2009年3月2日月曜日

1938年 南京 4月のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
 9日には、中華門の城外南方の農村地域の婦人たちが、次々と嘆願署名にやってきて、悲しい顔で彼女たちの悲劇を語っていた。同地域では、農家が焼かれ、水牛が日本軍の食肉用に殺害され、そのうえ一家の大黒柱の男性を殺害されてしまったため、村に帰っても農業をいとなむことはできないでいる。わずかに作物を作り始めた農夫がいるが、日本兵がやってきて、作物を盗むし、脅迫をするしで、とても危険だという。
 その日の午後、大変美しい若い婦人が3人の子どもをつれて嘆願署名に訪れ、夫が拉致されて不明のまま、助けてくれる人もいないと悲しそうに話していった。この日で署名者は1035名になった。その数字の1つ1つに夫や息子を失った女性の悲劇がこめられている。数日後には、3ヶ月前に3人の息子を拉致されたという初老の母親が、ヴォートリンたちに会えば、何とかして息子たちを帰してもらえる方法を知っているのではないだろうかと訪ねてきた。
 このころになると、日本軍の南京攻略を前にして周辺の農村に避難していた婦人や娘たちが5,6ヶ月ぶりに城内に戻ってくるようになった。しかし、帰ってはきたものの、自分の家は焼かれ、あるいは破壊されている人たちがほとんどで、多くが路頭に迷い、金陵女学院の難民キャンプに収容してほしいとやってきた。ヴォートリンにとってつらかったのは、南京国際救済委員会はすでに5月31日をもって安全区の難民キャンプをすべて撤去することを決定しており、新たな難民を受け入れないように申し合わせていたことである。それでも、ヴォートリンは、日本兵に凌辱される危険のある若い娘たちは収容してやろうと考えていた。
 生命の保護も含む救済を求めて大勢の女性が金陵女学院にやってきた。これ以上保護・収容ができないと告げられても、キャンパスを去ることができず、何度も立ち止まっては、恨めしげに、悲しそうにふりかえる女性たちを見ると、ヴォートリンは胸を締めつけられる思いがした。「私たちの力量、忍耐、資金のどれもが限られている。私たちにはできることしかできない」と12日の日記に記す。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺
湯正有(男、82歳)の証言
 1937年の冬には、私の家は鼓楼三条巷1号でした。日本軍が南京を占領して間もないある日、突然日本軍の車が1台やってきて、日本兵が数人車から飛び降り、我が家のあたりから青壮年を3,40人捕まえて行ったのですが、私もその1人にされました。車に乗せられ、漢中門の外の河べりに着いた所で、降ろされ、河の真ん中まで引っ立てられて行きました。冬だったので、河の水はあまり多くはありませんでした。両岸に日本兵が何十人も銃を水平に構えて立っているのが見えるだけで、私たちはその中に挟まれているのでした。河に立たされていた中国の同胞は少なくとも4,5百人はいました。しばらくして日本兵の笛の音が響いて、機関銃がうなり始め、世にも凄惨な大虐殺が始まって、身に寸鉄も帯びていない普通の平民が悲惨にも血の海の中に倒れ、叫び声とうなり声と怒りののしる声とが、あたり一面にぐあんと響き渡りました。けれども私は倒れた人の群につまずいて倒れ、幸いにも機関銃には当たりませんでした。日本兵が行ってしまってから、体を動かしてみたところ、まだ活きているとわかりましたが、からだ中が死んだ同胞の血で真っ赤に染まり、、泥だらけでした。私は腹を据えて、死んだ同胞の屍(しかばね)の中から這い出し、辺りを見回して、迅速に殺人現場を離れました。漢中門、龍蟠里、清涼山と沿って行き、びくびくしながら、日本兵に取り調べられないように隠れ隠れして、夕方ごろに、ようやく自分の家に帰り着きました。その時、私はもうへとへとで、あの世で活きているかのようでした。あの時の日本軍が人殺しをしたむごさと私自身のこの九死に一生を得た体験とを振り返ると、今でもまだはっきり記憶していますし、永遠に忘れることはできません。(廖美慶が記録)
  
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月1日日曜日

1938年 南京 4月のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
 1938年3月28日の中華民国維新政府の成立以降、南京の秩序も表面的には回復し、日本軍の残虐行為もずっと少なくなったので、南京大虐殺事件、略称としての南京事件は一応この時期に終焉したと考えることができる。しかしその後も、南京における日本軍の残虐行為はあとをたたなかったし、ヴォートリンが南京事件が女性に与えた悲劇の深刻さを改めて知らされるのも、その後のことであった。そこで、彼女のその後の日記を紹介しながら、南京事件のその後の日々をたどってみよう。

1938年4月
 国立中央大学の付近にある模範刑務所に元兵士の嫌疑を受けて多くの民間人が入獄しているという情報をもとに、ヴォートリンの救出活動は粘り強く続けられた。南京市政府公署の顧問をつとめる許伝音博士から、収容されている民間人の釈放を求めるには新たな形式の嘆願書と名簿の提出が必要であるといわれたヴォートリンは、4日間をかけて新しい書類を作成させる。「男性の釈放が、たとえそれが10人だけであろうとも、あるいはたった1人だけであっても実現すれば、私たちの努力は報われるのだ」とヴォートリンは1日の日記に書いている。
 夫や息子を拉致された女性たちが、同刑務所からの釈放嘆願書に名前を書けば、行方不明のままの夫や息子が戻されるのではないかという一抹の望みを託して、新たな形式で開始された嘆願の署名に、一日に数百人の割合で女性が金陵女子文理学院を訪ねてくる。夫や息子が生きて戻ってくる可能性がほとんどないに等しくても、それでも疲れを忘れて、あらゆる手段を尽くし、必死に探し続ける女性たちを目の前にして、「彼女たちの傷ついた心を知るのは、何と悲しいことか。涙がこみ上げてきそうになる。私たちはこの嘆願に対してあまり期待を持たせないようにしている」と4日の日記に書いている。
 6日の日までに、935名の釈放嘆願署名が集まったが、そのうち模範刑務所に収容されているのを確認できているのは10人に過ぎなかった。嘆願書の受付時にスタッフが調査した結果では、上記の嘆願者総数のうち、241名の女性が、一家の働き手の男性を失って収入もなく、何人かの子どもと老人を抱えたままで絶望的な生活状況にあることが判明した。


今日から新たに南京大虐殺の生存者の証言を載せていきます。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺
伍長徳(男、76歳)の証言
1937年12月に、日本軍が南京に接近していた時、家の者たち(父、母、妻、息子)は蘇北へ疎開し、私だけが南京に留まり留守番していました。その時私は南京で警察官をしていました。日本軍が南京を占領してから、人を見れば殺したので、人口100万だった南京はほとんど空っぽの町になってしまいました。私は国際委員会の「保護」を受けている司法院の難民区に避難しました。
 12月15日の午前8時ごろ、突然日本兵が十数人やって来て、銃剣で青壮年の男子をみんな外へ追い立て、道路に集められたのが全部で2000人以上でした。11時ごろに、私たちみんな列になって連れて行かれたのですが、首都映画館(今の勝利電影院)の前まで来たときに、後ろからトラックが何台かやってきて、日本兵と機関銃とを運んで来、このトラック数台が先頭になって、首都映画館からまた出発しました。午後1時に漢中門まで来ると、私たち2000人余りを城門の内側に停まらせ、座れと命令しました。次に日本兵2人が、端と端とを持った長い綱で、座っている群れから100人ほどを囲い出し、その周りを大勢の日本兵が取り囲んで、漢中門の外へ連れて行き、機関銃で掃射しました。こうゆう風にして、捕まえられて来た人たちが、100人、200人と、綱で囲い込まれ、次々に漢中門の外へ連れ出され銃殺されていくのを、私はこの目で見たのです。たまたま神経障害で、体の動かない人がいたのですが、その人もその場で殺されました。午後5時過ぎになって、私自身も囲い出されてしまい、日本兵が私たちを城壁の外側をめぐる河辺に連れて行き、土手の斜面の下まで追い立てました。土手の両側に、機関銃が2台据えられていましたが、よく見ると、目の前にごろごろしているのがみんな死体の倒れ伏しているのでした。慌てた私は、思わず前のめりに23歩つんのめって、どさんと、死体の山の上に倒れこんでしまいました。ちょうど私が倒れたと同時に、銃声が響き、人々が次々に倒れて来て、私は他の人の死体の下に埋まってしまいました。機関銃の射撃の音がしなくなると、すぐ又小銃の音が響きました。小銃の音がしなくなったと思ったら、死体のうずたかくなった上を人が歩いているような感じがしてきました。私は河岸の方に向いて頭を抱え込むようにして突っ伏していたので、背中の上の死体を通して、その上を歩く人の圧力を感じたのでした。その時不意に、背中に一太刀見舞われたのが、焼け付くように痛かったです。日本兵が死体の上でまだ息の絶えていない人を刀で刺し殺したので、その刀の突ッ先が私の背中の上の人の体を突き抜けて、私の身体まで突き刺したのです。この後で又私は2度機関銃の音が響くのを聞いたのですが、2回にわたってみんなを虐殺したのです。それから日本軍は火をつけて死体を焼いたので、私は猛烈な煙と火とに堪えられなく、耐え切れなくなり、真っ暗なのに乗じて、危険を冒し、痛みを堪えて秦淮河に跳びこんだのですが、幸いなことに河は水が多くなく、後で又そうっと南の方に這っていって、水西門のところで這い上がり、瓦廠街9号あたりのある家の台所に隠れたのですが、丁度よくわらがつんであったので、そこにぶっ倒れてこんこんと眠りこんだのでした。そこで初め10日ほど過ごしてから、いつまでも隠れているわけにはいかないと思い、かまどの灰を顔に塗りたくって、物乞いのかっこうをし、やっとのことで難民区に逃げ戻ったのですが、それから鼓楼病院へ送られ50日余り入院して、ようやく刀の傷が治ったのです。今でも背中に長さ5寸余りほどの傷痕ががあるのです。
 1946年5月に、極東国際軍事法廷で戦犯を裁いた時に、私は証人の1人として、東京へ行き出廷して証言し、自ら被害を受けた経過とこの目で見た事実とをもって、日本の侵略軍の狂暴な行為を告発したのです。(朱文英と汪道明が記録)
  
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが

平和をつくる世界


ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月28日土曜日

1938年 南京 その後のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月28日 月曜日
 うららかな天気が続いている。避難民たちは、日なたにぶらぶらと出て行くのが大好きだ。いたるところで「芝地」が濃くなりつつある。庭師は、折れたり踏みつけられたりした潅木を引き抜き、そのあとによりましな木を植えている。文科棟の屋根の修理が行われている。
 唐老板は、避難民の居住に伴う被害を見積もることに昼間の時間を費やした。その額は、6棟分で概算6800ドルにのぼる。木造部と床板はすべて修理が必要だ。ほとんどすべての壁面の仕上げ直しが必要である。窓の締め具のような金具類は、それがうまく機能しない場合には乱暴に扱われていた。
 ニューヨークに送る報告書の作成に昼間の時間の大部分を費やし、5時にそれを大使館に届けた。日本軍による被害の報告も作成した。ほかの人たちの被害が、私たちの被害と同程度に軽微であればよいのだが。
 午前中メリーは、ひどい風邪としつこい咳で病院へ行った。ブランチ呉が18日間の入院から帰ってきた。彼女は理科棟の実験室で生活すると言い張っており、私としては、それに反対したくてもどうすることもできない。
 午後1時30分、キャンパスの状況視察に将校1名と兵士2名が来訪した。彼らは避難民の人数についても尋ねた。私はいまだに帰ってこない夫や息子たちのことについて彼らと話し合うよい機会を得た。将校が言うには、模範刑務所には1000人以上の捕虜がいるが、彼らは兵士と将校であるとのこと。彼の情報によれば、民間人はいないというのだ。
 午後3時ごろ4人の兵士が見学にやってきた。彼らは友好的で、図書館に深い関心を示した。一番陽気な兵士は手に地図を持っていた。どうやら、南京見物をするつもりらしかった。
 兵士と民間人の死体の埋葬を担当していた紅卍字会の作業員の1人の情報によれば、死体は、それらが投棄された長江から運ばれてきたものだそうだ。彼は、死体数についての情報を提供することを約束してくれた。


3月15日 火曜日
 今日は昨日よりも暖かく、日差しが明るい。飛行機が頻繁に飛んで行く。城内に新しい部隊が入っているそうだが、だからと言って、私たちの平和が増進されるわけではない。・・・・・

 悲劇的事件の1つー18回ないし19回も強姦された女性(48歳)と、2回強姦された彼女の母親(76歳)-を写真に収めるため、11時30分、J,M(ジョン・マギーのこと。検閲される可能性を恐れてイニシャルだけにしたと考えられる)と一緒に城南へ行った。この話は、冷酷非情な心をもってしてもとうてい信じられない。南の各門に通じる街路のいくつかは、いまでもほとんど人通りがなく、人が通っている街路でも女性はお年寄り以外はほとんど見かけない。莫愁路は、全体が活気に溢れた市場だ。商売がさかんに行われている。誰かが言っていたが、10人のうち8人までが商売に携わっているそうだ。それ以外にはすることがないからだという。街路に大勢の人々が集まるのは、1つには、大勢集まっているほうが安心感がもてるからだと思う。女性にとっての危険は、確かに少なくなっているが、しかし、略奪は依然として続いている。残念なことに、まとまったお金のある商人の家に中国人が頻繁に兵士を連れて行くのだ。銃や銃剣を持っているのだから、お金を渡さないのは無分別ということになる。
 避難民の再登録がついさっき行われたところだ。現在、避難民は3310人だ。14人の避難民が新たに収容された。去年の晩秋の頃農村地域へ避難した女性たちだ。お金は使い果たしてしまったし、匪賊は横行しているし、と言うわけで彼女たちは、復路の旅と南京(での生活)に伴う危険にあえて向き合うことにしたのだ。おそらく、彼女たちは、安全区のことや難民収容所のことを聞いたのだろう。
 今朝城南で大勢の兵士ー騎兵や歩兵ーを見かけた。彼らが我が物顔に通りを闊歩するのを見ると、私は、心の隅々まで本当に反発を覚える。私たちが通り過ぎた大通りの商店の大部分は全焼するか、徹底的な略奪をこうむるか、そうでなければ閉鎖されていた。日本人がチョコレート店を再開したものの、商売本来の趣は見られなかった。
 今日は2つのグループの兵士が来訪した。
 このページを書き終える頃、北西方向から句容へ帰還する爆撃機数機の爆音が聞こえる。澄み渡った月夜で、飛行の妨げとなるものは何もない。

「この事実を・・・・・」(章開沅/編  加藤実/訳)より
5月13日 金曜日
 午前中ーというより、その残った時間をー費やして、この秋の学期の初級中学と高級中学のカリキュラムを仕上げようとしている。
 典型的な事例が2つ、今日午前中オフィスにやってきたー江老太と娘さんが来訪した。その物語ー53歳の息子がいて、何年も肺結核を患っている。その息子に、妻と息子がいる。もう1人33歳の息子がいて、稲の脱穀場で機械を動かして、月に40ドル稼いでいた。この息子に、妻と3歳から10歳の子ども4人とがいる。9人全部が、この33歳の息子に頼っていた。家族のうち8人が去年の秋、長江の北へ避難し持ってたものをすっかり使い果たした。33歳の息子が、日本兵に殺された。

 その後ある人が、劉老太の物語を私に聞かせにきたー50歳くらいの婦女で、三碑楼の近くに住んでいる。息子が3人と嫁が2人いる。4日前に、兵士が2人午後10時ごろやってきて、戸を押しても開かないので、無理やり窓から入り込んだら、劉老太の部屋だった。嫁を出せと要求し、彼女が拒否して憲兵を探しに行こうとしたので、顔を2ヶ所切りつけ、心臓を1ヶ所刺した。彼女はその傷で死んだ。
 この2つの悲劇は、今日私が聞いたものだ。ほとんど毎日私は、こういう心張り裂ける話を聞いている。誰だって心痛んで尋ねずにはいられない、「どれくらいこの恐ろしい状態が続くんだろう?どうやったら耐えられるんだろう?」
  
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが

平和をつくる世界


戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月27日金曜日

1938年 南京 2月27日とラーベのその後

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
 帰国後のラーベ(エルヴィン・ヴィッケルト編)
尋問は厳しいものではなかった。ゲシュタポはラーベを、彼自身が常日頃強調してように「百パーセント、ドイツの政策に従順」であり、面倒を起こす人間ではないと見てとったのだろう。正しかろうと、間違っていようと、祖国は祖国ーそれがラーベのモットーだった。きわめて疑問の多いこの原則に従って、ラーベはゲシュタポの言うとおり沈黙した。だが戦後、かつてゲシュタポににちょっとつきまとわれただけで、まるでレジスタンス運動の闘士だったような顔をしたがる人間が多かった時代にも、ラーベはこの時の一件を言い立てなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・

 ジーメンスに電話してもラーベを連絡が取れなかったため、私は彼の強制収容所行きを信じていた。実際には、彼は社から派遣されてアフガニスタンに赴任しており、まもなくベルリンに戻ったのだが。その後戦争が終わるまでジーメンスで働いたが、もはや責任ある仕事は与えられなかった。ラーベは自分の会社について悪口や批判めいた言葉を決して吐かなかったが、ジーメンスの扱いは理解に苦しむものだった。・・・・・・・

 数十年にわたってラーベは日記を書き続けた。彼はそれに情熱を傾けていた。だが、ゲシュタポに日記を押収されて以来、どうやら日記を書く意欲を失ってしまったらしい。また、今はリスクが大きすぎるという考えもあったかもしれない。・・・・・

 戦後の日記
 ソ連軍がジーメンス・シュタットに進軍してきた1945年4月24日、ラーベは再び日記をつけ始めた。
 ヒトラーや他の指導的立場にあったナチ党員についてはほとんど記されていない。意識から抹殺したのである。ラーベにとって彼らはもはや何の興味もない存在だった。
 ラーベはなかなか非ナチ化(旧ナチ党員を審査し、償いをさせたうえで復権させること)を許されなかった。それは次の2点による。まず、1938年の帰国後、「ナチ党の正体」を見届けた時点ですぐに脱退しなかったため。もう一点は、短期間と言えども南京で党支部長代理を務めたからである。
 第二審でやっと非ナチ化が許され、再びジーメンスに雇われたが、またしても責任あるポストではなかった。
 ベルリンのヴィルマースドルフに住んでいたラーベ夫妻は、1943年、空襲で焼け出されてからは、ジーメンス・シュタットの娘婿の家に移った。その一室が彼の最後の住まいとなった。
 2人は飢えに苦しんだ。ソビエト軍のトラックから落ちたジャガイモを2個拾ったことは、日記に書きとめておくほど価値あることだった。妻が秋に拾っておいたどんぐりの粉で作ったスープも食べた。いよいよ蓄えがなくなったときは、イラクサも食べた。ラーベは、サラダ菜のようにおいしかったと記している。
 だが、ラーベは嘆かなかった。他の人たちも同じ状況か、あるいはもっとひどいのではないかと思ったからである。
 1947年、65歳になった彼は退職したが、年金では暮らせず、ジーメンスで臨時の仕事を続けた。
 この年、ラーベは「ひどく疲れた」と書いている。「南京では何十万の人々の生き仏と言われたが、ここではのけ者、落ちこぼれ打。おかげでホームシックも治ってしまった」
 彼は人生をあきらめた。
 その頃、中国の軍事顧問団が彼の居場所を探し出し、食べ物を持ってきた。蒋介石夫人は秘書を通じてラーベに伝えてきた。南京での恩に報いることができれば嬉しい、と。ラーベは中国に移住するように勧められ、住居も年金も約束された。ただし、東京裁判に検察側証人として出廷するのが条件だった。だが、ラーベは断った。なぜか。
「私は彼らが死刑になるのを見たくはない・・・・それは償いであり、ふさわしい刑罰には違いない。だが、裁きはその国民自らによって下されるべきと思うのだ」
 暮らしに困っているとのうわさを聞いたかつての国際委員会の友人、ミルズの妻がラーベの住所を調べて、アメリカ人や中国人たちから募金をし、救援物資を送った。ラーベはあいかわらず貧しかったが、もはや飢えることはなかった。

 1950年1月5日、昼ごろ、彼は会社で脳卒中の発作を起こし、その後息を引き取った。埋葬には妻や子どもたちの他、数人の友人が参列しただけだった。
    ※以上で一応「南京の真実」からの引用は終了です。

 
 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月27日 日曜日
 今朝は南門キリスト教会で初めての礼拝が行われた。60人近い人が出席。聖パウロ聖堂で40人近い人が出席して2回目の礼拝。聖パウロ聖堂には1人の日本兵のクリスチャンが出席していた。家々を訪問する女性奉仕者がどの地区にもいればよいのだが。・・・・・・・・


 神学院の舎監をしている李さんに、金陵女子学院に転居するよう要請したが、しかし、彼女は現在地を離れることができない。というのも、そこではすぐに仕事が持ち上がるからだ。
 3号でミルズ氏の主宰により礼拝が行われた。主題は「よりよい世界への確信」だった。
 私たちの仲間では病人が続出した。ここではメリーと呉さんが寝込んでいるし、ブランチは入院中、王さんは体調がすぐれない。
 春の天気が続いている。現在、兵士の交替が行われているそうだ。その結果、事態が改善されることになるのだろうか。
 
「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月26日木曜日

1938年 南京 2月26日とラーベのその後

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
30年の中国滞在を終え、再び祖国へ(エルヴィン・ヴィッケルト編)
 1938年3月16日、ドーラとコンテ・ビアンカ・マーノ号で祖国へ向かった。香港では、先に行っていた汪がクワイ埠頭で出迎えてくれた。19歳の奥さんとその一族も一緒だった。香港に住んでいるのだ。ここでは3日間、並々ならぬお世話になった。香港のドイツクラブで、ドイツ人会の人たちが歓迎会を開いてくれた。その席で南京での体験を一部、講演した。その後、ファルケンハウゼン夫人をはじめほとんど全員が、船まで見送りに来てくれた。
 マニラとボンベイを経由して、イタリアの豪華大型客船での快適な船旅を終え、1938年4月12日、ジェノヴァに上陸。
 4月13日、ミュンヘンで、息子のオットーが入隊し、オーストリアに進軍したという話を聞いた。オットーとは7年間会っていない。そして4月15日、ベルリンに到着した。


 帰国後のラーベ
帰国前、ジョン・ラーベは中国の全新聞社と世界の主だった通信社を相手に、上海で記者会見を行った。その席でラーベは、アメリカ人宣教師や大学教師、医師などとの緊密な協力、南京の逼迫した食糧事情、人民の窮状などについて語ったが、日本兵による暴虐行為については口を閉ざした。上海の小さなドイツ語新聞「東アジア・ロイド」は、ラーベの日記を一部掲載したが、占領前の空襲に関するところだけで、読者が予想していた残虐行為については触れなかった。・・・・・


 1938年4月15日、ラーベは妻のドーラと共にベルリンに到着したが、ドイツのマスコミは報道を避けた。その後、勲功十字章のほか、中国国民政府から非常に高位の勲章である宝光嘉禾章を授けられた。2つの勲章を胸につけ、タキシードを着こんでかしこまっている写真がある。それを見ると、ハーケンクロイツの腕章を突きつけて日本兵を威嚇し、中国人女性を強姦から守ったラーベとは、まるで別人のように思える。

 ラーベは勲章を誇らしく思ったが、ドイツのマスコミはまたしても報道を許さなかった。その後ラーベは5月2日のジーメンス本社での講演を皮切りに幾度か講演し、同時にマギー牧師が撮影したフィルムを上映した。

 ラーベは講演の草稿を丹念に推敲し、南京での出来事を、生々しく、具体的に描写するよう心がけた。・・・・・・・・・

 ラーベは、予想される質問をあらかじめ見越して、予防線を張っている。例えば、はじめに次のように断っている。
 私は祖国ドイツで反日宣伝活動を企てるつもりはない。公開の場で中国に対する友好的な気運を盛り上げるような講演をするつもりもない。中国の窮状には心から同情を感じてはいるが、まず第一に自分はドイツ人であり、ドイツの政策の「大路線」を正しいと信じているだけでなく、「ナチ党員として百パーセント、これを支持している」と。


 ラーベの切なる願いは、アドルフ・ヒトラー総統に、南京占領の実態と中国人民の苦しみをじかに報告することだった。謁見が叶わないと知った時、ラーベは講演の草稿をヒトラー宛に書簡で送った。・・・・・


 自分の報告を読めば、ヒトラーはショックを受けるだろう。そして対中、対日政策をもう一度考え直すかもしれない・・・ラーベはこう考えたのかもしれない。「君やわれと等しき人」であるヒトラーは、中国人を見殺しにはしない、と。事実彼は日記にそう書いている。それほど素朴だったのだ。

 ラーベはヒトラーからの返事を待っていた。だが返事はこなかった。「それから、思いもかけないことが起きた。」と彼は日記に記している。「それ(ヒトラー宛の手紙を投函して)からほんの数日して、ゲシュタポに逮捕されたのだ。2人の警察官によって6冊の日記帳とフィルムともども車でプリンツ・アルブレヒト通りまで連行された」

 ラーベは何時間も尋問された。だが「丁重に放免され」、「今後、いかなる講演も、いかなる書籍の出版もしてはならないことになった。マギーが撮影したフィルムの上映も禁止された。日記の方は1938年10月に戻ってきたが、フィルムは警察に残されたままだった」



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月26日 土曜日
 うららかな春の天気が続いている。・・・・・・・
 ニューヨークあて無線電報のためのデータ収集に午前を費やした。建物の修繕費用の見積りをしてもらうことなどどうしてできようか。南京には請負業者はいないし、私たちの知っているただ一人の建築設計士である李さんは難民関係の仕事でとても忙しいし、彼に頼むに忍びないからだ。・・・・


 ワクチンの接種は今日も引き続き行われ、700人以上が並んでいる。メリーはひどい風邪をひき、熱を出して寝込んでいる。
 近所の少年3人が私と一緒にキャンパスの西の部分に行った。彼らが一緒に行ってくれて嬉しかったが、彼らのほうも、私に劣らず喜んでいた。お互いに身の安全を守ることになるからだ。いくつかの政治団体が多額の費用をかけてキャンパスの西側の小山に造った巨大な退避壕が目に入った。戦争とはなんと浪費的なものか。1個のヘルメット代が1人の2ヶ月分の食料費にあたり、数ヶ月使用するだけの1つの退避壕の築造費でかなりの規模の小学校が1つ作れるのだ。略奪をこうむった多数の見るも哀れな家や、すべての扉、窓、床板を略奪され、政治的目的で所有されていた何軒かの家を見かけた。そのうちのいくつかの家は、屋根を残して何もかもなくなっていた。この種類の略奪は、日本軍の先鞭にならって一般人が行ったものだ。近隣の人々はとても友好的だ。
 午後、私が外出する時に数人の日本人訪問客があった。どちらかと言えば友好的な新聞記者たちだ。
  

「Imagine9」【合同出版】より



基地をなくして


緑と海を取りもどしてい世界



戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月25日水曜日

1938年 南京 2月25日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月25日
 フィッチとジーメンス中国本社に無線電信で私の到着を知らせた。それぞれアメリカ総領事館と、ドイツ総領事館に打電してもらった。明日の午後、フィッチはアメリカに発つという。その前に是非フィッチに会って南京から持ってきた郵便物を渡したいと思っている。


2月28日
 昨日の午後2時に上海に入港した。もうすっかり出航準備の整ったグナイゼナウのそばを通った時、私の名を呼ぶ声が聞こえたが、何しろ窓の数が多く、どこから聞こえてきたのかわからずじまいだった。フィッチもこの船に乗っていたので、結局郵便物を渡すことができなかった。3時15分過ぎに私が上陸した時には、グナイゼナウは出航しかかっていたのだ。
 税関桟橋を通った時、ドーラの姿が見えた。ドーラの方は遠くて私がわからなかったようだ。


 こうしていま、上海でゆっくりとくつろいでいると、なんだか「ベルリンへ凱旋した鼻高々のドイツ兵」のような気がしてくる。誰もが私を英雄のように扱う。こそばゆくてたまらない。外見からいっても内面的にも、英雄的なところなど何一つないのだから。
 ほめそやされるたびに、あの美しい詩が頭に浮かんでくるーハンブルグの若者が溺れた仲間を助けた。助けてもらった仲間の父親が夕方訪ねてきて礼を言った。「君は命の恩人だ」「命の恩人だって?よしてくれ」こう言って、若者はくるりと背を向けた。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月25日 金曜日
 暖かな天候が続いている。春の球根が顔を覗かせている。庭の棚囲いの中で「迎春花」が咲いている。収容所の新計画作りで午前を過ごした。遅々としてはかどらない仕事ぶりだ。というのも、職員の人数が限られているからだ。
 2時から乳呑児のワクチン接種が始まり、5時20分まで続いた。全部で1117名の接種が行われた。
ブレイディ医師が3人の助手を連れてきた。場所は、2つの南寄宿舎の間の日当たりのよい場所だ。全員に強制的にワクチンを接種することになるのだろうか。
 午後3時、病院の礼拝堂で行われた市内キリスト教徒奉仕者の集会に出席した。聖公会信徒としては男性3人と女性5人の福音伝道奉仕者が出席していた。・・・・・・・・・・・・・・


 ミルズさんは、以前よりも市街が静かなようだ、と言っている。莫愁路はいまや市場通りになりかけている。従来の商店街はまだ出現していない。多くの店がすっかり破壊されたので、商店街の復興には長い時日を要するだろう。
 今日の午後、集会に行く途中、安懐墓地のそばを通った。そこで私は、身元引受人のいない死体の埋葬に紅卍字会の作業員が今も追われている場面を目撃した。むしろにくるまれて壕の中に置かれた、と言うよりは引きずりこまれた死体だ。臭気がとてもひどいので、今では作業員はマスクを使用しなければならない。これらの死体の大部分は占領直後数日間のものだ。
 
 

「Imagine9」【合同出版】より


武器を使わせない世界


 核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月24日火曜日

1938年 南京 2月24日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月24日(ビー号艦内にて)
 11時頃、江陰砲台を通り過ぎた。新聞で読んだほどにはやられていなかった。畑で働いている中国人の姿が見える。軍艦の残骸を通り過ぎた。全部で3隻。日本の砲艦、中国の砲艦、それから中国の巡洋艦海鷹だ。
 
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月24日 木曜日
 晴朗な日々が続いている。避難民たちは毎朝、衣類の洗濯や洗髪に忙しい。水がたっぷりあるのは何という天恵だろう。
 今朝4人の少女が老女に変装して農村からやってきた。彼女たちは、薪炭の山に何週間も身を隠していた。器量よしでたくましい少女たちだが、ひどく悲しそうだ。彼女たちは昼過ぎまでに顔を洗ってきれいになり、午後の集会に出かけた。集会の席に座っているとき、彼女たちはどんな思いを抱いていたのだろうか。
 11時にジョン・マギー、フォースター氏、それにいたって規則正しく説教にやってくる4人の牧師が相談と昼食のためにやってきた。・・・・・・・・・・・

 夜、2月末までに要する避難民対策費一覧と3月の予算を作成した。
 ほとんど毎日、マギー氏かフォースター氏が放送を伝えてくれる。私たちの地区にはまだ電気がきていないので、ラジオが使えないのだ。
 父親、母親、母方の祖母、それに乳呑み児の妹をみな日本兵に殺されたという少年が午後私に会いにきた。少年は彼ら全員が殺されるところを目撃したそうだ。彼と盲目の女性は、金陵難民収容所のことを聞いてここへやってきたのだ。父親は人力車夫だった。
 今朝もまた女性の難民が、12月13日に拉致された彼女の夫の解放に力を貸してもらえないかと、金陵大学からやってきた。彼女は農村出身の貧しい女性で、扶養しなければならない子ども3人を抱えていた。彼女の兄も同じ日に刺し殺されたのだと思う。彼女は、夫が下関にいると思っている。

 

「Imagine9」【合同出版】より


武器を使わせない世界


世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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