2009年3月31日火曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

A級戦犯たちは、拘置所にいる間に自分のやったことを反省するでもなく、反対に正当化する方向に傾いたようだ!広田を除いては。

『落日燃ゆ』(城山三郎:新潮文庫)より
 処刑はまず、東條・松井・土肥原・武藤の組から行われた。
Pマークのついたカーキー色の服を着た4人は、仏間で花山の読経を受けたが、そのあと、誰からともなく、万歳を唱えようと言う声が出た。そして、年長の松井が音頭をとり、「天皇陛下万歳!」と「大日本帝国万歳!」をそれぞれ三唱し、明るい照明に照らされた刑場へ入った。
 広田・板垣・木村の組は、仏間に連行されてくる途中、この万歳の声を聞いた。
 広田は花山に言った。
「今、マンザイをやってたんでしょう」
「マンザイ?いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣の棟からでも、聞こえたのではありませんか」
 仏間に入って読経のあと、広田がまた言った。
「このお経のあとで、まんざいをやったんじゃないか」
 花山はそれが万歳のことだと思い、
「ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ」と言い、「それでは、ここでどうぞ」と促した。
 だが、広田は首を横に振り、板垣に、
「あなた、おやりなさい」
 板垣と木村が万歳を三唱したが、広田は加わらなかった。
 広田は、意識して「マンザイ」と言った。広田の最後の痛烈な冗談であった。
 万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い知ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才ではないのか。
 万歳!万歳!の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突き崩してやまなかった悪夢の声でもある。広田には、寒気を感じさせる声である。生涯自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちと、心ならずも一緒に殺されていく。このこともまた、悲しい漫才でしかないー。
 刑場に入る。
 検視に立ち会う連合国代表や将校たちが立ち並んでいる。その前を、つぶやいたり、経文を唱えたり、ほとんど歩けなくなったりする中で、広田1人が、並んでいる異国の男たちの顔を1人ずつ眺めて通り過ぎた。それは、柔道場で相手チームの選手を見改めるようでもあり、また、パーティのの席で客の1人1人に目をこらす外交官当時の姿のようでもあった。
 広田の処刑は、12月23日午前零時20分。
 朝のラジオは、処刑のニュースを全国に流した。
 重光は獄中で詠んだ。
  「黙々と殺され行くや霜(しも)の夜」
 そして、
  「父は尚生きてあるなり寒椿(かんつばき)」
 この同じ日、広田と同期の吉田茂は、国会を解散した。
 野党である社会・民主・国協の各党は、昭和電工事件で傷ついたままの状態であり、総選挙では、吉田の党の大勝が約束されていた。
 その総選挙はまた、新憲法公布下の最初の総選挙である。
 「日本を滅ぼした長州の憲法」の終焉を告げる総選挙でもあった。


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 劉永興(男、71歳)の証言
 日本の軍隊は冬月11日にやってきました。そのころ私の家は張家衙19号で、裁縫を業としていました。家には62歳の父と61歳の母、21になる弟と私の19歳の家内とがいて、みんなで5人でした。私はその頃24歳で、その年の8月に結婚したのです。冬月10日の午前中に、一家そろって大方巷14号の後ろの難民区に移りました。
 冬月14日はよく晴れた日でしたが、5人みんな家の中に隠れていて、出られませんでした。午後3時ころ、日本兵が1人闖入してきて、私と弟に手を降りまわして、自分に付いて行くように命じるので、付いて出るしかなかったのは、前に銭という名の私塾の先生が日本兵の命令を聴かずに、銃殺されてしまったことがあるからです。外に出たら、売国奴の通訳官が私たちに、下関の中山埠頭へ行って東京から来た荷物を運ばせるのだと言いました。同時に出されてきた中に、私の家の近くの30何人かもいました。私たちはまず広場へ連れて行かれたのですが、もう暗くなろうとする頃で、いっぱい人が座っていました。日本軍は私たちを6人から8人の列にして、中山埠頭へと歩かせました。
 私と弟とは一般市民の隊列の先頭を歩きましたが、銃を手にした日本軍の一個小隊が一番前で、続いて捕虜になった国民党の軍人と警官が30数人、その後ろに捕まった一般庶民でした。隊列の両側を日本軍が護送し、馬の背に30何挺かの機関銃を担わせ、一番後ろが馬に乗った将校でした。道を行く間ずっと、両側にたくさん男女の死体が転がっていて、ほとんどが一般庶民でしたが、中央軍のも一部ありました。
 下関の中山埠頭の岸辺に着いたら、日本軍が私たちを長江の岸辺に座らせ、周りに機関銃を据えつけました。様子がどうもおかしい、屠殺してしまおうとしているみたいだと私は感じ出し、日本軍に撃ち殺されるよりも、長江に跳び込んで死んだ方がマシだ、と心に思い、傍らの人と一緒に跳び込もうと相談しました。日本軍が後ろで人々を縛り上げてから、機関銃で掃射し始めました。もう暗くなって、月も出てきましたが、たくさんの人が次々に河に跳び込み、私と弟も跳び込みました。日本軍は急いで、機銃掃射を続けたほかに、手榴弾を長江に投げ込みました。跳び込んだ人たちは、弾に当たって死んだ者もあれば、体じゅう傷だらけになった者もあり、悲惨なうなり声と、叫び声とが、辺り一面に響き渡りました。ひとしきり混乱して、私と弟と離れ離れになってしまい、それからもう見つかりませんでした。私は流されるままに軍艦の辺りまで近づいたかと思うと、又浪に打たれて岸辺まで押し返されました。死体の上に伏せたまま、恐くて身動きできませんでした。突然、弾が一発背中すれすれに飛んできて、長い綿入れがちぎれました。猛烈な機関銃の音が、耳をつんざき聞こえなくなり、今もまだ好くなっていません。。機銃掃射の後、日本軍は死体にガソリンをかけ、火を放って燃やし、死体を跡形も無くしてしまおうとしました。夜も、日本軍は岸辺で寝ずの番をし、岸辺に漂ってきた死体を見つけては、銃剣でやたらに突き刺しました。私は岸からかなり離れていて、銃剣が届かず、死を免れたのでした。
 夜が明ける頃に、長江から岸に這い上がり、幸運にも生き残れた者が10人にも達していないと分かったのですが、岸辺の人たちは1人1人みんな焼けただれて、見るに忍びない惨状でした。私はほとんど1晩長江に浸かっていたので、身体中がしびれ切ってしまい、恐がるのすら気付かずに、死んだ人の着物にすっかり着替えて、農民が掘った防空壕まで這っていき、その壕の中に1日中隠れていましたが、1日何も食べず、水も飲まず、飢え渇いてしまいました。(冬月15日)日が暮れようとする頃に、防空壕から這い出し、道を知らないので、ただやたらと走るしかありませんでした。三所村まで駆けてくると、尼さんの庵が1つあって、その庵の近くに少なからず農民が住んでいたので、その人たちによく説明して、やっと泊まらせてもらいました。それから又日本軍に捕まってクーリーをさせられたり、お茶を沸かしたりご飯を炊いたりさせられて、陰暦の12月28日になって、日本軍が小丹陽へ行くことになり、やっと家に帰ったのです。
 弟が捕まってから、父親がずっと杖を突きつつ涙ながらに方々尋ね歩きましたが、弟はもう帰って来ませんでした。あの時に殺害されたのだと思われます。後で知ったのですが、この時中山埠頭での大虐殺をやらかしたのは中島部隊でした。(陳小敏と湯雲龍が記録)

   
「Imagine9」【合同出版】より



武器をつくったり



売ったりしない世界



世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月30日月曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

『落日燃ゆ』(城山三郎著:新潮文庫)にA級戦犯のことが書いてある。本当にこの7人だけが戦犯なのか大いに疑問である。


 この結果、マッカーサーが諮問する形で、11カ国の在日極東委員会代表の会議が開かれたが、これは形だけのことで、すでに答えは決まっており、再審請求は却下。このあと、7人へのもとへの新聞の配布も止められた。
 7人は、他に誰もいない第一号棟で、死のときを待った。 
 死出の旅を共にする仲間として、広田にとって、残りの6人は、あまりにも異質であった。呉越同舟とはいうが、にがい思いを味わわされてきた軍人たちに、最後まで巻き添えにされ、無理心中させられるかっこうであった。
 土肥原、板垣の両大将は、満州・華北・内蒙古で謀略による事件を惹き起こし、外相広田の対中国和平交渉を挫折させた。
 武藤中将は、組閣本部にのりこみ、外相候補吉田の追放などを要求、広田内閣の組閣を妨害した男である。
 東條大将は、広田ら重臣の参内を阻止し、対米開戦諌止(かんし)論に耳をかそうともしなかった。
木村兵太郎大将は、その東條の陸相時代、次官として補佐した男であり、松井大将は、南京における麾下(きか)部隊を統制できず、結局、広田にまで「防止怠慢の罪」をかぶせる結果となった将軍である・・・・・。
 そうした軍部そのものである男たちと同罪に問われ、同じ屋根の下で、同じ死刑の日を待たねばならない。
 もちろん、ここでは、すでに6人とも憎めない男に帰っていた。ある者は、気のやさしい男であり、ある者は、腕白坊主のように無邪気なところのある男である。軍服を着こみ権勢を極めていた日々のことが、嘘のようにさえ思えてくる。
 だが、統帥権独立を認めた「長州のつくった憲法」のおかげで、彼らはたしかに猛威をふるい、その結果として、いま、たしかに死の獄につながれていた。背広の男広田という付録までつけて。
 同じ死刑囚とはいえ、広田と他の6人に心の底から通い合うものはなかった。

 そのころ、巣鴨では、仏教学者花山信勝が、戦犯とくに死刑囚のための教誨師をつとめていたが、花山は、死刑宣告後のA級7人に対しても、順次、個人的な面接を持ち、死の心用意をさせはじめた。
 広田に対しては、11月17日、第1回の面接、1時間。花山は、B・C級戦犯の処刑前の心境の変化などについて話したが、広田はただ黙ってきくばかりで、これという発言をしなかった。早くから覚悟のできている広田にとって、いまさら教誨師に心用意させられることは、何もなかった。むしろ、わずらわしいばかりであった。
 仏間に集められ、死刑囚一同そろって、花山に合わせて念仏を唱えるときも、広田ひとり黙って経本を読んでいた。
 第2回の面接は、1週間後の24日でやはり1時間。
 署名運動や広田の家族の話などを花山が伝えると、広田はときどき微笑したが、このときも、広田からとくに話をすることはなかった。他の6人がしきりに仏教の話を聞きたがったり、あるいは心境や覚悟を語り、遺詠を伝えたりするのにくらべ、ひどく対照的であった。
 ただ、広田はこのとき、トイレット・ペーパーにくるんだ髪と爪を家族に渡してくれるように花山にたのんだ。
 第3回の面接は、11月26日午後3時から25分間。
 相変わらず無口な広田に、花山はたまりかねて、たずねた。
「歌か、あるいは詩か、感想か、何かありませんか」
「公(おおやけ)の人として仕事をして以来、自分のやったことが残っているから、今さら別に申し加えることはないと思う」
 広田のそっけない答えに、花山は重ねて訊いた。
「でも、何か御感想がありやしませんか」
「何もありません、ただ自然に死んで・・・・・」
と、そこで言葉を消す。花山はさらに、
「他に何かありませんか」
「・・・・・すべては無に帰して、いうべきことはいって、つとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何もいうことは事実ない、自然に生きて、自然に死ぬ」
 花山は真宗の僧侶でもある。広田のその境地が禅によるものかときくと、広田は、禅に近い、と答えるだけであった。
 広田が感情の動きを見せたのは、前日、広田の家族5人が面会にきたが、感謝祭の祝日のため帰されたという話を、花山がしたときであった。
 広田は、すぐ、立会いの将校に英語で、いつ面会できるかをきき、月曜日の9時という返事を得た。・・・・・・・


「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺
 孫漢皋(男、71歳)の証言
 私は19歳の年に、南京に来て大工(臨時雇い)をしていましたが、国民党に徴発されて国民党参謀本部の造炮台へ行き、老虎山に何年か住んでいました。民国26年の冬月だったと思いますが、私が24歳の時でした。ある日の晩、国民党の上の人が私たちに入ってこさせはしても、出て行かせないでいて、私たちにこう言いました。「お前たち恐がらないでいい。日本兵が本当にやってきても、我々には岸辺に軍艦が3隻あるから、お前たちを重慶まで乗せて行ってやれる」。その日の夜12時に、飯炊きの男が岸辺に水を汲みに行ったところ、軍艦3隻がいなくなっていたので、帰ってきて私たちにそのニュースを知らせました。私は内心、やたらなことは言えんぞ、むやみなことを言うと銃殺もんだ、と思いました。3日目に、日本軍が中山橋と老虎山一帯を包囲し、教導隊が日本兵と銃剣で渡り合うのを老虎山の上からこの目で見て、私も山から石を日本兵にぶつけましたが、衆寡敵せずで、日本軍が老虎山を占領しました。日本軍は年取った人たちを集めて、ガソリンをかけて活きたまま焼き殺し、何とも見るに忍びないものでした。日本軍は私たち年若い者たちを一箇所に集めると、5人1組にしてしばりつけ、上元門まで連れて行って、一群又一群と機銃掃射で死なせていきました。午後の5時から9時までずっと掃射していたのです。私のいた一群の番になったのは、既に6時過ぎで、もうだいぶ暗くなっていました。機関銃が私に狙いを付けた時、私はもう腰をかがめていたので、私は機銃掃射に当たらず、私の前や後ろに立っていた人たちがみんな撃ち殺され、その血飛沫が私の身体中にかかりました。その時は私は死体に押し付けられて、死んでいないと分かりましたが、でもどうやったら逃げられたでしょう。私を縛っている縄が少しゆるんだので、親指の爪で手の上の綱を擦りに擦ったら、縄がいくつかに切れました。切れないところを、私の金歯3つで噛んで噛んで噛んだら、とうとう縄が噛み切れて、やっとのことで死人の累積から這い出したのです。そうしたら私の目の前は至る所死人ばかりで、国民党が宝塔橋から燕子磯まで掘った深さ3メートルに幅3メートルの塹壕の中に、全部死人が詰め込まれていました。。私は死人の下からそうっと這って行き、和記洋行まで駆けていきましたが、その頃そこが世界紅卍字会の場所だったので、そこで中国人がたくさん働いていて、門番の詰め所にいる者、清掃係、雑役など、みんな腕に紅卍字の標識をつけていました。私が門を叩いたら、門番さんが中国人で、門を開けるなり、私が全身血まみれなのを見て、体をきれいに洗うように、雑巾を一枚渡してくれ、外側の汚れた服を脱がせてくれました。その時私はチョッキ一枚と猿股を一つ身につけていただけで、冬だったのに、ちっとも寒く感じませんでした。そこの人たちがマントウ(饅頭=蒸しパン)を2つくれたのを、すぐに食べ終わり、水道の水を少し飲みました。丁度その時、日本兵がきて門を叩いたので、みんなは私に急いでテーブルの下に隠れさせましたが、テーブルの周りに布がぐるっとかかっていたものの、椅子がそばにあったので、みんなは日本兵が椅子に腰掛けて、足がテーブルの下に届くといけないので、急いで椅子をテーブルから遠く離れたところへ運びました。日本兵が入ってきても誰も見つからず、紅卍字会のドイツ人に追い返されていきました。紅卍字会で働いている中国の人たちが私の状態をドイツの人にはっきり話してくれて、私を留めて紅卍字会で働けるようにしてくれました。私たちはしょっちゅう屍を片付けに出かけていきましたが、宝塔橋一帯はあまねく機銃掃射で撃ち殺された中国人ばかりで、世界紅卍字会では屍を1つ片付けるごとに、数字を1つ書き入れました。これらの数字は日本軍が南京でやった大虐殺という犯罪の証拠です。翌年(1938年1月か2月)に、私は又日本兵に捕まりましたが、私が大工で、「中央軍」でないことが分かり、殺されませんでした。(甄秀が記録)

   
「Imagine9」【合同出版】より



武器をつくったり



売ったりしない世界



「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月29日日曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

戦後の東京裁判で南京大虐殺を裁いたがそのときの様子が城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)に描かれている。

 七月も終わりになって、法廷の冷房装置が完成し、涼風に洗われるようになった。
 だが、冷房になれないためか、被告たちは腹をこわし、平沼、白鳥が入院した。80歳になる平沼は、肺炎が治って病院生活から戻ったところで、また、再入院となった。
 涼しくなった法廷では、しかし、南京などにおける日本軍の虐殺事件についての陰惨な証言が、8月半ばまで続いた。
 広田が外相時代、その一部について報告を受け、再三、杉山陸相に抗議した事件であるが、いまは広田が「殺害の共同謀議」に関係ありとし、また、その「防止の怠慢」の罪を問われている事件でもある。
 慈善団体役員という中年の中国人が証言台に立った。
「私は死体が至るところに横たわっているのを見ましたが、その中のある者はひどく斬り刻んであったのであります。私はその死体が殺された時の状態のままに横たわっておるのを見たのであります。ある死体は身体を曲げており、又ある者は両足を拡げておりました。そうしてこういう行為は皆、日本兵によって行われたのでありまして、私は日本兵が現にそういう行為を行っておるところを目撃したのであります。。ある主な大通りのところで私はその死体を数え始めたのでありますが、その両側において約500の死体を数えました時に、もうこれ以上を数えても仕方がないと思って止めたほどであります・・・・・・・」
 アメリカ人宣教師が証言する。
「強姦は至るところにおいて行われ、多数の婦人および子どもが殺されたのであります。もし婦人が拒絶するとかあるいは反抗する場合には、それは突殺されたのであります。私はそういう写真および活動写真を撮ったのであります。すなわちそれによりますと、婦人が首のところを切られ、もしくは全身にわたって突刺されておったのであります・・・・・」
 南京大学教授が出廷する。
「約5万人の日本軍兵士は避難民から寝具・台所用具ならびに食料品をたくさん取ったのであります。占領してから6週間という間は、市内のほとんどあらゆる建物がそういう遊歩する兵士の団体によって侵入されたのであります。場合によってはこの略奪は非常に組織的に行われたものでありまして、軍用(トラック)の多数が使用され、将校の指揮に依ったものであります・・・・・」
 法廷は静まり返り、嘆息だけが漏れた。重光は日記に書く。
「醜態耳を蔽(おお)わしむ。日本魂腐れるか」
 また次の日の日記にも、
「その叙述惨酷を極む。嗚呼聖戦」と。
 証言は次々と続き、多くの宣誓口供書や証拠書類が出され、検察側のこの事件にかける並々ならぬ熱意が読み取れた。
 俘虜虐待という罪だけで、同じ巣鴨にいるB級C級戦犯たちが、折から次々に処刑されていた。旧日本軍占領地の各地でも、競い合うように処刑が行われている。それを思えば、この大量虐殺事件の責任追及は極刑でしかないことは、明らかであった。
 幸か不幸か、この問題の最高責任者である松井石根(いわね)元中支那派遣軍最高司令官は、ちょうどこのとき、胃病のため入院中で、松井の運命をゆさぶる陰惨な証言の数々を聞かないですんだ。
 このため、法廷で自分に関係あるものとしてきいたのは、広田だけであった。広田はもちろん、こうした「殺害」にも、「殺害の共同謀議」にも関係はなかった。「防止の怠慢の罪」を問われるわけだが、しかし統帥権独立の仕組みの下で、1文官閣僚として何ができたというのであろう。
 だが、検事団が広田にまで照準を当てていることは、明瞭であった。そして、広田が自己弁護に立たぬ気持ちも、はっきりしていた。その結果がどういうことになるか、広田に予感がないわけではなかった。
 法廷が開かれる日には、広田の娘2人が必ず傍聴にきた。これに気付いた法廷の警備隊長が親切な男で、記者席の最前部に2人の席を用意してくれるようになった。
 といっても、言葉一つ届くわけではない。入廷してくるとき、広田は娘たちと視線を合わせる。そして、閉廷して立ち上がるとき、娘たちは再び広田に目礼を送る。ただそれだけである。
 娘たちは、周りの新聞記者のように、そこで暴露される「歴史の真実」や法廷闘争に興味があるわけではない。ただひとときでも、同じ屋根の下に広田とともに居て、広田を見つめていることで、安堵を感じた。自殺した母静子の霊も、そのとき父娘とともに居る感じであった。・・・・・・


 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 萬澄泉(男)の証言
 1937年の冬に中国侵略日本軍が中国に攻め込んできた時、私は蕪湖の黄朴人医学校から南京第八陸軍病院に移ってきて抗日運動に加わり、医科中尉になりました。日本軍が上海を占領した後、外交部が南京から後方へ移転したので、我が陸軍病院が外交部のあった建物に移りました。日本軍が鎮江と句容と蕪湖との三方面から攻めてきて、南京の危機が旦夕に迫りました。唐生智が撤退した後、軍は大混乱し、12月のある晩に全軍が退却しました。日本軍が三方から攻め込んできたため、江北だけが活路で、何十万もの軍人と民間人とが長江を渡ろうと争っていて、私と病院の同僚何人かも、下関の挹江門から城外へ逃げ出しましたが、岸辺はただ波がゆらゆらするだけで、船は大きいのも小さいのも一隻も姿を見せず、どうしようもない状態で、みんな争って戸板をはずしたり、筏を組んだりして長江を渡ろうとしていました。とても寒い頃で、たくさんの人が長江の底へと沈んでいくのを目にしました。私は泳げないので、筏に乗ることもできず、ただ岸で死を待つばかりでした。明くる日、日本軍がやってきて、残酷にも機関銃で水面を猛烈に掃射したので、凡そ水面に漂っていた人たちはみんな射殺されました。私と同僚何人かは散りじりになり、1人だけになった私は同郷の蕪湖の人一人とぴったり離れずに、幕府山のふもとにある村まで逃げてきたところ、午後4時ごろに、既に3,40人にもなっていた人たちがある防空壕の前まできて、壕に隠れようと主張する人たちもいましたが、私は壕は安全でないと思い、別に見つけたあばら家に一晩泊まろうと言いましたら、5、6人が私に賛成しました。あばら家は防空壕から遠くなかったのです。2日目の朝、日本兵が村にやってきて、一般の人が村では見つからず、防空壕の前まで来て、通訳に壕の中へ「中にいる者はすぐに出てこい。さもないとブっ放すぞ」と叫ばせましたが、壕の中では何の声もせず、日本兵が中に向かって手榴弾を十数発投げ込んで初めて、痛ましい叫び声が壕の中いっぱいに響いただけでした。しばらくして、日本兵は私たちの泊まったあばら家も探して、私たちに手を挙げさせ、平服に着替えさせましたが、その時は私たちを殺害せずに、私たち6人を3組に分け、日本軍の小隊3つが村々に中国兵を捜しに行くのにいずれも私たちを連れて行けるようにし、その道々、中国人と見るやすぐに発砲して射撃して、少なからぬ人々を撃ち殺したのを私は見ました。下関の汽車の駅から遠くないところまで行くと、工事用のバラックが一つあり、日本兵が東側から火をつけてバラックを焼いていると、バラックに隠れていた中国人が逃げ出してきて、その人たちを日本兵が銃で撃ち射殺しました。それから岸辺まで行くと、岸から船まで渡る踏み板が1つ、長江へまっすぐに伸びていて、その踏み板の下に何百人もが殺されていました。岸辺にはここかしこに被害者の屍がうずたかくなっていて、見るに忍びない有り様でした。
午後3時頃に、日本軍は私たち2人を放してくれたので、2人で又ある村に戻って泊まりました。明くる日、一個小隊の日本兵が又やってきて、私たち2人についてくるよう命じました。途中で又中国人3人と出会い、日本兵は検査して、この3人は中国兵だとみなし、この3人を前に、私たち2人を後ろにして進んで行くと、屋根は焼け落ち土塀は四面とも倒れていない家屋の前まで来て停まりました。日本兵が1人目に家の中に入れと命じ始め、入っていかないので、日本軍は銃で無理に入って行かせようとし、まず銃剣で3度突っつき、それから発砲して撃ち殺しました。2人目も同じように押し入れようとして銃で撃ち殺しました。3人目は活きられないと知り、入口の外でひざまずきどうしても入っていかないのを、日本兵が入口の外で撃ち殺しました。4人目は私の番になり、私は活きれる見込みはないと見て、連中と命がけでとことんやってやりたかったのですが、身に寸鉄も帯びていなくて、闘っても死ぬんだし、逃げ出しても日本軍の銃口からは逃げ切れないと思いました。そんな風でボーッとしていました。すると、日本兵は銃剣が血だらけだったので、私の長い綿入れに銃剣をすり付けて血をふき取りました。どういうわけか分かりませんが。私には悪辣な手段をもてあそばしませんでした。私の後ろの1人も命を取り留めました。それから私たち2人下関の宝塔橋難民区に入って、ずっと安全でした。私は南京大虐殺からの生き残りで、その証人でもあります。(1991年1月14日に劉相雲が当人からの手紙を基に整理)

 
  
「Imagine9」【合同出版】より



軍隊のお金を



みんなの暮らしのために使う



世界



世界中の政府は、2000年に、貧困をなくすための一連の目標に合意しました。国連の「ミレニアム開発目標」と呼ばれるもので、2015年までに次のような目標を達成するとしています。

●極端な貧困や飢餓をなくす(1日1ドル以下で暮らす人を半減する)。
●すべての子どもたちが、女の子でも男の子でも差別なく、学校に行けるようにする。
●赤ちゃんが栄養失調で命を落としたり、お母さんが出産時に亡くなってしまうことを防ぐ。
●HIV(エイズ)、マラリアなどの感染症の広がりを止める。


 こうした目標を達成するためには、世界的に軍事費を減らし、人々の暮らしや発展のためにお金を回すことが不可欠です。
 国連憲章には、「世界各国は軍事費に回すお金や資源を最小限にしなければならない」(第26条)と書かれています。世界のNGO(非政府組織)は、この国連憲章26条を今こそ実行し「軍事を減らして人々の発展に回そう」という運動を始めています。そうした世界の人々の中からは「国連憲章26条と日本国憲法9条は、同じ目標のための双子のようなものだ。ともに発展させよう」という声が上がっているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月28日土曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺の発生当時外相であった、広田弘毅が日本国内で軍部にいろいろと抗議していたとき、吉田茂駐英大使は次のようにコメントしている。(吉田は戦後5回総理大臣に任命されている。麻生総理の祖父、旧吉田邸は3月22日に全焼した。)
 『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース』から(ラーベによる抄録)『南京の真実』より
 
 1938年1月30日
 日本大使は懐疑的
 ロンドン、1938年1月29日。吉田茂駐英日本大使は、本日『デイリー・スケッチ』のインタビューで、中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に遺憾の意を表明するとともに、次のように付け加えた。わが国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとはきわめて考えにくいことである。そのような行為は我々日本人の伝統とまったく相容れないものであり、わが国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。日本軍は非常に規律正しいのだ。

 (日本人としては信じられない事件だった。外交官生活が長く、戦時中の本当の日本軍の姿を知らない人の発言だ。)
 
 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 劉喜権(男、55歳)の証言
 1937年には私はやっと8歳で、家は南京の下関区宝塔橋東家巷493号でした。
 1938年の1月末か2月初め頃のある日の午前、およそ10時頃だったと覚えているのですが、とても寒く、粉雪が降っているときに、私はお婆さんの劉桃氏と家にいて外で機関銃の音がするのが聞こえました。銃声が止んでから、お婆さんが私を連れて父を探しに外へ出ました。何日か前に父の劉城坤が、日本兵に捕まって連れて行かれ、私はお婆さんとどこを探しても見つからなかったのです。下関(シャーカン)の煤炭港で、この目で見たものは、煤炭港の至る所死人ばかりで、地が血でいっぱいだったことです。その日の午前10時過ぎから午後までの時間に、腕に卍字会の腕章を付けた少なくない人たちが屍を片付けていて、4人で屍1つを抱え、大きな溝まで運んで積み重ねるのを見かけました。溝は卍字会の屍を片付ける人たちが掘ったのです。
 父が日本兵に捕まって行った後、南京の下関煤炭港一帯で日本兵に殺されたというのが、叔父が自分の目で見かけたことでした。叔父が逃げてきて祖母にいろいろ話していたとき、私はそこにいてこの訃報を聞いたのです。(呉大興と章歩錦と朱玉静が記録)

  
「Imagine9」【合同出版】より



軍隊のお金を


みんなの暮らしのために使う

世界



1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、又はその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。
 世界の軍事費は、今世紀に入ってから特に増え続けています。世界の軍事費の約半分はアメリカの軍事費なのですが、そのアメリカが、2001年の「9.11テロ」をきっかけに、「テロとの戦い」と称してイラクを攻撃したり、世界中のアメリカ軍を強化したりして、軍事費を増やしているからです。
 その一方でアメリカ国内では、社会保障や教育すら十分に受けられない人々が増えています。ハリケーンがアメリカを襲った時、これらの貧しい人々が最も大きな被害を受けました。これによって「超大国アメリカ」の中の貧困問題が目に見える形で浮かび上がりました。

 世界的には、いわゆる北の先進国が莫大な軍事費を使う一方で、南の途上国では貧困が広がっています。「人類の5分の1が住む国々では、人々は1杯2ドルのコーヒーを当たり前に飲んでいるのに、別の5分の1が住む国々では、人々は一日1ドル以下で暮らし、子どもたちは蚊帳(かや)がないためにマラリアなどの病気で死んでいる」(国連開発計画=UNDP,2005年)というのが、世界の格差の現実です。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月27日金曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺事件の発生当時外相であった、広田弘毅をテーマにしたに小説城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)がある。この本にはその南京占領時のときの日本の対応が以下のように書かれている。
 
 ・・・南京占領は、もう1つ厄介で、後に致命的となる問題を、広田の肩に背負わせた。虐殺事件の発生である。
 事件の概況は、占領直後、南京に入った総領事代理から、まず電報で知らせてきた。
 電報の写しは、直ちに陸軍省に渡され、三省事務局連絡会議では、外務省から陸軍側に強く反省を求めた。 
 知らせを聞いた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議をし、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。
 また南京の日高参事官らは、現地軍の首脳を訪ねて、注意を促した。
 最高司令官の松井大将は、「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」といい、「命令が下の方に届いていないのでしょうか」との日高の問いに、
「上の方にも、悪いことをするやつがいるらしい」と、暗然としてつぶやいた。
 悪戦苦闘の後、給養不良のまま軍が乱入すれば混乱の起こることをおそれ、松井は選抜部隊のみを入城させることにし、軍紀の維持についても厳重な注意を発しておいたのだが、いずれも守れなかった。 
 松井は作戦の指揮をとるのみで、各部隊の統轄は、松井の下の在る朝香宮(あさかのみや)と柳川平助中将の2人の軍司令官、さらに、その下の師団長たちに在る。
 柳川はもともと松井と仲がよくない上、上陸以来、「山川草木すべてみな敵」と、激しく戦意をかきたててきた将軍であった。また、師団長の中には、第16師団長の中島今朝吾(けさご)中将のように、負傷したせいもあって、かなり感情を昂ぶらせて(たかぶらせて)いた男が、南京警備司令官を兼ねるということもあった。
 日高参事官は、朝香宮も訪ねて、
「南京における軍の行動が、世界中で非常に問題になっていますので」
 と、軍紀の自粛を申し入れた。朝香宮自身は、司令官として着任されて、まだ10日と経たない中の出来事であった。
 南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、殺人・強姦・略奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
 市内はほとんど廃墟同然で、逃げ遅れた約20万の市民が外国人居住地区に避難。ここでは、約30人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。残虐行為はこの地区の内外で起こり、これを日夜目撃していた外人たちは、その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、各国に公表。日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。
 現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、事務局連絡会議でも陸軍省軍務局に、強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。このため、参謀本部第二部長本間雅晴少将が一月末、現地に派遣され、2月に入ってからは、松井最高司令官・朝香宮司令官はじめ80名の幕僚が召還された(とくに懲戒措置とはことわらなかったが)。
 朝香宮は、わざわざ外務省に広田を訪ね、堀内外務次官立会いの下で「いろいろ御迷惑をおかけしました」と、広田にわびた。
 現地南京では、ようやく軍紀の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。
 だが、治安の回復の最大の理由は、主力部隊が南京を後にし、進発したことであった。さらに中国の奥地めがけて、戦局は拡大されて行く。そして、行く先々に日の丸の旗がひらめき、「万歳!」の声が上がる。それは、和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。・・・・・・・・・・・・・・

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 潘開明(男、67歳)の証言
 私の家は旧は双井巷6号でした。父も母も早く死にました。
日本軍が南京に入ってくる前に、私は叔母と弟と3人で鼓楼二条巷の難民区に引き移りましたが、番号が何番だったのかは覚えていません。私はその頃の職業は昼間は床屋で、夜は人力車の車牽き(くるまひき)でした。
 1937年12月に、日本軍が南京で人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、ありとあらゆる悪事をしました。日本軍が入ってきて2日目に、私の家に闖入してきて、二の句を継がせずに、私を捕まえ、華僑招待所まで引っ張っていって、そこに一日閉じ込めました。3日目の午後2時過ぎに、彼らは縄で私を縛り、300人余りの人と一緒に、下関の煤炭港まで連行しました。連行して行くとき、私たちが逃げ出すのを防止するために、私たちに通りの真ん中を歩かせ、日本軍が道の両側に、1メートル間隔で監視していました。凡そ4時になろうとする頃に、煤炭港に着いて、みんなを集め、機関銃で掃射しました。日本軍が掃射しているとき、私は目から火花が出るようでチカチカしていましたが、突然目が眩んでしまいました。しばらく、死体が私を地に押さえつけていて、晩の9時か10時頃になって、やっと気がつきました。月がとても明るかったのですが、私はまだ自分が活きているのかどうかわからないでいました。人間なんだろうかそれとも亡霊なんだろうかと、自分で自分に聞きました。日本兵が機関銃で掃射して、まだ生きていられるわけがあるだろうか、人間であるはずがない、と内心思いました。頭を上げて見ましたら、ほかにも座っているのが何人かいて、縄でしばられているのもいれば、しばられていないのもいました。「よう、助けてくれや。死んでないんだ。縄をといてくれよ」と、私は言いました。私たちは互いに縄を解き合った後、それぞれ東へ行ったり西へ向かったりで、ある者は長江を渡ろうと木のたらいを抱え、ある者は和記洋行へ駆けつけました。私はこの土地の者で、家にはまだ叔母と弟がいるので、逃げては行かれませんでした。私は線路に沿って、汽車が長江に差し掛かる所まで行き、岸辺で体についた血を洗い落とし、近くの人家まで行き破れた衣服をもらって着替えました。その頃はもう夜中で、どうにも歩くわけにはいかず、人の家の辺りにうずくまりました。夜が明けてから、駅の方向へ向かい、熱河路まで来たところで、日本兵4人に出くわし、何をしていたんだと聞かれました。私は「日本の先生たち」の荷物を引っ張ってきてあげて、その人たちが汽車の駅に入って行ったので、家に帰るのだと言いました。書き付けがあるかと又聞かれたので、無いと言いました。すると「クーリー(苦力=辛い役務を強いられた労働者)に使った」と紙に書いたのをくれました。その人たちについて行って挹江門を入ると、鉄道部まで来て、その人たちが入って行ったので、私は察哈尓路沿いに山を越えて逃げて行きました。道でお年寄りに出会ったので、その人に土下座し、物を乞うて食べました。今はどこにでも日本兵がいるから、行ってはいけない、日本兵に出くわしたら殺されるぞ、とそのお年寄りに言われました。夜まで隠れていて家に帰ったら、叔母は至る所私を探していたので、私はもうちょっとで命を落とすところだったんで、九死に一生を得たんだよ、と言ったのです。叔母と私は大泣きに泣いたのです。(蒋琳が記録)

 
「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
 ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
 裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」

 ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
 スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
 こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月26日木曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺について中国と日本の教科書はどのように扱っているのだろうか?笠原氏の著書(『「百人斬り競争」と南京事件』)に中国と日本の教科書の記述が載っている。
 ・・・たとえば、中国の『新世紀ー義務教育課程標準実験教科書・歴史』(2001年に教育部が公布した「全日制義務教育歴史課程標準)に基づいて、北京師範大学出版社が2002年に発行)にはこう書いてある。

 【南京大虐殺】1937年12月、日本軍は南京を陥落させた。つづいて日本軍は集団銃殺、焼殺、生き埋め、斬首、軍犬に噛み殺させるなど、きわめて残忍な方法で南京市民や捕虜となった兵士に対して血なまぐさい虐殺を行い、この世で最も悲惨な南京大虐殺事件を引き起こした。12月16日、日本軍は華僑招待所に収容していた中国人市民と捕虜になった将兵5000余人を中山埠頭へ連行し、機関銃で射殺したの後、死体を長江へ捨てたり、焼却したりした。18日、日本軍は南京幕府山に拘禁した老若男女5万7000人を全員針金で縛り、下関の草鞋峡へ連行、機関銃で射殺した。さらに、倒れて血の海の中で呻吟している群衆を銃剣で刺し殺した。それから日本軍は石油をかけて死体を焼却し、骨となった死体を長江へ捨てた。
 日本軍はさらに常軌を逸した「殺人競争」をおこなった。日本軍少尉の向井敏明と野田毅は、南京を占領した時に、先に100人を斬った者が勝利者になるのだと決めた。2人の殺人魔が血に飢えた日本刀を持って紫金山の山麓で会見した時、野田は105人、向井は106人を斬り殺していた。どちらかが先に100人を斬り殺したか分からないので、勝負は決まらなかった。そこで2人は改めてどちらが先に150人を斬り殺すかで勝負を決めることにした。1937年12月、日本の『東京日日新聞』は「勝利者」の口調で「殺人競争」を報道した。日本軍側はこれを「国威発揚」の「光栄ある手柄」と考えたのである。
 統計によれば、日本軍が南京を占領した6週間の間に、寸鉄も帯びない南京市民と武器を放棄した中国兵にたいする虐殺は30万人以上におよんだ。南京大虐殺は日本の侵略者が中華民族にたいして犯した重大な暴行の1つである。(引用者訳)

 いっぽう日本の中学校歴史教科書は8社から出版されているが、全社の教科書に南京事件が記述されている。8社のなかで一番詳しい記述をしている清水書院のもの(2006年版)にはこう書かれている。
 

 日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器を捨てた兵士、老人・子どもまでも含めた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせてこの時の死者の数は多数にのぼると推定されている。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。

 日本の歴史教科書には「百人斬り競争」については」まったくといってよいほど記述されていない。また、歴史学事典の類にもほとんど記述されていない。・・・・・・・・・・・


 ちなみに私の手元にある昭和53年版の山川出版の高校歴史教科書には南京大虐殺の記述はない。
    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 陳徳貴(男、67歳)の証言
 1937年12月12日に、私は下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日に、日本軍が下関にやってきて、ここに私たち難民がいっぱいいるのを見つけました。翌日の朝、日本兵が200人近くきて、何千人もの難民の中から2千8百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを4人1列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、私たちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。3日目の朝、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人がすぐに押し出されて行って、まもなく、ひとしきり銃声が聞こえました。少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されていき、またもやひとしきり銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、私には分かりました。日本軍が三番目のの人たちに出て行かせようとしたときに、私は出て行きました。それは午前8時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵が私たちを押していくのでした。長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に30何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだと私はすぐ気付きました。私が水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、私は思いっきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう岸までもぐっていって、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから10人ずつ、10人ずつと日本兵に銃殺されていくのをこの目で見たのです。
 朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が6,7百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。暗くなり、日本軍が行ってしまってから、私は手探りで岸辺までやってきて、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れじゅうたんを一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。あくる日日本兵が何人か桟橋からやってきて、私が震えているのを見つけ、私を狙って一発撃ちましたが、弾は私の太ももを抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵は私が死んだと思って、行ってしまいました。3日目になって、死体を片付ける人たちが私のまだ活きているのを見つけて、私を救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。(李文奎と劉雯と馮中美が記録)


「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

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2009年3月25日水曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 結びにかえてー今問われているのは何か(この本は1999年版です。)
国民が裁いてきた南京事件
戦後の西ドイツの政府と国民がナチスの戦争犯罪を追及し、裁いたように、戦後日本において、政府と国民が戦争責任を追求する国民運動を展開していれば、そうした南京事件の全貌と責任者の解明も可能であったと思われるが、日本政府ならびに国民はそれを回避してしまった。そのこともあって、東京裁判と南京軍事法廷で裁かれた南京事件の事実に対する歴史認識は、多くの日本国民には定着しなかった。
 戦後の日本政府は、西ドイツと違って、事実を解明し、その責任を問うということを回避したばかりでなく、逆に、80年代になると文部省は教科書検定において、日本軍の組織的行為であると記述した家永三郎著『新日本史』の南京大虐殺記述の書き替えまでも強要した。
 こうした日本政府の無責任な対応に対して、国民の側が南京事件を裁こうとした裁判が、家永教科書裁判であった。
 家永教科書裁判は、歴史教科書における南京事件の記述をめぐる裁判であっただけでなく、日本国民の南京事件の事実認識が問われた裁判でもあった。その証左が、裁判の審理と並行するかたちで、事実をめぐる「南京大虐殺論争」が展開されたことである。その意味では、家永教科書裁判は、日本国民の南京事件認識を裁いたものであったということができる。
 南京事件から60年目にあたる1997年8月29日、最高裁は32年間にわたった家永教科書訴訟にたいする判決を言い渡し、事件をめぐる文部省の教科書検定が違法であったことが最終的に確定された(南京事件をめぐる教科書裁判の経緯は、教科書検定訴訟を支援する全国連絡会編『家永教科書裁判・第三次訴訟地裁編4 南京大虐殺、731部隊』および同編『家永教科書裁判・第三次訴訟高裁編2 南京大虐殺、朝鮮人民の抵抗、731部隊』を参照されたい)。「南京大虐殺論争」も学問的にはすでに結着がつき、政治的な意図から南京事件の事実を否定しようとする一部の人たちを除けば、歴史事実そのものは否定できなくなった。中学校や高校の歴史教科書の南京事件記述も最近はだいぶ改善されてきている。
 今後の日本国民に求められているのは、センセーショナルな論争から脱却して、歴史事実とその全体像を冷静に認識していくことであるように思う。・・・・・・・

    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

史栄禄(男、69歳)の証言
 私は史栄禄と言います。私の兄は史栄銘と言い、今年72歳です。私たち2人は日本軍が大○史でやった集団虐殺の証人です。「大○子」とは、土地の人が「史家大○子」とも呼んでいた、幅7メートル、深さ7メートルもの大きな巣で、今の棲霞区建築公司の採石場の近くにありました。
 1937年に、日本が南京を侵略した時、私は避難しに江北の方へ逃げました。やがて食べる米が無くなり、又米を取りに長江を渡ってきていました。ところがその後、日本兵が長江を封鎖したため、もう江北へは行かれなくなってしまい、家で隠れているしかありませんでした。12月のある日、私は日本兵がたくさんの「中央軍」と普通の平民とを下流の笆斗山から追い立てて老虎山の下の大○子に集めてきているのをこの目で見ました。あの長江の2百ムー(畝)もの浅瀬に、武装解除された「中央軍」と無辜の民衆とがびっしり詰まったのです。日本兵は外側にいる「中央軍」のゲートルをはずさせ、そのゲートルをまた結びつけさせて、逃げ出すのを防止したのです。それから、彼らは日の丸の旗が挙がるのを合図に、機関銃三挺で、右へ左へ交差させつつ掃射し、身に寸鉄を帯びていない「中央軍」と無辜の者とを全部射殺したのです。死なないのは、日本兵が銃剣で突き刺したのです。翌日にも日本兵は追い立てを続け、中国人を大○子の後ろに追いやり、初めの日に殺した死体を長江まで運ばせて捨てさせ、それから又その中国人を掃射したのです。こうして3日続けて虐殺し、銃殺された「中央軍」と無辜の者たちはおよそ2万人余りにもなったのです。(劉虎と姜秀華が記録)

     

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


9条がゆきわたった世界を。



Imagine,

A world filled with 

Article 9.



憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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