいして秘密、部隊、隊員、施設、装備品などを保全することを目的とするもので、たとえば隊員の保全とは謀略などから隊員およびその士気を保全することであると定義されている。p80


 もしある隊員の親類に左翼がいることがわかると、調査隊はその隊員を秘密が含まれる任務から排除させる。情報業務の専門隊員を養成する陸自調査学校は、旧中野学校が復活したものだが、同校の1教官は述べている。「カギをかけた書類棚を、定期検査や責任者とは別に感づかれぬよう検査する。そのためにはカギについての教育がいる。隊内に反自衛隊的な落書きがあれば、筆跡鑑定もやる」(共同通信社会部編『この日本列島』140ページ)。
 情報活動は調査隊、警務隊だけでなく、陸海空のあらゆる部隊が、それぞれの内部に専門組織をもってすすめている。そのうち外国情報の収集を担当するのが、陸の中央資料隊(250人、防衛庁内)、海の海上作業隊(防衛庁内)、空の航空資料作業隊(50人、防衛庁内)である。海上作業隊は一般情報資料のほか海洋資料を、航空資料作業隊はレーダー資料を含む航空情報資料をそれぞれ収集、整理、分析している。これらの部隊も一面では秘密保全に役だつ。なぜなら仮想敵国がなにを知っているかが分かるからである。p80

3  産軍複合の秘密
軍需産業の秘密保全
自衛隊の秘密保全体制は、隊内だけにとどまらない。秘密情報資料を共有するものの第一は、軍需産業界である。MSA秘密に属する航空機、レーダー、ミサイルなどの製作、修理、それにともなう実験、調査研究の委託を受ける企業は、自衛隊におけると同様の厳格な秘密保全措置をとることが要求される。それ以外の庁秘関係についても、契約の条件としてMSA秘密と全く変わらない保全体制が強制されるのである。この点については、「防衛秘密の保護に関する訓令」も庁秘訓令も、規定の内容はそっくり同一である。
 まず、委託に当たっては、「厳密な調査」を行ない、秘密保護上支障がないことを確認したのち、官房長、各幕僚長、調達実施本部長などの許可を求める。契約書には秘密の保全に関する特約条項が設けられる。これにより企業側は、工事に関係のない者を作業場、倉庫等に立入らせ、付近をうろつかせたりすることを禁じられる。作業に必要な以外は、いっさい立入が禁止されるのである。また、社内および下請先での秘密保全を確実に行なうため、秘密保全規則を作成して防衛庁の確認を受けなければならない。さらに秘密の取扱いに必要な帳簿を作成して防衛庁の検査を受けること、随時の状況検査と必要な指示を受けることも義務づけられる。70年3月30日、防衛庁調達実施本部と三菱重工業KKとの間で締結された超音速高等練習機(T2)の試作契約書に付された「秘密の保全に関する特約条項」を別に掲げておく(参考資料10)。p82

 こうした契約にもとづく軍需受注で第1位を占める三菱重工業は、「防衛秘密保全規則」を作成し、秘密区分の指定、登録番号の標記、保管責任者の選定などを細かく規定している。生産現場の管理も厳しい。秘密を扱う作業場は塀で囲い、鉄格子や金網を張りめぐらせて外部からは見えないようにしているし、労働者が出入りするときは従業員バッジのほか、顔写真入りの防衛庁許可証をつけることを強制され、守衛が一人一人点検するという厳しさである。さらに調達実施本部は、数百人の工場駐在官を全国の軍需工場に配置している。彼らは製品検査に当たるとともに、秘密保全体制についても監視の眼を、光らせている。p82
 
66年8月31日の参院決算委員会で、この問題が取り上げられている。このとき島田豊防衛庁説明員は、企業との間の秘密保全取決めは内部的な特殊なものであるとして公表を拒否した。当時の防衛庁長官は“お国入り”で有名な上林山栄吉だったが、その答弁は見逃がせぬ内容のものであった。彼はこう言ったのである。
「防衛に関する機密的な兵器をつくるについては、これはほんとうは機密保護法があったほうがいいのです。率直に言って、しかしながら日本の置かれておる国情というものを考えて機密保護法をいまはつくらないというような意見もあるようでございます。・・・機密保護法がなくても機密保護法があったと同じとまではいかぬまでも、それに近いような機密保持というものが私は保たれることが必要である、日本の防衛上これは必要だ、こういうように考えています」。p83

 このように、事実上の機密保護法体制が、軍・産の合作ですすめられているのである。おめでたいだけに上林山長官は、彼らの狙いを「率直」に語ったわけである。次章で述べるように「改正刑法草案」には企業秘密漏示罪(第322条)が設けられている。これは懲役3年の刑罰をもって軍需生産上の秘密をも保護するものである.p83

金にまつわる秘密漏洩
産・軍の癒着は秘密を保全する面だけでなく、それ以上に、秘密を漏洩する面で際だっていることをも合わせて指摘しておくべきであろう。今まで防衛庁秘密漏洩事件としてジャーナリズムを賑わしたケースのほとんどは、軍需産業界と結託した将校によるものであった。それが表沙汰になったのは、防衛庁・業界の内部紛争からである。そしてヤリ玉に上がたのは比較的ザコばかりで、最大の秘密漏洩者はぬくぬくと利権を貪りつづけているのである。p83


 産軍複合体の秘密漏洩ルートは、退職将校を媒介としてつくられている。空将(空軍中将にあたる)で退職し某社に天下りした固武二郎が、『航空自衛隊幹部学校記事』(69年11月号)に書いている内輪話は、こうである。「私の現在の待遇は、旧職場の元二佐、某君より相当低い。退官時の廻り合せにもよろうが、その決定的要素は、職場の適否と実力の再評価である」。彼は、入社早々、上役から4次防の概況を求められて資料の収集に腐心し、またF104の着地スピードを問われて面喰らった。前者は、会社の長期企業計画策案の要素であり、後者は、ある電子計器設計上のポイントであった・・・」とも述べている。固武元空将は軍隊社会から脱け切れなかったのか、企業にとってあまり有用ではなかったらしい。
だが、いずれにせよ天下りした退役将校は、会社の長期計画立案のために必要な防衛力整備計画についての資料収集や、特殊な防衛機器設計に必要な技術的知識の提供等々を求められることがわかる。p84


こうしたとき、モノをいうのは在職中つちかったコネクションである。電話1本で、かつての部下や同僚を呼び出し、1席を設けるのである。わざわざ秘密文書を持ち出さなくとも、勘どころはツーカーで通じる。高級将校中のエリート層を形成する旧軍の士官学校、兵学校、陸大、海大出身者は、閉鎖的な特権集団をなしている。それは隊内だけでなく、産軍を結びつける人的動脈としてもつながっているのである。天下りした先輩に在職中なにかと尽くしておけば、停年時に役立つわけで、このような現役組と退役組の相互依存関係は、公然の秘密となっている。p84


 63年から71年までの9年間に退職した一佐以上の人数は2025人、このうち638人(31%) が防衛庁からの受注資格をもつ登録会社へ就職している。しかも、このなかで将官クラスは退職198人で、うち122人が登録会社へ入っている。上位のものほど歓迎さているわである。 一佐以上の天下り状況を企業別にみると三菱電機27人、東芝26人、三菱重工21人、川崎重工19人、石川島播磨15人、日本電気15人、小松製作所9人、新明和工業7人となっており、いずれも例年、防衛庁受注のベストテンに数えられる大手軍需企業である。p84


 産軍の癒着が政界をもあわせて体制化したのは1965年、日韓条約締結のころであったと考えていい。日本支配層は、60年安保を契機として急速な軍備拡充に乗り出した。軍事予算は60年の1601億円が65年には倍増して3054億円に達した。これにともない産業界は、利潤の源泉として防衛庁調達を重視することになった。年間受注量にウマミが出てきただけではない。兵器装備の受注では実績がものをいう。特殊な設備、高度な技術を必要とするので、それを蓄積しているものが有利な立場にたつわけである。いったん実績を確保すれば、新兵器への更新のさいの受注競争では圧倒的優位を保持することなる。こうして業界は、軍事予算と軍需生産の高度成長を見通し、いっせいに既得権獲得に乗り出したのである。p85


 汚職事件や秘密漏洩事件が、つねに新型装備の発注をめぐって表面化するのは、こうしたはげしい内部競争による。自民党内の派閥と制服首脳部、内局官僚が複雑に結びつき、これに大手商社、大企業が入り乱れて、すさまじい合戦を繰りひろげるなかで、シッポをつかまれた者が生けにえになるのである。ロッキード・グラマン騒動やバッジをめぐる黒い霧がそうであった。p85

政治資金の黒い霧
 佐藤内閣が登場したのは、ちょうど政・産・軍体制が確立されようとする時期であった。65年から68年ごろにかけて、一方では保守政界における佐藤派のヘゲモニーが強化され、
他方では軍需生産面で独占体を軸とする系列化がすすんだ。この2つの過程は、相関的に進行したのである。65~68年の間に佐藤首相によって防衛庁長官に任命されたのは松野頼三、上林山栄吉、増田甲子七と、すべて佐藤派からであった。これにより佐藤派は、内局官僚と制服首脳を掌握しつつ業界とのパイプをその手に確保したのであった。この過程で、河野派に近く“海原天皇”といわれるほど防衛庁内に強固な人脈を築いていた海原治官房長が、国防会議事務局長にとばされた(67年7月)。さらに森田装備局長の自殺(67年10月)、川崎一佐逮捕、山口空将補自殺(いずれも68年3月)事件があいついで起こった。これらはすべて、佐藤派体制をきずくための策謀に根ざすものであったと判断していい。p85


 60年安保当時の防衛庁長官であった赤城宗徳は、語っている。「問題は防衛庁の実権をにぎる政界の首脳と業者の関係だ。・・・ボクの時代には、業者との関係はなかったもんだ。・・・それが、ある時代からだらしなくなって、困ったんもんだねぇ」(『週刊朝日』68・3・22)。同じころの『毎日新聞』(68・3・7)も、65年あたりから「防衛庁長官のポストが建設や通産大臣などと同じく金ヅル確保のためのイスに変わった」ときめつける長官OBが存在する事実を伝えている。「ボクの時代」のことはともかく、60年代後半の時期に、佐藤内閣は産軍を結ぶパイプから巨額の政治資金を吸い上げる体制をきずいたのである。防衛庁長官は増田のあと、有田喜一(福田派)、中曽根康弘(中曽根派)、増原恵吉(福田系)、西村直巳(佐藤派)、江崎真澄(藤山派)とまわった。分け前の配分である。p86


 池田内閣のもとでバッジ・システムにヒューズ社製を採用させることに成功した伊藤忠商事は河野派とむすび、河野は池田内閣の主流であった。F104JにつづくFX商戦では、伊藤忠がノースロップF5を、日商がF4Eファントムの売込みをはかった。この競争過程で、佐藤派長官によって海原が追われ、つづいて伊藤忠とヒューズに秘密資料を流した川崎1佐が逮捕されたのである。その数日前には青木日出雄元3等空佐の『航空情報』事件に捜査の手が伸びている。伊藤忠に天下りしていた元航空自衛隊幹部3人が書いた原稿をリライトして雑誌に掲載したためである。さらに「3次防技術研究開発計画」(第3篇311ページ参照)の漏洩事件に火がついた。これは有吉防衛研修所長が朝日新聞政治部の防衛庁担当S記者に見せ、そのコピーが伊藤忠商事に流れたものという。こうして伊藤忠につながる内局、制服のメンバーがつぎつぎに追い落とされたのである。69年1月、日商のF4Eファントムの採用が決定された。日商は佐藤派と深く結びついているといわれている。p86


 もっとも、伊藤忠に同情するわけにはいかない。こんな話もある。「海原派とコネの深かった伊藤忠が故河野一郎以来の・・・・縁をこの辺で切り、ウシをウマに乗りかえて佐藤主流と縁結びのため海原派攻撃に自ら手を出した?とのカンぐりも行なわれている。川崎の上司為我井忠敬元2等空佐(伊藤忠航空機電子部部長代理)のロッカーから、為我井自身は焼却したバッジ関係の秘資料が見つかった―というミステリーが、この伊藤忠換馬説を裏付けるとの見方もある」(小和田次郎『デスク日記5』64~5ページ)。
 ともかく、こうして佐藤派のパイプが太くなる一方、軍需産業界では独占体の支配的地位が確立し、受注は大手に集中することになった。競争も一定の限度でコントロールされ、独占体の協定で分担生産する傾向がつよまっている。したがって、政界の体制内再編成が行なわれたとしても、かつてのような乱戦は生じないであろう。つまり産軍政の癒着は、そこまで深まったのである。p87


 こうして、自衛隊の秘密はますます独占ブルジョアジーとの共有部分を拡大している。それは研究開発部門で、特にいちじるしい。また、アメリカがそうであるように、軍事機密、外交機密が大学。研究機関における学問の自由を侵食する危険も増大している。研究資金の大部分を産軍に依存し、3重カギの秘密文書保管金庫が研究室に置かれるような日がやってこないという保証はない。こうしたなかで、個別企業と高級軍人は、習性化した秘密漏洩によって、それぞれに私腹を肥やしながら、人民にたいしては徹底的な情報管理を行ない、刑罰による威嚇をもって、もっとも基本的な国家情報を秘匿しているのである。p87
第4章 機密国家の復活
1、大日本帝国と国家機密
国家機密の生成
維新動乱のなかから出発した明治国家が、まず着手したのは中央集権制の基礎となる常備軍の建設であった。はやくも1868(明治元年)10月17日、伊藤博文は「東北凱旋ノ兵ヲ改テ朝廷ノ常備軍隊卜為シ・・・・新二我兵制ヲ改革シ、朝廷親シク之フ統御」すべきであると建議している。翌69年6月の版籍奉還の直後には、官制を改正して兵部省が設置された。(藤原彰『軍事史』24ページ)。こうして兵部大輔大村益次郎らによって、天皇の軍隊が創設されていくのであるが、その過程は同時に、国家機密保全体制の整備をともないつつ進行した。p88
 兵部省設置に先だつ69年5月には、出版条例が制定され、「妄リニ教法ヲ説キ人罪ヲ誣告シ政府ノ機密ヲ洩シ或ハ誹謗シ及ビ淫蕩ヲ導ク事ヲ記載スル者軽重二随ツテ罪ヲ科ス」と定められた。71年2月、薩長土3藩の献兵1万をもって御親兵、つまり陸軍が創設されたが、これにともない同年8月には海陸軍刑律が制定公布され、翌年2月施行された。この第70条には、「凡ソ軍機ヲ漏泄シ、軍情ヲ発露スル者、又記号暗号ノ類ヲ開示シ、機密ノ図書ヲ伝播スル者、又応援ノ路線、水攻ノ閘門ヲ公言シ、火薬ヲ蝕シ火門二釘スル等ノ挙二及フ者、其敗ヲ取リ事ヲ誤ル、之二基カスト雖モ各謀叛ヲ以テ論ス」と規定されていて、首従を論ぜず死、将校は奪官の後、銃丸打殺になった(日高巳雄『軍機保護法』、福島新吾『非武装の追求』による)。p89

こうして軍事機密保護法制が新設されるのと併行して、国防用兵方針にも転換の兆があらわれる。71年8月には、「機務密謀」に参画するものとして参謀局が設けられた。続いて同年12月24日、山県有朋らが軍事新政策を建議している。これは明治政府の初期における国防の基本方針ともいうべきもので「軍の重点を漸次、対内的より対外的に移動する」「北門の強敵(注―ロシア)、日に迫らんとするの秋、軍備を諸政一般に優先して完備する」ことを謳い、これにより治安軍備から対外的軍備への明確な方向転換が画されたのである。1年後には徴兵令が発布され、以後一貫して軍備優先の国策が追求された(防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部(1)』9ページ)。

 1880~81年には機密保護法体系の原型となる基本的な立法がなされた。まず80年7月、旧刑法が布告された。その131条は、「本国及ヒ同盟国ノ軍情機密ヲ敵国二漏泄シ若クハ兵隊屯集ノ要地又ハ道路ノ険夷ヲ敵国二通知シタル者ハ無期流刑二処ス 敵国ノ間諜フ誘導シテ本国管内二入ラシメ若クハ之ヲ蔵匿シタル者亦同シ」と定めていた。ついで翌81年12月には陸軍刑法、海軍刑法が布告された。陸軍刑法は第54条に、「軍人敵ヲ利スル為メ土地道路ノ要害険夷ヲ指示シ若クハ攻守ノ用二供ス可キ図書及ヒ暗号記号ヲ開示シ其他軍機軍情ヲ漏洩スル者ハ死刑二処ス」の規定をおき、海軍刑法第60条も、ほぼ同様の条文であった。p89


 加えて83年4月には新聞紙条例が制定され、その第34条は「陸軍卿海軍卿ハ特二命令ヲ下シテ軍隊軍艦ノ進退及一般ノ軍事ヲ記載スルコトヲ禁スルコトヲ得 ・・・・」と定め、出版条例と合わせて言論統制の武器となった。これらの諸法令は、その後いくつかの小改正を経たが、重要なのは1888 (明治21)年の陸・海軍刑法改正であった。陸軍刑法第105条(海軍刑法第84条もほぼ同じ)は「軍人秘密ヲ要スル図書兵器弾薬ノ製法其他軍事二関スル機密ヲ漏洩スル者ハ3月以上3年以下ノ軽禁錮二処シ将校ハ剥官ヲ追加ス」と改められ、この規定は主として戦時事変の際、軍人以外にも適用されることになった。この年、旧来の鎮台組織を改めて師団編成がとられた。これにより名実ともに外征型軍備となったのである。なお、1893年には出版法が制定され、「外交軍事其ノ他官庁ノ機密二関シ公ニセサル官ノ文書及官庁ノ議事」(第18条)、「軍事ノ機密二関スル文書図画」(第21条)は、当該官庁の許可なくして出版することを禁じられ、これを出版した著作者、発行者は11日以上1年以下の軽禁錮に処せられることになった。p90

戦争と軍事機密
以上のような経過を経て、機密保護法規はほ骨格をととのえ、最初の本格的な対外戦争である日清戦争を迎えることになった。そしてこの戦争の勝利は、軍備と機密保護体制をいっそう強化するテコとして作用したのである。戦後まもなく、「諸外国の我が軍機を偵知せんとするの情漸く切であり、加ふるに我が国防計画は爾来著々達成に赴き動員出師の準備は年を追うて整頓する等愈愈軍事上の秘密を厳守するの必要を生じた」(日高前掲書)ので、1899(明治32)年7月15日、軍機保護法および要塞地帯法が公布されることになった。これにより一般国民を直接の対象とした特別の軍事機密保護法が、はじめて現われたのである。刑法、陸・海軍刑法の規定は主として戦時に関するものであり、出版法その他軍用電信、軍港要港の保全についての法令は特殊の分野に関するものであったが、軍機保護法は平戦時をとわず、軍事機密総体を保護するものであった。p90

 次に訪れた機密保護法令の大改悪は、日露戦争の直後であった。すなわち1908 (明治41)年10月1日、改正された刑法、陸軍刑法、海軍刑法がいずれも施行されることになり、その秘密保護規定は敗戦まで変わることがなかった。各規定は次のとおりである。
刑法
第85条 敵国ノ為二問諜ヲ為シ又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス
軍事上ノ機密ヲ敵国二漏泄シタル者亦同シ
陸軍刑法
第27条 左二記載シタル行為ヲ為シタル者ハ死刑二処ス
1、軍隊又ハ要塞、陣営、艦船、兵器、弾薬其ノ他軍用二供スル場所、建造物其ノ他ノ物ヲ敵国二交付スルコト
2、敵国ノ為二間諜ヲ為シ又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助スルコト
3、軍事上ノ機密ヲ敵国二漏泄スルコト〔以下略〕
海軍刑法第22条2号、3号は、陸軍刑法第27条2号、3号と同じである。続いて翌年には新聞紙条例が改められて新聞紙法となり、出版法とともに敗戦にいたるまで言論抑圧の武器となった。p91


 機密保護法制の第3次の大改悪期は1930年代、いわゆる満州事変が開始されてから太平洋戦争の前夜にいたる時期であった。すなわち34年軍用電気通信法が定められたが、その第10条は、軍用通信による通信の秘密を侵しまたは通信の秘密を漏泄した者への刑事罰適用の規定であった。次ぎに1937(昭和12)年8月13日、軍機保護法の大改悪がなされた。ちょうど盧溝橋事件の直後であった。同法改正理由書が、軍事機密の保全がつよく求められるのは「戦勝ノ関鍵ガ平時極秘裡二準備研究セル嶄新卓抜ナル作戦用兵等の諸計画・・・兵器、資材其ノ他一切ノ統合二依リテ構成セラレル奇襲戦法二存ス」るからであると指摘していることが注目されよう。こうした目的のために、あいついで新たな機密保護法規が考案されて、ついに国防保安法の制定にいたり、典型的な機密国家の出現をみたのであった。p92


 改正軍機保護法は、第1条で新たに軍事上の秘密についての定義を設けたが、その種類範囲は陸海軍大臣の命令に譲られ、統帥事項およびこれに関連ある広範な事項が含められた。また、たんなる漏泄でさえ無期、公示は死刑が最高刑として新設されるなど多くの点で改悪され、その他についての罰則も強化された。これにより直接に弾圧されたのは、「昭和14年末までの統計表によると、受理件数159件人数280人、内起訴31件44人、不起訴127件235人」であったという(伊達秋雄「軍機保護法の運用を顧みて」、『ジェリスト』59号)。その後の数は明らかでないが、新聞記者や雑誌編集者をはじめ、兵器研究に趣味をもっていた中学生、一般市民、あるいは労働運動活動家で召集により軍隊に入隊し通信記事を送った者にいたるまで仮借なく適用されている(参考資料11)。また、立入、撮影、飛行の禁止などの広範な行政的刑罰規定が新設され、国民は見ざる聞かざる言わざるの完全な無権利状態におかれたのであった。同法は太平洋戦争開始の直前、41年3月の再改正で過失による罪の罰則が強化され、敗戦にいたるまで暴威を振るったのである。


機密国家の悪夢
 中国侵略戦争がエスカレートしていくなかで、1938(昭和13)年には、国家総動員法が制定された。同法は新聞紙法、出版法を補強して政府にたいし、新聞紙その他の出版物の掲載につき制限または禁止をなしうる権限を与え、さらに、総動員事務に従事した者が知り得た官庁の機密を漏泄し、または窃用した場合などについての罰則規定をもっていた(佐藤達夫『国家総動員法』)。
 翌39年には軍用資源秘密保護法が制定された。同法は「軍用二供スル(軍用二供スベキ場合ヲ含ム)人的及物的資源二関シ外国二秘匿スルコトヲ要スル事項」につき、陸海軍大臣または主務大臣の指定をもって軍用資源秘密としていた。たとえば、公にする目的でこれを探知収集した者は10年以下の懲役、公にしたときは1年以上の有期懲役という苛酷なものであった。しかも指定秘主義をとっていたため、ありとあらゆるものが秘密とされた。p93

 これら個別の機密保護立法を集約するものとして、太平洋戦争の前夜、1941年3月7日公布され、同年5月10日施行されたのが国防保安法であった。同法は、軍機保護法とならんで秘密保護法令の二大支柱であった。国防保安法が直接の目的としたのは国家機密の保護である。すなわち「部分的、局部的な秘密ではなく、綜合された重要機密を保護すべき直接の規定」(大竹武七郎『国防保安法』10ページ)をもつものであった。「軍機保護法ハ軍事上ノ秘機ヲ保護スルト云フコトヲ目的トシテ居リマスノデ、軍機保護法二依ツテ国防保安法ガ目的トシテ居リマス外交、政治、経済等ノ国家機密ヲ擁護スルコトハ出来ナイノデアリマス、此ノ二ツニ依リマシテ初メテ国家ノ軍事上ノ機密卜、他ノ軍事以外ノ機密ノ擁護ガ出来ル」(寺沢音一編著『国防保安法』釈義篇25ページ)と説明されている。p93
 国防保安法は、偶然の原由で国家機密を入手して公にしたものについてまで、無期または1年以上の懲役を定めていた。これは、「例えば新聞記者が或官庁に行ったところが係官の机の上に国家機密を表示する図書が出してあったとか、話してゐるのを偶然聞いたといふやうな場合」(大竹前掲書132ページ) を含むものであった。p93


 だが、国防保安法の対象は、それだけではなかった。すでに述べたように、それはたんなる情報を探知収集する者にまで弾圧を加えた。さらに同法第2章には、特別刑事手続が設けられ、検事にたいし裁判所とは関係なく捜査を行なう権限を認めるとともに弁護権を制限し、また控訴を禁止するなどが定められていた。しかも、この章の規定は、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、陸海軍刑法、国家総動員法などの秘密保護規定、刑法の外患に関する罪などにも適用されたのである。ゾルゲ事件も、これによって裁かれた。p93
 同法案が帝国議会で審議されたとき、これが戦時の臨時立法か否かという質問があった。柳川司法大臣はこれにたいし、「現下の国際情勢が著しき改善を見ざる限り本法案の必要性は何等減少しない」と答えている。つまり、戦争が終結すれば廃止するものではなく、恒久法として考えられていたのである。p94


 以上簡単にみてきたように、機密保護立法は対外戦争をバネとして、そのたびごとに強化され、ついにかつてない軍事警察国家を出現させたのである。そして機密保護法規の体系的完備の時期は、破滅的な大戦争開始のときでもあった。敗戦はこれら一切のものを、いったんは一掃したのであったが、数年を経ぬうちに、またも復活の歩みがはじまった。最初は密かに、それと気付かれぬようにすすめられたその動きは、50年代半にいたり、公然と総合的な機密保護法制定の意図を語りはじめるのである。p94

2 機密保護立法の動向
刑特法をのぞく現行法のなかで、機密という語が入っているのは外務公務員法である。同法る現行法 第19条第1項は、「外務職員が外交機密の漏えいによって国家の重大な利益をき損したという理由で懲戒処分を受けた場合におけるその処分についての行政不服申立ては、国家公務員法第90条第1項の規定にかかわらず、外務大臣に対してしなければならない」と定めている。一般の国家公務員が不利益処分を受けた場合は、人事院に審査を請求することができ、公平委員会による審理が行なわれる。この場合、請求があったときは口頭審理を行なわなければならないしさらに請求があったときは公開して行なわなければならないことになっている(国公法第91条)。

 外務公務員法は、これの例外規定を設けているわけである。外交機密の漏洩による懲戒処分の場合は外務人事審議会の調査に付され、その場合本人から請求があったときは口頭審理を行なわなければならないが、それは非公開とする、と定められている(第20条)。つまり秘密審理によって葬り去ろうという狙いなのである。p95


 自衛隊法はいっそうひどい。隊員が懲戒処分を受けたときは防衛庁長官にたいする審査請求が認められているだけで、外務公務員のように機密漏洩だけに限られていない。しかも、これを調査する公正審査会は、その決定により口頭審理、書面審理のどれかを勝手に選択することができるし、口頭審理の場合は、「公正審査会において審理の内容が秘密を要するものであると認めた場合には決定をもって公開しないで行なうことができる」(自衛隊法施行令第75条)とされている。処分を受けた者は代理人を選任することができるが、それには公正審査会の承認を得なければならない。これが現実には、どう運用されてれているのか。反戦自衛官小西誠3等空曹の懲戒免職処分にかんする審査についてみると、公正審査会は代理人8人の選任要求にたいし70年4月25日、審理の円滑のためと称して2人を認めただけで、同年6月19日には公開口頭審理をも拒否している。p95


 このような外交・軍事の分野における行政審査の現況は、かつての軍法会議、あるいは国防保安法における特別刑事手続を想起させるのである。もちろん公正審査会は特別裁判所ではないし、終審としての裁判を行なうものではない。その機能はちがうが、体質としては軍法会議の復活といっていい。陸軍軍法会議法第90条および海軍軍法会議法第90条は、「弁護人ノ数ハ被告人1人二付2人ヲ超ユルコトヲ得ス」としていた。国防保安法第30条も全く同文であった。裁判は多くの場合、安寧秩序を害する恐れがあるとして公開を停止された。公開されたときにも弁護人は国家機密、軍事上の秘密、官庁の機密について陳述することを禁止された。防衛庁が小西3曹の公正審査でとっている態度は、まさにこの再生なのである。それを許す規定がすでに自衛隊法、外務公務員法のなかに、設けられているのである。これがほんものの軍法会議の復活につながっていかないという保証はない。憲法改悪の重要な狙いの1つが、国防軍の公認とともに特別裁判制度の創設におかれていることを忘れてはならない。p96


このように、一見なんの変哲もない名称の法律のなかに、かつての機密国家体質が散りばめられている。「国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的」とした国家公務員法が、すでに機密保護法的に運用されていることは、沖縄密約暴露問題でも明らかになった。地方自治法も同様の規定をもっている。p96


50年代の立法蠢動
 こうした法律が敗戦直後に占領権力のもとで制定されていった経過と、平和条約発効にともない刑特法が定められたこと、これらを補完するものとして53年4月30日、次官会議申合せ(参考資料1 105ページ参照)がなされ、各省庁の内規が作成されていったことについては、第1章で述べた。だが日本支配層は、国公法や内規で満足していたのではない。注目すべきは、次官会議申合せがなされたころ、すでに特別立法として機密保護法をつくろうという蠢動がはじまっていたことである。p96

 53年8月、佐藤藤佐検事総長は、「現在外国にはいずれも国防上の見地から軍事上の秘密のほか、政治・外交・経済などに関する国家の機密を保護する法律がある。わが国も独立国である以上、軍隊がなくても、軍事上の秘密以外の国家の秘密を保護するため、スパイ取締法のような法律が必要であることはもちろんである」との談話を発表している (『朝日新聞』53・8・22)。明治政府の足どりを追うかのように、彼らは独立国のメダルとして機密保護立法を待望したのである。翌54年6月にはMSA秘密保護法が成立し、7月には自衛隊の発足をみるが、この際にもMSA関係だけでなく自衛隊をも含めた軍機保護法的立法の可否が検討されたことについては、すでに述べた。このころ各省庁の内規も、しだいに整備されつつあった。日本新聞協会は54年7月24日、次のような秘密保持訓令に関する声明を発表している。p97


 「政府各省は次官会議の決定に基きそれぞれ『秘密保持に関する訓令』を定めつつある由であるが、われわれ新聞人は、これは国民の『知る権利』を制約するおそれあるものとしてその成行きに重大な関心を有するものである。民主政治のもとでは国民は国政運営の内容を充分知らされ、これが果たして国民の利益と合致するものか否かについて適正な批判を下す権利を有する。ところがこうした訓令実施さると各官庁は次第に密と称する事項を拡大し、その結果取材、報道の自由が制限され、国民の『知る権利』が縮小されることは必至である」(『マスコミ判例百選』222ページ)。p97


 マスコミ企業側の意思表明ではあるが、今日もなお、鮮明な印象を与える。声明の危惧は現実のものとなっている。だが、政府はこれに全くを耳をかさなかったばかりか、緒方竹虎副総理などは、「さきに成立した防衛秘密保護法とは別個に国家機密を保護するための新たな立法措置を早急に講じなければ、日本は滅亡するといっても過言ではない」と述べたのである。機密保護立法が宣伝の段階を過ぎ、実行に着手されはじめたのは50代後半であった。p97
 1958年2月9日、岸首相は記者会見において、「防諜法の国会提出を検討中」と語っているが、これを受けて同年9月、自民党治安対策特別委員会小委員会が作成した「諜報活動取締り等に関する法律案大綱」が治安対策特別委と政調会国防部会の了承を得て発された。 『朝日新聞』の報道により、その全文を別に紹介しておく(参考資料12)。大綱の特徴について指摘しておこう。第1に、秘密の範囲に含まれるのは、安保体制の秘密とくに日米共同作戦に関する約定と、自衛隊の機密事項が主なものである。これに刑特法、MSA秘密保護法の対象も包括されることになっているのが注目される。次に、罰則については軍機保護法、国防保安法の類型とほとんど変わらない。死刑と無期がないだけであって、刑特法、MSA秘密保護法の懲役10年以下よりも加重されているのである。p98


大綱は、60年安保改定交渉過程で アメリカ側の要求もあって具体化への動きをみせた。59年秋、左藤防衛庁長官が、軍事・外交機密の保護を目的とした「国家利益保護法」的な特別法を制定する意向を固めたと伝えられたし、60年3月には赤城防衛庁長官が、5年後には機密保護法が必要になるかもしれないと参院予算委で表明している。また、このころ刑法改正作業のなかで、機密探知罪新設のたくらみが進んだ。p98
 
    支配者の見果てぬ夢
 60年安保闘争の高揚と池田内閣による政策手直しの結果、一時この動きはストップした。だが、63年7月自民党安保調査会が中間報告のなかで、「国家機密保護体制の整備」を強調し、現状のままでは「白蟻的間接侵略を、不知不識に進行させることになりかねない」と警告を発したことから、またぞろ再燃しはじめた。とくに65年2月、三矢研究が暴露されたさいには、瀬戸山自民党副幹事長がこの問題について具体的な検討をすすめるべき段階にきたと発言している。さらに同年9月の第6回日米安協議委で、ライシャワー大使が機密保護法制定の必要を指摘した事実もある。この間、65年4月15日には、事務次官会議申合せ「秘密文書等の取扱いについて」(参考資料2参照)により、管理措置がいっそう 強化されている。p98


 彼らは決して秘密保全措置の強化と現行法の恣意的運用のみに甘んじているわけではない。佐藤首相は沖縄密約が暴露されたとき、参院予算委で「日本に守られなきゃならない機密、これがある。・・・・そこらに1つの網をつくっておかなきゃならないんじゃないかとかように考える。これは私のもともとの持論でございます」(72・4・8)と述べ、さらに機会が到来すれば単独法として秘密保護法を制定すべきだと彼の構想をしめしている。これはたんに、年来の宿願を果たそうとして果たせず、目前に退陣の日を迎えた佐藤栄作個人の繰り言ではない。p99
 政府は一貫して、現行憲法のもとでも機密保護法の制定は可能であるとの見解を明らにしている。「私は秘密保護法という題名で想像されるものが 全然できないというわけではないと思います。・・・・・(憲法上)どこの規定に根拠があるかどうかということを言いませんでも、憲法の規定に反しない限りはそういう法律ができる」(衆院予算委65・3・2、高辻法制局長官答弁)。こういう詭弁で自衛隊が設置されたし、非常事態立法や機密保護法が準備されている。そればかりか一足先に、その内容が先取りされてさえいるのである。p99

3 刑法改正による機密保護
復活するスパイ罪
 特別法として機密保護法を制定しようとする動きと併行して、刑法改正のなかでそれを実現しようという策謀もつづいている。法務省に設置された刑法改正準備会が60年4月に公表した「改正刑法準備草案」(未定稿)は、その第136条において、「①外国に通報する目的をもって、日本国の防衛上又は外交上の重大な機密を不法に探知し、又は収集した者は、2年以上の有期懲役に処する。②外国の利益をはかり、又は日本国の利益を害する目的をもって、防衛上又は外交上の重大な機密を外国に通報した者も、前項と同じである」と規定していた。p99

 この条が設けられた経緯について、準備会委員の1人であった吉川経夫法政大教授は、 「最初は防衛上の機密に限ることにしていたのですが、防衛機密だけというのは憲法との関係が目立ちすぎるというので 外交上ということも入れたのですが、かえって議論の種をまきましたね」と語っている(「改正刑法準備草案各則の問題点」、『法律時報』32巻10号94ページ)。準備草案は、1940(昭和15)年の改正刑法仮案を基礎とするものであった。

吉川教授はいう。
「やはり仮案を出発点としたことに根本的な問題があったと思います。仮案を技術的に参照するのは結構だけれども、少なくとも国家的法益に対する犯罪の規定の厳しさというものは、現在とうてい問題にならぬと思うのですが、委員のうちには、昭和15年当時よりも現在の方が治安状態は悪化しているから、この種の規定をもっと強化する必要があるという意見さえありましてね」(前掲誌87ベージ)。

 この発言は、準備草案の内乱・外患の教唆にたいする罰則が破防法より強化されていることに関連してのものである。だが、それはスパイ罪規定の背景にあるものがなんであったかをも、しめしているのである。このように準備草案は昭和35年を直接、昭和15年に接合するものであった。スパイ罪の罰則は、刑特法やMSA秘密保護法よりも重い。それは、内乱・外患教唆の罰則を「破防法の刑よりも重くすることについてはもちろん反対があったのですが、破防法は制定当時の政治情勢から遠慮しすぎた刑をもっているという意見もありましてね」(前掲書86ページ)と吉川教授が説明しているような理由によるのである。準備会主流の思想からすれば、「政治情勢」さえ許すなら軍機保護法、国防保安法、治安維持法と同じく死刑をもってのぞみたいところであろう。p100

 61年11月7日、植本法相は記者会見で、刑法改正を今後2、3年で実現するとの強い決意を表明、翌12月には確定稿が発表された。第136条は「機密探知等」として、一部字句を改めて存置されている。準備会の小野清一郎議長は、この規定を設けたわけを理由書のなかにこう記している。

 「現行刑法には、もと、間諜行為及び軍事上の機密を漏らす行為を罰する規定があったが(第85条)、昭和22年法律第124号によって廃止された。これは一切の軍備を撤廃した結果、もはや軍事上の機密というものもなく、従ってその探知収集(間諜)又はこれを漏らすということも問題にならぬと考えられたのであろう。
 しかし、今や防衛庁というものがあり、陸上、海上、及び航空自衛隊というものがある。そして防衛庁及び自衛隊は防衛上の秘密をもっている。その或るものは、国家の安危にかかわる機密である。刑法においてかような機密を保護する規定の必要であることは、あらゆる国の刑事立法において間諜その他機密保護の規定があることによっても明らかである。
 ところで、刑法において保護されなければならない機密は、防衛上の機密に限らない。国家はその行政の各部内において機密をもっている。・・・外交上の機密については、軍事上の機密を内容とするものもあるし、過去における経験に徴しても、その刑法における保護を必要とすることは明らかである。それで、本条は日本国の『防衛上又は外交上の重大な機密』を保護するために、これを漏らした者及び漏らす目的をもって探知又は収集した者を処罰する規定を設けたのである」(吉川経夫 「刑法における国家秘密の保護」、『法律時報』71年9月号より再引用)。p101


 憲法施行に当たって削除された刑法の通謀利敵罪は、「敵国」との関係にかかるもので、戦時にのみ適用された。しかも、これが存続した40年間に発動されたのは、ただ1件、それも1946年に免訴となっている(前掲吉川論文)。これにたいし、準備草案の規定には「外国」とある。つまり平時にも適用されるのである。準備草案は、法制審議会刑事法特別部会の審議に付された。機密探知罪は第4小委員会で検討されたあと1966年7月4日、刑事法特別部会の第7回会議で採決に付され、刑法中には規定しないことに決定した。この部会の議事速記録は「部外秘」に指定されているという(「知る権利と国家の秘密」、『法学セミナー 』72年6月号)。p101

 拡大される公務員の機密漏示罪
刑事法特別部会で決定された改正刑法草案は72年3月に公刊されているが、これに付された説明書は機密探知罪を設けなかった理由に触れ、次のように述べている。このなかで「特別法で詳細な規定を設ける」ほうがより適当であると指摘されていることを見逃がしてはならない。
「審議の過程では、日本国の安全を害するおそれのある防衛上又は外交上の機密の保護を十分にはかるため、この種の機密を不法に探知し、又は収集する行為、あるいは、外国の利益をはかり、又は日本国の利益を害する目的で、これを外国に通報する行為を処罰する規定を設けるべきであるとする意見があった(第1次案136条A案)。しかし、これに対しては、『機密』の概念が不明確で乱用の危険があり、新聞記者等の取材行為にまで適用することになると、憲法で保障された表現の自由を侵すことになるおそれもあること、この種の機密を保護する必要があるとしても、機密の範囲を具体的に限定して乱用の危険をなくするためには、特別法で詳細な規定を設けることとする方が適当であること、外国から武力の行使があった場合に防衛上の機密を探知したり又は通報したりする行為は、外患援助(第127条)として処罰の対象になることなどが指摘され、刑法には機密の探知等に関する特別の規定は設けないこととされた」(172ページ)。

 こうして、ふたたび独立立法としての機密保護法を追求することになったのである。代わりに改正刑法草案第140条に、公務員の機密漏示罪が新設されている。すなわち「公務員又は公務員であった者が正当な理由がないのに、職務上知ることができた機密を他人に漏らしたときは、3年以下の懲役又は禁固に処する」というものである。説明書はいう。
「公務員法等に定められた刑は、この種の行為に対するものとしては軽すぎること、国家公務員法又は地方公務員法の適用を受けない特別職公務員の中には、秘密保護のための罰則の適用を全く受けないものもあり、これらの公務員が機密を漏示した場合にも処罰の必要があること等の理由から本条を新設することとされた」 (176ページ)。
 このように、懲役1年以下が3年以下に引き上げられるだけでなく、特別職公務員にも適用する狙いが込められているのである。特別職には国公法が適用されない。そのうち総理大臣、国務大臣、就任について選挙によることを必要とする職員、国会議員の秘書などについては、同じ特別職の自衛隊員、外務公務員、裁判官などのように特別の法律もない。わずかに官吏服務紀律第4条の「官吏ハ己ノ職務ニ関スルト又ハ他ノ官更ヨリ聞知シタルトヲ問ハス、官ノ機密ヲ漏洩スルコトヲ禁ス 其職ヲ退ク後二於テモ亦同様トス」という規定が適用されるだけだが、これには罰則ない。そこで刑法に規定することにより、国会議員をも含めたすべての公務員を拘束しようというのである。なお、ここにいう「機密」とは、「国又は地方公共団体の有する秘密のうち特に重要なもの、いいかえれば、これを漏示することによって、国家の安全その他重要な公共の利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。公務所によって機密と指定されているかどうかを問わない」(説明書176ページ)とされている。p103
 いま一つ、第322条の企業秘密漏示罪新設がある。企業の役員または従業者が、その企業の生産方法その他の技術に関する秘密を第3者に漏示したとき、3年以下の懲役または50万円以下の罰金に処するというものである。これが軍需産業の企業秘密を守り、あるいは企業の公害責任を隠蔽するために利用されることは明らかであろう。p103
 全国民を拘束する刑法あるいは特別法によって、機密保護規定が新設された場合、状況は根本的に変わるであろう。たとえば、刑法中に公務員の機密漏示罪が設けられた場合、 どうなるかについて次のように指摘されている。
「現行法のように秘密漏示罪がもっぱら公務員の服務規律違反という形でとらえられていれば、第3者がこれを探知しようとする行為等が共犯として処罰される範囲は、性質上おのずから限定されるが、これが『自然犯』として、直接一般国民を対象とする刑法典中に取り入れられることになると、ストレートに刑法の共犯に関する規定の適用を受けることになり、それが拡大することは避けられない」(吉川経夫「刑法改正案の批判的検討」、『法学セミナー』72年6月号)。
 要するに、秘密保全体制の強化と現行法の乱用によってすすめられつつある量の蓄積が、それによって爆発的な増殖過程に入るのである。軍事・外交の中枢部に発生し、次第に市民社会をも蝕みつつある病巣が一挙にひろがり、ふたたび機密国家が出現することになるのである。

第2篇  自衛隊の機密
第1章 作戦用兵
1 軍令事項
軍政と軍令
現在、自衛隊では、「作戦用兵」「軍政・軍令」という用語を公式には使用していない。これらが禁句とされているのは、いうまでもなく、軍とか兵という字が自衛隊の違憲性を自己暴露するからである。だが、戦い字は、すでに解禁されている。たんに作戦といい、戦略というのは公認されている。かつて特車と称していたものも、61年の師団誕生のときから戦車と呼ぶことになった。戦争はやるが、それを遂行する主体は軍でなく自衛隊であり、その構成員も兵でなく隊員であるという、この辺が政府の欺瞞的憲法解釈の許容限界とされているわけである。p128
 ブルジョア古典兵学以来、軍事に関する活動は、2つの分野に分けて考察されてきた。その1は戦力の創造、育成、維持の分野、つまり軍政事項、自衛隊用語では防衛力整備の関係であり、その2は、こうして建設された戦力の使用に関する分野、つまり軍令―作戦用兵事項である。後者について自衛隊では、たんに行動または作戦、あるいはオペレーションの関係と呼んでいる。米軍はoperationの用語を「軍事行動一般を称する場合のほか、兵站又は訓練を遂行することにも使用」している(陸幕訓練資料『用語集』。陸海空自衛隊に共通する公式用語とその意義を定めた『統合用語教範』(68年3月、統合幕僚会議)は、「作戦〔行動〕」を次のように定義している。
1 広義には軍隊〔自衛隊〕が与えられた任務達成のために遂行するあらゆる軍事行動をいう。
2 狭義にはある目的を達成するまでの一連の戦闘行動をいい、捜索、攻撃、防御、移動、機動等及びこれに必要な補給活動を含む。
 同教範「はしがき」によれば〔〕内の字句は、「その直前の字句といずれか適当なものを選択して用いる」とされている。つまり、軍隊というか自衛隊というか、あるいは作戦とよぶか行動とよぶかは、選択の問題であるにすぎない。公式には右のような内容をもつ行動、作戦(オペレーション)の用語が使用されているのであるが、制服組は旧帝国軍隊以来の慣用にしたがい、作戦用兵、軍政、軍令などの語を多く使用している。旧軍の場合、軍令事項は天皇の統帥権に属し、陸軍は参謀総長、教育総監、海軍は軍令部総長が掌握していた。したがって内閣は、全く関与できなかったのである。 ただ軍政事項だけが、内閣に属する陸・海軍大臣の所管とされ、一定範囲で閣議事項となったにすぎない。p129
 参謀本部条例(明治41年軍令陸第19号)の第1条は、「参謀本部は、国防及び用兵の事を掌る所とす」と定めていた。軍令部令も同文であった。ここにいう国防とは兵力をもって国家を防衛することをいい、用兵とは外敵もしくは内敵にたいし、または治安維持のために軍隊を運用することを意味していた(日高巳雄『軍機保護法』152ページ)。軍令事項とはこのように広範囲のものであったが、具体的になにが含まれるかについては多くの問題があった。陸軍と海軍では相当の差異があり、また軍部の台頭にともなって軍令事項の範囲が拡大されていった。本来は軍政事項であった兵力量の決定が、昭和初年以降は軍令に含められたのが、その一例であろう。1922(大正11)年、陸軍当局は軍令事項として次の11項目を例示している。
①作戦計画に関する事項
②外国への軍隊派遣に関する事項
③地方の安寧秩序維持のため兵力使用に関する事項
④特別大演習に関する事項
⑤動員に関する事項
⑥平戦時編制
⑦戦時諸規則
③軍隊の配置に関する事項
⑨軍令(法形式としての)に関する事項
⑩特命検閲に関する事項
①将校及び同相当官の平戦時職務の命免及び転役
⑫其他軍機軍令に関し、臨時允裁を仰ぐを要する事項(防衛研修所『自衛隊と基本法理論』78~9ページによる)
 軍令事項の具体的内容は、大正末期には右のようであった。軍の内部規定としては、 「陸軍省・参謀本部・教育総監部関係業務担任規定」、「海軍省・軍令部業務互渉規程」に定められていた。いずれも天皇に上奏して允裁を得たものである。p130

開ざされた用兵面
 自衛隊では、軍政・軍令事項がどのように区分され、分担されているのであろうか。公表されている訓令には、これについて直接定めたものはない。わずかに「業務計画に関する訓令」(昭和34年訓令第14号)から、ある程度の推認ができるにすぎない。同訓令第2条は、用語の意義について定め、「(この訓令において)『業務』とは自衛隊法第6章に規定する自衛隊の行動に係る業務を除く業務をいう」としている。業務計画は毎年度の予算要求および執行の基礎となるものであり、防衛力整備5ヵ年計画(4次防など)と同じ性質のもの、つまり軍政の分野に属する。p131
 この対象から除かれているのが、隊法第6章「自衛隊の行動」関係なのである。第6章では、防衛出動、治安出動、防衛出動待機、治安出動待機、海上における警備行動、災害派遣、領空侵犯に対する措置の実施について定めている。この7つの任務を遂行するための各種の行為が、『統合用語教範』にいう広義の作戦または行動に含まれている内容なのである。これが自衛隊における作戦用兵―軍令の対象であると考えていい。用兵の系列における基本的計画は防衛計画と呼ばれている。とうぜん「防衛計画に関する訓令」があるはずであるが、公表されていない。「秘」扱いの内訓とされているのであろう。p131
 軍事力の建設と使用は、不可分の関係にある。自衛隊の軍事理論では、この両側面について決定するものを軍事政策または防衛政策と呼ぶ。それは国防政策の一部であって、防衛力の造成、維持ならびにその運用などに関する政策である。軍事政策は、①国家活動によって追求される基本的な目標である国家目的、②これを達成するため当面、国の努力を指向すべきところをしめす国家目標、③これを達成するため国の政治、経済、社会、軍事、その他各般にわたる国力を発展させ、これを運用することについて定めた国家政策というように順次導き出されてくるとされている。これらがどのように策定さているのか。公表されたものとしては57年5月20日、国防会議で決定された「国防の基本方針」が主なもので、国防政策といえるほの内容は含まれていない。p131
 だが、軍備増強計画と用兵計画は、相互連関をもって確定、推進されているのである。作用用兵は、軍事力の水準によって大きく影響される。つまり、時代の生産力の発展水準にもとづく兵器装備の特質と軍隊の社会的構成、編成配備の在り方が、窮極的には作戦用兵を規定するのである。装備近代化がすすめば編成配備にも変化が生じ、これに対応して戦略構想も積極的・攻撃的・侵略的な方向に転換していく。しかし他方では、国防用兵計画が軍備増強計画の規模と内容を決定していくのである。p132
 人的・物的戦力の客観的能力は、予算、装備、基地、兵員等の量質から、ある程度その概容を把握することできる。だが、それがどう使用されるかの用兵構想は、主として無形の意図であるにすぎない。しかも、侵略戦争計画、奇襲戦略が採用される場合、この意図は徹底的に秘匿される。とくに、強力な近代装備をもって相対する現代戦にあっては、軍事の分野に関するかぎり先制第1撃が決定的な意味をもつ。核ミサイル戦争がその典型であろう。p132
 こうしたわけで、帝国主義軍隊はその企図―作戦用兵計画に最高の秘密区分を指定するのである。旧帝国軍隊がそうであったし、自衛隊もまたそうである。用兵面こそ、国民から隔絶した自衛隊の、もっとも暗黒の部分であり、また、もっとも危険な側面である。これを解明することなしに、建設されつつある戦力の本質を捉えることはできないのである。

2  統合戦略見積

統合年度戦略見積
自衛隊制服組の最高機関である統合幕僚会議は毎年、次年度の統合戦略見積を作成する。また、必要に応じ次年度以降10年間の長期戦略見積を行なう。戦略見積とは、「戦略的な諸計画を作成するために実施する諸見積をいう。この場合の諸見積には、幕僚の行なう諸見積のほか指揮官の行なう情勢判断が含まれる」(『統合用語教範』)と定義づけられている。なお、見積(estimate)とは、「指揮官又は幕僚が、ある状況下において与えられた任務達成のためとるべき最良の行動方針を決定するために関係ある諸要因を分析評価検討して結論を求めること、ならびに将来のある時点又は期間における部隊等の各種能力又は必要とする人員、資材等の質及び数量等をあらかじめ概算することをいう」(同教範)とされている。p133
 統合年度戦略見積、統合長期戦略見積は、秘密区分「極秘」に指定される。年度のものとしては、「昭和40年統合年度戦略見積―資料」の一部が明らかにされている(参考資料13)。これについて72年5月17日、衆院外務委員会は秘密会を開いて審議している。この席における政府答弁にもとづき右文書の性格について分析しておこう。秘密会は同日午前11時10分から午後零時15分まで行なわれている。ことわっておくが、この秘密会の内容を、私が 「探知収集」したのではない。会議録として発行されているのである。奇妙な話だが、これは政府が秘密会においてさえ、まともな答弁をしていないことを物語っているといえよう。会議録にはとくべつ削除部分がしめされているわけではないし、また秘密会の席上、曽祢益議員(民社党)が、「きょうの議論を伺っていると、何ゆえに秘密会なのか全然わからない」と発言していることからも、そう判断できるのである。p133
 さて、久保防衛局長の秘密会における答弁によれば、右文書は統合戦略見積をつくるために幕僚が会議の討議資料として25部作成したものであり、これにもとづく討議の結果は戦略見積のなかに相当程度取り入れられている。だが、戦略見積作成後に右資料は廃棄されたという。では、なにが取り入れられたのだろうか。これについて、防衛当局の説明はない。「資料」は、自衛隊の核武装、海外派兵構想を明白に謳っている。方針の項には作戦準備は「核戦に対処することを併せ考慮する」とあり、また、「作戦実施の間に、必要な場合、核戦力の支援を得るものとする」とも述べている。さらに「自衛隊の行動区域は防衛目的達成のため必要な範囲とし、要すれば外国領域を含むものとする」と海外派兵の方向を打ち出してさえいる。この点について久保防衛局長は、次のように答えているのである。
「統幕をはじめ制服の人たちが考えますることは、きわめて軍事技術的な観点から考えております 。・・・・できれば相手国の基地をたたきたいという思想は確かにございます。・・・・ この資料にもありますように、可能であれば、わが方もやるんだという原則論が書いてあるだけでありますけれども、さっきも申し上げましたように、制服はやや勇み足と申しますか、そういうことで、わが国の政策には反することです。したがって、最終的に取り入れられる防衛計画の中では、これはすべて米側に依存するというふうに書かれております」。

果たして、そうなのか。「資料」にもとづき作成されたという戦略見積は、「極秘」文書であるとして、ついに国会には提出されなかった。「資料」自体も破棄したため存在しないという。したがって、たんなる討議資料であるという答弁も、にわかには信じがたい。むしろ、文書の内容から判断すれば、戦略見積の付属資料ではないかという疑問が生じる。なぜなら、そこに述べられているのは、『統合用語教範』にいう「見積」ないし「情勢判断」とは異質のものであって、むしろ自衛隊運用の基本を明らかにした内容であるからである。 この点からいえば、右文書は年度統合防衛計画の要約なのかもしれない。p134
統合長期戦略見積
戦略見積と防衛計画の関連について、江崎防衛庁長官は秘密会の席で、次のように説明している。
「年度統合略積というのは、防衛庁設置法の26条で、統合幕僚会議の所掌事務である年度の統合防衛計画の作成、これに資するために、統合幕僚会議事務局による幕僚研究、この作業を取りまとめたもの・・・・。この見積に基づいて、実際の自衛隊の運用の基本、陸海空それぞれの自衛隊の共同作戦の準拠について年度の統合防衛計画というものを詳密に作成をしていく」。p134
 年度戦略見積のほかに随時作成される統合長期戦略見積というのは、軍事政策の転換点、防衛力整備5ヵ年計画の立案時期などにつくられるものである。長期戦略見積とは、「将来における防衛戦略(注ー軍事戦略のこと)を検討して整備すべき防衛力の質的方向を明らかにし、もって防衛諸施策の策定に資することを目的とした戦略的見積」をいう(『統合用語教範』)。軍事戦略とは、武力の行使、または武力による威嚇によって国家目標を達成するため、国の軍隊を運用する方策をいう。つまり、先に述べた軍事政策の一部をなすものであって、最高の作戦用兵計画にあたる。長期戦略見積は、将来の軍事戦略を決定するために関係ある諸要因を分析、評価、検討して結論を導き出したもので、これにより防衛力整備の方向が定められるのである。p135
 戦略見積の構成について69年6月24日、宍戸防衛局長は、①内外の脅威の客観的見積、②わが能力の見積、③安保条約にもとづく米軍の能力、対日支援の期待度の見積からなると答弁している(衆院内閣委員会)。年度戦略見積については57年3月25日の衆院内閣委員会で、飛鳥田一雄議員(社会党) が次のように政府を追及したことがある。当時は戦略見積を情勢見積と言っていた。戦車が特車と呼ばれていた時期である。
「何か統合幕僚会議の中で統合情勢見積というようなことをやっておられるそうでありますが、これを伺いますと、対日作戦に使用することのできる兵力として、陸上は、開戦当初は約15師団、これを輸送力から見れば、大型船舶で5,6個師程度、小型艇では、1個師程度、空挺では1・5ないし2個師程度の同時輸送が可能だ、こういうことを統合幕僚会議の統合情勢見積としてお持ちになっているということであります。・・・それから航空の場合には、開戦当初各種機種合せて最大限2000機、このうち常時出動機数は約1000機ぐらいだろうというふうにお考えになっている、こう聞いておりますが、これでよろしいのかどうか。それから海上の場合には、潜水艦約120隻常時出動約40隻くらいとお考えになっておるように思われます。こういうものを私たちはあなた方の出したこの防衛6ヵ年計画の算出の基盤と考えていいかどうか」。
 当時の防衛庁次長 (現在の事務次官にあたる)は増原恵吉 (現防衛庁長官)であった。彼は次のように答えている。「周囲の情勢判断の中に、今お述べになりました数字に似たような数字のある場合もございます」。(なお、飛鳥田質問と同趣旨の資料は、堂場肇ほか著『防衛庁』〔56年9月〕150ページ以下にも掲載されている。)
 長期見積としては、「昭和44年統合長期戦略見積」(44L)の一部が報道されたことがある。69年8月6日、統幕事務局第5室作成の44L中間報告が統幕会議で承認され、9月25日、有田防衛庁長官に報告されたという](『朝日新聞』70・1・3)。その内容は、①全面戦争の可能性は少なく、直接、日本への侵攻作戦が行なわれることもない、②起こりうるのは朝鮮半島や台湾海峡での武力紛争の波及および間接侵略型の国内紛争である、③米国の極東戦略は、これまでのように紛争に積極的に介入する態度を変更し、自国の国益を中心に考えるであろう、④したがって日本は局地的紛争に独力で対処しうる体制を、これまで以上に積極的に進める必要がある、というものであった。こうした判断から69年秋の日米共同声明路線が生まれたのであったし、4次防計画が立案されていったのである。

仮想敵国についての証言
 戦略見積で「脅威」を分析評価する場合、もっとも重要なのは、仮想敵国の設定である。仮想敵国は本来、軍事政策ないし軍事戦略の次元で決定されるものである。自衛隊の軍事理論からすれば、それは国家目的・国家目標から導き出されてくるし、事実そうなっている。日本支配層が片面講和を選択し日米安保条約を締結したときから、その方向は明瞭にされている。「国防の基本方針」が「米国との安全保障体制を基調として」「外部からの侵略」に対処するというとき、「侵略者」としてどの国が想定されているかはいうまでもなかろう。p136
 だが、政府は一貫してこれを否定する。増原恵吉防衛庁次長は、さきの答弁(57・3・25)で、「いわゆる仮想敵国を想定するという形では私どもは作業をいたしておりません」と述べているし、60年安保締結のさいにも仮想敵国はないと答弁された。こうした政府の言明が2枚舌の欺瞞であったことは、三矢研究の暴露によって明らかとなった。同研究の統裁官であた田中義男元統幕事務局長は、恵庭裁判で次のように証言している。
で対象 れ 。
―(三矢研究で) 対象国は想定さましたか。
田中  はい。
―対象国というのは戦前、旧軍でよくいわれました仮想敵国という言葉とどういう関係になりますか。
田中  仮想であっても敵国というような表現をすることは非常に強い刺激を与えるということでありまして、とにかく研究をする上において必要なことを想定した相手であると、こういうような意味であります。
―三矢研究において対象国とはどこの国ということを決めてないということですか、決めているのですか。
田中  対象国はどこの国にしたかということにつきましては、これは、やはり防衛庁長官の許可を得てから申し上げたいと思います。
―あなた方のつかう言葉で言うと、北鮮・中共これは仮想敵国、対象国ではないですか。
田中  その点も防衛庁長官の許可を得てから申し上げます。
―それも「機密」なんですか、理由は。
田中  これは今まで対象国、どこだということは、政府は申しておらないはずです(65・5・28第19回公判調書による。一部省略)。
 こうして田中元陸将は証言を回避し、防衛庁も承諾を与えなかった (第1篇参考資料5、109ページ参照)。だが、「政府は申しておらない」にもかかわらず、防衛庁中枢では対象国として具体的な国名をあげて設定していることが明らかになったのである。三矢研究の場合、具体的な国名は記載されていなかったが、その他の機密文書には書かれていたのであろう。p138
 おなじく自衛隊裁判として闘われている長沼ナイキ基地事件で、元空幕長源田実参院議員がこの問題について証言している。
―いやしくも国家が軍隊を持った場合に、当然、想定敵国というものを想定をする。そして、国防の方針なり兵力量を決めていく、これは当然のことでしょうね。
源田   一般的にはそうですけれども、現在の日本では、想定敵国という考え方および言葉を用いないようにしております。
―対象国、あるいは防衛対象国という言葉を用いることはありませんか。
源田   対象国という言葉も、現在日本の政府および防衛庁関係、そういうところでは使っていないと思います。(70・10・9第6回口頭弁論調書による。一部省略)

対象国X・Y・Z
源田証言が真実であるとすれば、三矢研究が実施された63年時点には設定されていた
が、現在は消えているのであろうか。そうではない。『統合用語教範』には「対象勢力」の語があり、「防衛及び警備上の対象となる国内及び国外の勢力をいう」と規定されている。 いまも「対象」はある。しかし国名をあげず、たんに「勢力」と呼ぶように変更されたのであろうか。確かに68年ごろ、対象国についての取扱いが変化した。増田甲子七防衛庁長官の時期である。その間のいきさつについて、毎日新聞社編『安保と自衛隊』は、次のように述べている。
「現職の制服は立場上、公式には(仮想敵国について)はっきりした意見は述べない。しかし、非公式の話となると『ソ連は』、『中国は』、少しもはばからない。仮想敵国はあるのかないのか、それはソ連かどこか―こういう議論は、制服にとっては論外ということかもしれない。ところが仮想敵国はおろか、防衛対象国という言葉のタブーだ。防衛計画に中ソの具体的地名を織込むこともご法度。 『長官命令ですからね、従わざるを得ませんよ。でも、やりにくくなったな』制服のトップクラスはこぼしている。p138
 増田前長官の言い分を聞こう。『条約とか国策で決定した場合が、仮想敵国です。しかし、安保はそんなことうたっていないし、閣議で決定したわけでもない。だから仮想敵国はないよ。・・・・・』(同書208ページ)。
 どうやら、閣議決定にもとづく仮想敵国はないが、防衛庁かぎりの対象勢力はある、ただし社会主義圏の国名や地名は文書には記載しない、ということらしい。長官命令が出たのは68年3月16日の衆院予算委員会で、岡田春夫議員(社会党)が菊・はやぶさ演習想定を暴露したことが直接の契機であったとも伝えられている。想定は樺太、千島、沿海州を領土とする赤国と自衛隊が交戦するというもので、ソ連が仮想敵国とされていることに疑問の余地はなかった(菊・はやぶさ演習については藤井『自衛隊の作戦計画』52ページ以下参照)。
 では、現在の統合戦略見積あるいは防衛計画のなかで、対象国はどう表現され ているのだろうか。前述した衆院外務委国秘密会(72・5・17)で久保防衛局長は、こう説明している。

「40年度のときは、たしか外国の名前をあげてあったと思います。それから41年度ぐらいからかと思いますが、周諸国については特定の名前をあげておりません。・・・40年度でなく、それ以降の統合防衛計画あるいは戦略見積の中に使われておりまするローマ字そのものは外国の名前であります。・・・統合戦略見積あるいは防衛計画の中で使われておるZは、外国の名前であります」。p140
 
 久保防衛局長は統合防衛計画、統合戦略見積は、Zというローマ字で特定の外国を表現しているという。久保答弁の前後の関係から推定すれば、Zはどうやらソ連をさすらしい。とうぜんX、Yは中国、北朝鮮ということになろう。なんのことはない。国名は記さないが、国外対象勢力はX・Y・Z国とされ、それはソ・中・北朝鮮を意味しているのである。
 これと同じ手口は、陸上自衛隊の『対抗部隊』教範でも使われている。この教範は訓練用に使用するとの口実のもとに、仮想敵国軍の編成、装備、戦略、戦術を研究、集約したものである。それは3部からなり、甲はソ連、乙は中国丙は北朝鮮に関するものであって、その秘密区分は甲が「秘」、乙、丙が「極秘」となっている。
 第2図は情勢(戦略)見積と防衛計画作成その他との関連をしめしたものである。p140

3 最高の作戦計画

中期戦略目標計画
 戦略見積にもとづいて作成される自衛隊最高の作戦計画が統合防衛計画をはじめとする防衛計画である。策定手続、計画事項そのものが秘匿されているため、その実体を把握するのはもっともむずかしい。ただ1つ、56年5月に陸上自衛隊幹部学校が作成した「部外秘」文書『野外令―大部隊(第1次案)』に、これについての記述がみられる。その第2章第3節は「防衛計画」と題し、冒頭で次のように述べている。p141

(a) 防衛計画は、自衛隊の任務達成のため、予想されるすべての情勢に対応するように、平時から自衛隊の最高指揮機関、陸上・海上・航空自衛隊の最高指揮機関及び所定の大部隊において、あらかじめ策定準備する.
(b)自衛隊の最高指揮機関は統合防衛計画を、陸上・海上・航空自衛隊の最高指揮機関は統合防衛計画に基づきそれぞれ主任務遂行のための防衛計画を策定する。
 防衛計画は、通常これを長期(要求)計画、中期(目標)計画及び短期(能力または緊急)計画
 に区分する。
短期計画中、防衛作戦に直接関連するものは年度防衛計画である。
 防衛計画の策定要領は別に定めるところによる。p141

上のような構成は、今日も基本的には変わっていない。長期・中期防衛計画の策定を担当させるため1961年、統幕事務局に第5幕僚室が新設されている。防衛庁筋によれば、防衛庁長官の決裁を得たものとしては、今日もなお年度統合防衛計画だけしかないという。だが、それ以外に、一定の意義をもつ計画が作成されていることは確かである。『統合用語教範』にも、「中期戦略目標計画」の語があり、これは「防衛力整備計画に対する統合的な軍事要請として、対象期間末頃における防衛戦略構想を樹立し、これに基づく所要防衛力を検討するとともに、対象期間における防衛力整備その他統合的施策を要する事項についての戦略上の見解を明らかにすることを目的とした計画である」と解説されている。p141
 つまり、中期計画とは防衛力整備5ヵ年計画の策定に先だち、計画末期の軍事戦略をたてて軍事的見地からの要求をしめすものなのである。これに相当するものとしては、1959年に統幕事務局がまとめた「第2次防衛力整備計画に対する軍事的要請」をあげることができよう。その第1部「防衛力整備上考慮すべき基本的考え方」は、戦略上の分析と要を示して次のように述べているのである。

㋑核兵器は侵略者に対し、大なる侵略の代償を要求するので、防禦兵器としても効率的であるといわれる。軍備は本来精強を目的とするものであるから、核兵器を導入することは軍事的に当然の要求であろう。
㋺現在ソ連は核兵器を保有しており、核戦争の生起を抑止する決定的方策のない現在、わが防衛作戦において、核戦争を全面的に否定することはきわめて困難かつ危険である。また、米国は戦略的にも戦術的にも核戦力を中心とした装備を行なっているので、連合作戦においては米国は核使用を行なう可能性がある。したがって米国と連合して共産陣営に対抗するわが国としても、核戦遂行力を保有することは望ましいと考えられる。
㋩さらに、将来中共、北鮮、南鮮等が核装備を行なうことになれば、軍事的バランスの保持上、わが核装備が要求されるであろう。
㋥したがって対核戦能力は勿論、防禦用兵器を中心とする戦術核程度の使用能力は軍事的に見れば保有するべきであろう。

年度統合防衛計画
 上言からは、65年度の統合戦略見積―資料と共通する戦略思想を読み取ることができよ う。こうした軍事戦略にもとづいて作成されるのが、年度防衛計画である。これについて前掲『野外令―大部隊(第1次案)』はいう。
「年度防衛計画は、当該年度内においてその時機のいかんにかかわらず、現有する防衛戦力をもって実施する


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